ほら貝とライジンオー(I様寄稿文 '94年ごろ?)

はじめに

 この文章は、私「ていく」の学生時代の学科専攻・サークルの友人であり、長い間変遷しながらも数々のオリジナルのアマチュアバンドのリズム隊(彼はベースで私はドラム)でもあったⅠ様に『絶対無敵ライジンオー』の全話をご覧いただいて、寄稿していただいた文章です。

個人情報等に関わること以外はほとんど当時の文章のままですが、社会性・論理思考性に長け、一般的・通俗的な思想に疑問を持ち続け、さらにはPUNK,HARDCOREの師匠(元は学園祭のお好み焼きの作り方でしたが)でもあるⅠ様の寄稿文は、Y様の寄稿文と同じく現在にも完全に通ずる内容であると思いますので、こちらも皆様もご覧いただけましたら幸いです。

(本文)

「おまえはそのことを知ってたんじゃないのか?わたしはおまえたちの一部なんだよ。おまえたちのずっと奥のほうにいるんだよ?どうして何もかもだめなのか、どうして今のようになってしまったのか…それはみんなわたしのせいなんだよ。」~ゴールデイング『蝿の王』より~

『絶対無敵ライジンオー』(以下『ライジンオー』)の最終回、特に敵役のベルゼブの見せるジャークドリームのシーンを観て連想したのは『蝿の王』という小説であった。イギリスの作家ゴールデイングの描いたこの物語は、無人島に取り残された少年たちが救出を待つべく自ら築いた生活共同体が文明的な秩序を維持することができず、短期間の内に対立と争闘の末もろくも自己崩壊してゆくさまを描いたいわば『裏・十五少年漂流記』とも言うべきもので、メガネでパシリのデブのいじめられっ子が殺されたり、自然の猛威の恐怖に駆られた少年たちが仲間をリンチにかけて殺してしまうという描写をもつそれは、ベルヌの本家とは違い夏休みの課題図書としては最も不適切な作品であろうと個人的には思っている。

そんな『蝿の王』をなぜ連想したのかというとジャークドリームの世界、つまりライジンオーのいない世界での5年3 組という一学級の日常描写の陰惨さ(ていく言うところの【イジメの光景】)が、『蝿の王』での無人島で自滅してゆく少年たちの姿と重なってみえて仕方なかったからである。それは具体的には『ライジンオー』と『蝿の王』という2 つの物語のなかで対極的に描かれる世界があり、そしてそれぞれの世界のその内在する意味を象徴するモノが共通項として結ばれることに気づいたことに由来する。

『蝿の王』についてもう少し説明する。無人島に取り残された少年たちが最初に決めた【ほら貝を持った者だけが話をすることができる】というルールは彼ら集団の依って立つ理性、つまり文明的社会秩序の象徴としてあったが、所詮はガキの浅知恵。ほどなく理性は見失われ、無秩序がはびこる世界へと変貌してゆく。そこでほら貝にとって代わったのは、のろしを絶やさないというルールを破って手に入れられた豚の首であり、無数の蝿がたかり生きるが如く少年たちの変貌を見据えるそれは【蝿の王】と呼ばれるようになる。

この『蝿の王』のストーリーと『ライジンオー』におけるジャークドリームの世界に共通するのは、ありていに言って【秩序だったコスモス】と【無秩序なるカオス】との対立という点である。また主人公が少年たちである点も見逃せない。これは単に少年向けの物語であるからというだけでなく、やはり【コスモス】と【カオス】の間に立つ年代の者、【大人】と【幼児】の間に立つ年代の者=少年(少女)であるという観点をもかいまみることができるのではないだろうか。

ここで、秩序立った文明社会の象徴であるはずの学校の一学級の描写がなぜ、【カオス】の範疇に入るのか不思議に思われるかも知れない。その点については教育評論家の小浜逸郎氏が学校教室空間の現状について的確に述べた文を引用する。

「本能的欲求を抱えた未熟な人間をかなり殺風景で画一的な場所に大量に集めてきて一括的に統制する、集団としての目的も個々の生徒の役割分担もない、だが統制者の日の届かない時間や空間を相当に含む、非管理的にしてかつ退屈な【収容所】」

集団としての目的はベルゼブら5 次元人からの地球防衛、個々の生徒の役割分担はライジンオーの搭乗員としての任務と資格(ライジンブレス)と考えるならこれはまさに『ライジンオー』で描かれたシーンそのものではないだろうか。そしてそこで描かれる、有形無形の暴力が何の歯止めもないままスケープゴートとしての吼児君に日常的に加えられる陰惨な光景と、その中でなす術もなく佇むかつての5 年3 組の仲間たちの姿は『蝿の王』での自滅してゆく少年たちの姿と重ならないわけはない。

さらに決定的なことをもう一つ。『ライジンオー』においての敵役であるベルゼブは【BERSEV】、つまり聖書におけるデーモン(悪魔)の一の配下であるベルセブブ(ベルセブル)の読み方違いであり、人心の腐敗を司る悪魔、その通称を【蝿の王】という…これ以上の説明はいるまい。

生贄に加えられる暴力と無気力が生む沈黙。沈黙は無視と敵視として周囲に伝染し孤立が日常化する。排他的な甘えと権力的な嘲笑によってわずかに外面のみ保たれているその世界の内実は、静かにしかし急速に無秩序が支配する世界へと腐敗してゆく…そんな【蝿の王】が支配する世界でギリギリのところで生きている数多くの現実の吼児君たちの存在を思うにつけ、『ライジンオー』はただのロボットアニメ以上の意味をもつ作品であることをいつも私は思い知らされるのである。

我々は我々自身の手で【ライジンオー】を築かなければならない。さもなければ…