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やってもいないゲームを他人にやらせたくなった

単身赴任中なので、2週間に1回帰る週末婚状態なのだけど、年末年始はほぼ夫婦で過ごした。
そのうち恐らく12時間くらい、夫はゲームをしていた。が、私はそれで全然問題なかった。

同じこたつに入って、私も自分のすきなことをして過ごしているから別によい、というのもある。
でも、思い返せば子どもの頃から、弟がゲームしているところを私が眺めるという独特な遊び方をして育ったので、いまもその延長線上にあるようなことをしているのだと思う。

年末年始、夫はずっと、パワースーツを着て赤ちゃんを抱っこして荷物を運び、分断されたアメリカを繋ぎながら1人の女性を助けに西へ西へと向かっていた。
そう、PS4のデス・ストランディングをプレイしていた。
(参考: https://www.playstation.com/ja-jp/games/death-stranding-ps4/)

横から見ているだけでも、新しいタイプのゲームであることはよく分かった。ただのオープンワールドでも、アクションでもなく、RPGでもない。オンラインで他のプレイヤーと繋がっているけど、相手の姿は見えない。
世界中で言われている通り、デスストは「繋がり」をテーマにした、全く新しいゲームだった。

荷物運びは別に見ていても面白くないのだけど、とにかくグラフィックが綺麗だし、音楽も凝っている。
そして初めてストーリーを見たときは、映画かと思った。ノーマンリーダスとマッツミケルセンがふんだんに使われたハリウッド映画みたいだ。
でもただ映像を楽しむ作品でもなく、間違いなくゲームなのだ。映画では表現し切れない、数え切れない人々の思惑があって、それを基盤とした生活があり、それをまた繋いでいく。

すごいゲームだ、小島秀夫監督はすごい人だ、と思った。私は5分もコントローラー触ってないけど。
夫のトイレ休憩中に地図をぐりぐり動かしたくらいか。

あまりに感銘を受けて、コジマプロダクションの消しゴムはんこを彫ってしまった(記事トップの画像です)。

あと、監督のインタビュー動画とかめっちゃ見た。
そしたら、やっぱり一貫してこのゲームのメッセージは「繋がり」だった。
監督曰く、世界中にいる、どこか独りを感じている人たちが、お互いの存在を認識して、ポジティブな繋がりを築いていけるようなゲームなのだ。その通りだな、と思った。

そんなことをぼんやりと考えていたところでふと、自分の周りにいる「独り」の人たちのことを思い出した。

私が3〜4年目の付き合いになる患者さんたちの中で、年月を経て一人暮らしになった60,70,80代の方々は少なくない。
そして、趣味を続けたり友達付き合いがあったりして人生をエンジョイしている人もいるが、日々何もすることのない人もいる。
あくまで印象だけど、仕事一本でがんばってきた、退職後の男性に多い気がする。

日々何もすることもなく、近くに家族もおらず、趣味も見つけられないひとは、酒を飲み、いずれ昼夜逆転し、生活習慣病と「不眠」で私の外来に通う。そういうひとに眠剤は出さずに話を聞いていると、そのうち私と話すことが2-3ヶ月に1回の楽しみになってしまう。
私の外来時間も限られているので、それも長くて20分くらいで終わってしまう。
誰も悪くないのだ。でも、あまりに寂しいと思う。

英国では、そういう人のために「社会的処方」といって、言わば居場所や役割を「処方」するシステムがあって、日本でも地域単位で少しずつ試験的にやっているところが増えている。でも完璧なシステムではない。
そこまで大きな、例えばシルバー人材センターに行ってもらう程の労力を割くのでなくて、デスストをやってもらったらどうなるだろうと、ふと思ったのだ。

PS4は高い。ネット接続は難しい。でもそういうのを一旦置いておいて妄想した。

私が働く地域には元建築業の方が比較的多いので、力仕事をしているサム(主人公)に共感できるかも知れない。歩荷のひとがデススト見てコメントする動画、面白かったな、、、
暖かい部屋に居ながらにして、雪山をザクザク越えるのは気持ち良いかも知れない。
赤ちゃんと旅して、人助けして、時にネットの向こうにいる見えない誰かと助け合えば、少し気持ちが明るくなるかも知れない。

でも、死後の世界についての考えは合わないかもな。
そもそも舞台アメリカだし、馴染みがないから始めたがらないかも。
ボイドアウトしたら落ち込むかな、、、あれ怖いよな、、、ビーチの概念とか分かるかな、、、

(延々妄想したけどこのへんで切る)

デス・ストランディング、私はやってないゲームなのだけど、横で見ていて本当に心動かされたし、ゲームという一大エンタテインメントコンテンツの世界が大きく前進するのを見た気がしたのだ。
と同時に、自分の周りにいる、出会おうと思わなければ出会わない、切り離された人々について思いを馳せた、そんな正月休みになったのだった。

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