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「汀線」について(あるいはある日の日記)

海に関わる言葉にしようと思った。
海に特別な感情や思い入れがあったわけではない。2020年から住み始めた三浦という土地で古本屋を始めようと思った時、「三浦といえば海かな」という単純な発想だった。

妻に付き合ってもらい、海に関わる言葉を言い合うなかで「汀線(ていせん)」という言葉を知った。初めて知ったその単語は、漢字の佇まいが良いなとまず思った。手元のスマホで意味を調べてみると次のようにあった。
「海面と陸地とが接する線。なぎさの線。浸食などにより、絶えず変動する。干潮・満潮時の二つの汀線の中間を海岸線と定める。」〔英和和英地学字彙(1914)〕
「絶えず変動する」という言い回しが古本屋、ひいては「本」という媒体を考える一つの取っ掛かりになっている気がした。
古本屋は基本的に同じ本が無い。その時その時で置いてあるものが変わるし、一度手放すと二度とみることができない本も存在する。
あるいは本という媒体について。なぜ本を読むのか考えた時、自分の凝り固まった認識に揺らぎを与えてくれるから、というのが一つあるように思う。その後の人生を変えてしまう劇的な揺らぎから、何でもない日常に歓びを見出すことができるささやかな揺らぎまで。もちろん逆に認識を凝り固まらせしまうこともある。往々にしてそれらの読書は、既にある自分の認識を補強するためだけに読まれる。そこに揺らぎはなく、時として想像力を奪う。

ちょうどその頃読書会で読んでいた本に次のような一節があった。
「分割線を引いてみようというのか?だが、あらゆる境界線は、無限に流動する総体の恣意的な切断にすぎまい。」
私たちは言葉を用い境界線を引くことで物事を認識しているが、それはその時代や文化などによって規定された仮の分割でしかない。一昔前に常識とされていたことも現在では非常識なことがたくさんあり、境界線は刻一刻と変化する。
何かについて知ること、考えることは、絶えず境界線を更新していく作業だと思う。過去そして未来の線を想像/創造する手段の一つとして本がある。本を読む行為は不断の更新で波のように揺れ続ける無数の線を想像/創造することだ。

そう考えた時、「汀線」というわかりづらい名前を屋号にしても良い気がした。

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