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【読書記録】「第三の波」アルビン・トフラー

何よりもまずこの訳書の初版が昭和55(1980)年であることを申し添えておく。ちなみにどういう時代かというと、ロシアはソ連だったし、ドイツは東西に分かれているし、EUはECだった。第二次オイルショック真っ只中である。

全体的な印象から記すと、現在なお粗製濫造されている未来予測本と特別変わらないように思えた。大規模な産業構造の変化、多様性、大量生産の終焉、テレワーク、核家族の解体、短命となった企業、生産も担う消費者、国家の崩壊、予測不能な社会、機能分散、どれをとっても現代的な論点に思われる。ひょっとすると40年経った今でも急進的に見えるものもあるかもしれない。きっと今年も上記のいずれかに関する本が出るのだろう。現代のビジネス本にないものといえば、人工知能、スマートフォン、ベーシックインカムくらいである。

この本の論拠は人類史全体に及んでいると言っても言い過ぎではないかもしれない。人類はこれまで第1の波として農業革命を、第2の波として産業革命を経験した。それに次ぐ第3の波を今まさに迎えているというのが全体の骨子である。これは全人類が同時に経験するものではなく、爆心地から波及していくものなので、現代にあっても農業革命や産業革命を迎えていない地域はある。しかし多くの地域で第2の波をまともに被ってきたように、第3の波も逃れることは難しい。

第1の波が押し寄せた時は荘園や官僚制と未開部族の間での抗争が、第2の波ではラッダイト運動が起こったように、第3の波がきている現在、第2(場合によっては第1)の波との間に摩擦が生まれている。それが社会混乱の形になって現れているという。

具体的にどのレベルで「現代的な」論点が取り上げられていたか、概観しておく。

大規模な産業構造の変化

持続可能なエネルギーがまず挙げられていて、石油を中心とした重厚長大な工業からエレクトロニクスへの転換が大きく取り上げられている。また宇宙、海底、バイオといった新規領域への進出が議論されている。

多様性

本書では「脱画一化」という言葉で使われている。当時から新聞は発行部数を減らし、テレビチャンネルは増える一方であった。「情報社会」という言葉は何も最近言われるようになったことではない。

個人の趣向も脱画一化する。あらゆるものを単一の規格に押し込めるのが第2の波のやり方だったが、これからはその必要もなくなる。

大量生産の終焉

第2の波の主要な職場は工場だった。タイムカードを押して配置につき、機械に合わせて単純作業を繰り返すのがこの産業構造の特徴である。しかし構造転換によって工場がなくなれば、定時出勤は必ずしも必要でなくなる。50年前からフレックスタイム制は始まっていた。工場の受注生産も大きく変化を見せた。多くの工場において多種少量生産が普通となった。

オフィスも工場労働をモデルとした形態から徐々に離れつつあり、コンピューターの普及によってペーパーレスのオフィスもすでに登場していたことは言及すべきである。

テレワーク

構成員がコンピューターと向かいっきりの仕事をするのであれば、家庭で仕事しても変わらないのではないか。40年前のオフィスではすでにこんな提言がされていた。実際にテレワークが推奨された事例もある。ビデオ通話やコロナ禍はその障壁を下げたにすぎない。

通勤ラッシュのはコロナ禍が落ち着きを見せてなお解決しない病理である。通勤が通信に変われば、転居によるストレスや人間関係の断絶も減り、地域社会への参加や通勤で消費されるエネルギー削減、個人事業主の増加も挙げられている。

ここに関連してかつての時間感覚も過去のものとなりつつあることを指摘している。フレックスタイム制はその先鋒を切った。時間厳守は過去の徳目となり、深夜営業も珍しくない。他人のスケジュールも確認できるようになる。

核家族の解体

これは核家族がサザエさん家庭に戻ることを意味しているのではない。離婚や別居といった家庭崩壊は当時から珍しくなくなりつつあった。執筆時のアメリカでも、父親が働き母親が家事をして子供二人を育てる「典型的な核家族」は人口のわずか7%である。共働き、子供の数の多少を考慮しても、三分の二以上の人口は核家族ではなかった。

単身世帯の増加、事実婚、子なし夫婦、片親家庭、子連れの再婚、同性愛、契約結婚、別居、老人共同体などなど、連ねるだけでも多様になる。これに一夫多妻や無性生殖などが入ると、家族のプロトタイプを想像することは不可能である。加えて仕事が家庭に持ち込まれると、子供と仕事の距離が近くなることで子供が仕事に参加し、義務教育の年限が短縮されるかもしれない。

短命となった企業

成長一辺倒だった経済が70年台に停滞し出してから、企業経営者は常に不安に苛まれ続けてきた。銀行システムが国際的に連携されることで通過が発行国の管轄を超えた「ユーロダラー」が蓄積し、各地でインフレや金利の上下に影響している。

コンピューター取引による決定スピードの加速化で迅速な経営判断を要求されるようになった。これは資本主義経済の企業に限らず、社会主義国の価格決定もかつて5年だったところ、毎年のように物価改定を余儀なくされた。

加えて市場の需要も多様化し、単一規格製品から多種モデルへと移っていった。デパートは本来市場を集中させるために作られたはずなのに、多くの専門店が置かれるようになる。

背後には非均質化があり、日本においても同調圧力に勝ってアイヌや在日朝鮮人の声が大きくなりつつあった。そのほかカナダのケベック、オセアニアの原住民、アメリカでは黒人・メキシコ系・東洋系の主張が大きくなってきたことを指摘している。

企業に対する期待も変化していた。ただの経済活動の単位として、商品市場、労働市場以外にも、公害や倫理といった公的責任にも対応を迫られている。

生産も担う消費者

ここでは事例として実に身近な例が挙げられていた。1970年台初頭からわずか数年の間に妊娠テスト用品をはじめとする医療機器が市販されたことがまず一つ。オイルショック以降セルフのガソリンスタンドが増えたことが一つ。電気製品の自前修理や、日曜大工、小さな例で言えば電話交換手がやっていた仕事を、電話をかける本人がダイヤルを回すことで代替したことが挙げられている。どれも消費者たるものが生産の一部を肩代わりしている。

背景には市場の拡大が難しくなっていることがある。これまでは技術の行き届いていない市場に製品を流すだけで利益が得られたが、今となっては未開拓の市場が珍しい。DIYによって市場が隠されていく。

このようなシステムが突き進んだ先の社会において、市場や雇用といった古典経済学の対象はこれまで通りの意味を持つのだろうか。

国家の崩壊

現行の国家は基本的に国民国家であり、ありとあらゆる問題が単一民族内部で解決される前提で構成されたものである。とはいえ国民国家の中に少数民族がいることは珍しくない。民族に限らず、経済的な理由も相まって分離独立運動が世界各地で生じている。バスクやケベック、スコットランドは有名だが、テキサスやソ連の共和国もその列に入っていた。

またグローバルな問題に国家が対処できなくなっていることも注目すべきである。地球環境問題は国家の垣根を超えたものである。多国籍企業は国家を利用する。それに対応しようと国家を超えた枠組みが誕生しつつあり、この時代はヨーロッパでECが拡大していた。

これは世界政府の誕生を意味するものではない。画一的な組織体系ができるのではなく、G7やEU, NATOなど多層的な枠組みが作られる。

予測不能な社会

ここまで書き連ねればあえて言うまでもない。

機能分散

これは「いずれ生じること」というより「生じさせるべきこと」として語られている。中央集中的なピラミッド型組織はトップダウンの指令を忠実に履行することで解決できる問題にフォーカスして構成されている。

問題点として、トップに集まるアジェンダが多すぎて対処しきれなくなっている点が上がる。

その一例に代議制民主主義が挙げられている。これは馬より速いものがない時代に構想されたものである。思えば明治の日露戦争でさえ、あらゆる決定を帝国議会に任せていては日本の実質勝利はなかったであろう。

また独裁制はこの解決策として大いに疑問視されている。決定プロセスがスターリンやヒトラーに集中していた社会主義、全体主義国家において効率的な運用ができていたかという問題は歴史が否定している。

市場や経済の多様化を念頭におけば、Small is beautifulとなるのは当然の流れである。経済政策は国家単位より地方単位の方が効能が大きいだろうし、ビジネスもスモールスタートが基本となりつつある。


どれをとっても2020年台の本に書いていておかしくない。全て40年前、昭和に書かれた話である。ソ連やオイルショックといった言葉が時代背景を思わせる。

第1の波では農業が、第2の波では工業が敷衍していったようにして、本書ではこの第3の波が一体どんな革命をもたらすのか、一言で明言することを避けている。50年前の本に求めることではない。それに、今迎えている変革が果たして第3の波と呼ぶべきものなのか、第2の波のバージョンアップに過ぎないのかは疑問の残るところではある。

とはいえ機械学習やポータブル端末の加速度的技術的発展と普及を除けば、我々の未来像はこの40年間ほとんど進歩していない。現代のビジネス本の多くは未だ平成を迎えていないのかもしれない。

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