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【2012映画感想】ニーチェの馬

『ニーチェの馬』(タル・ベーラ/2011)を観る。

 荒地に家と馬小屋があり、そこで生活している父と娘がいる。馬がいる。周りには何もない。丘と木と色の失せた土地と落ちた葉があり、落葉は暴風に吹かれて始終動いている。環境は苛酷で容赦なく、日々の生活を同じことを繰り返すことでようやく為し終え、続ける暮らしがある。

 荒れ狂う風の中、父が馬車に乗って帰ってくる。娘はそれを迎え、馬を馬車から離し馬小屋に入れる、馬具を片付け馬車を小屋に格納する。それから家に戻り、右手の不自由な父の着換えを手伝い、貧相な台所でジャガイモを茹でる。ランプに火を灯しジャガイモ一つの食事を終えたら、あとは寝る。夜が明けると娘は家を出て、井戸に水を汲みに行く。家に戻ると父が目を覚ましている。父の着換えを手伝う。一日の仕事を始める前に父娘はパーリンカ(焼酎)を飲む。娘は一口ばかり、 父は二杯飲む。二杯目はより多くを飲む。朝の光の下、眼元に陰がさす。そして一日が始まる。

 1889年トリノ、ニーチェは鞭打たれる馬車馬に抱きつき号泣して気を失う。同情はあらゆる悪の根源だと主張した哲学者の最後の正気の姿だった、という有名エピソードがある。ニーチェに抱きつかれた馬はその後家路についた。この映画はそこから始まる。

 荒地の父と娘の単調な生活の描写の繰り返しは、一見ニーチェの思想の否定のように思える。二人の暮らしの暗さ、重苦しさに比べれば、ニーチェの超人思想など小利口な青二才の捻り出した屁理屈のように見えてくる。しかし、そう単純な話でもないらしい。

 何十年と続いてきた父と娘の世界と時代に、決定的な変化が訪れようとしている。ある日、荒地の家を男が訪れ、パーリンカを売って欲しいと言う。父は男にどうして町で買わないのかと尋ねる。すると男は、荒れ狂う風で町は滅茶苦茶になっていると言う。すべては堕落してしまったと。

    一度だけ登場するこの男は、よく喋る。台詞の極端にすくないこの映画の中では不自然なほど喋りまくる。なぜ崇高さが失われたのか、なぜ神々はいなくなったのか、もともと神々などいなかったことに人が気づいたのはなぜか、思いつきで行動する人間が常に勝利するようになり、崇高さを信じ静かに暮らす人々が敗北し続けるのはなぜか。男の饒舌はまるでニーチェの狂言廻しのよう。ツァラトゥストラの偽者そっくりだ。父は男に言う。「くだらない話はやめろ。もう帰れ」と。

    父と娘と馬の生活の描写は長い長いワンショットで執拗に繰り返される。井戸、馬小屋、台所、茹でられるジャガイモ、食事、ランプ、風の音。二人の行動は機械のように正確とはいえないまでも、行動の目的は常に同じだ。そして、その行動を捉えるカメラの位置は一日ごとに切り換わる。ジャガイモを茹でている娘の正面からのカットが、次の日には右半身を正面に映し、その向こうにある娘の部屋が垣間見える。単調な生活を映し続けるカメラ割りの変化が、世界のすべてを捉えてしまう豊かな瞬間がスクリーンの隅々までを満たす。その世界は終わろうとしているのだけど。

    こんな映画を2012年に観ることができるなんて、と驚いた。昔の映画ではない。回顧上映ではない。2011年に作られた映画だ。これは現代の映画なのだ。

 作中の饒舌な男の冗長な台詞は、いろいろ言っているけど頭の中を素通りしてよく覚えていない。が、中には覚えているものもある。「物事はすべてが決まっていて、その通りに進んでいくんだと思っていた。だが、おれは間違っていた」。この続きは、男は喋らせてもらえない。父が追い返したからだ。

「おれは間違っていた」という台詞は、それはそのままこの映画を観た感想でもある。こんな映画が2010年代にもなって撮られるとは思いもしなかった。素直に映画って凄いんだと思った。

「神は死んだ」という有名なニーチェの言葉も、もしかすると。

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