エルドランシリーズ全作品の考察 (Y様寄稿文 '98年ごろ?)

はじめに

 この文章は、私「ていく」の学生時代のサークルの友人であり、当時よりアニメーションに詳しいだけでなく、社会全般に関する知識、文章作成力、読解・判断力など、私など足元にも及ばない素晴らしいY様に「エルドランシリーズ」の全話をご覧いただいて、寄稿していただいた文章です。
 個人情報等に関わること以外はほとんど当時の文章のままですが、あらためてあまりの洞察力の素晴らしさに、読み返して感慨を覚えていますので、皆様もご覧いただけましたら幸いです。


『絶対無敵ライジンオー』~期待~

 身も蓋もない言いをすれば、エルドランシリーズは明らかに子供がメインターゲットの作品である。がしかし、それだけではないことは作品を見られた方々にはお分かりのことであろう。そもそもロボットアニメは子供が対象であるがため、メカニカルデザイン的には玩具化しやすいものが起用されるのは致し方ないところである(『コンバトラーⅤ』以降に頼著)。玩具としての性格上もあってデザイン的な制約を受けてしまうため、制約のある中でそれをいかに別のものに、いかに格好良く見せるかというのは大きなポイントだろうし、制作者側のセンスが問われるところである(特に玩具メーカーの金型流用という問題は大きいし、売りである合体変形が加わることでスタイルが大きく見劣りしてしまう。尤も、最近のバンダイのプラモデルに関してはほぼ設定面どおりと言っても良いが、これは技術の進歩もさることながら、マスターグレードに見られるようなどちらかと言えばマニア向けの商品展開を行うことで営業成績も伸びているということが大きな要因であると考えられる)。

 本作らの場合はどうであろうか。祖である『絶対無敵ライジンオー』(以下『ライジンオー』)を考察してみることにする。

 いきなりで何だが、作品を見られた方はどのような印象を持たれただろうか?

 多いと思われるのが、全体的な雰囲気(町内会的)が近い『トライダーG7』を彷彿とさせるという感想ではなかっただろうか。確かにメカ的なものの演出にはそう言ってもよいと思う。同作の場合、公園という日常空間からロボットが発進するという非日常空間への移行(ロボットが存在するという世界観は一先ず置いて)が行われており、『ライデイーン』(誰も間違えないとは思うが当然【勇者】の方)の如何にも何か起こりそうな人面岩からの出撃とは違い、ひょっとしたら自分の日常にも何か起こりそうな気持ちにさせるものがあった。

 これは結構重要なことである。子供に多分起こり得ないであろう【何かが起こりそうな気持ち】【何か起こらないかなあという気持ち】を持たせてくれるのが本来のロボットアニメではなかったかと私は思う。そこで皆さんに思い出してもらいたいのは『マジンガーZ』のことである(筆者註:私と同じ感想を持ってもらえるのはロボットアニメの原体験が『マジンガーZ』である人ではないかと思う)。ここでも(というよりこっちの方が当然『トライダーG7』より先であるが)、プールという日常的に溢れている存在(光子力研究所という存在のことはこの場合忘れていただくとして)から出動する非日常的存在の鋼の城。光子力研究所のプール(貯水槽か?)から出撃するマジンガーZ。あれを見た後で学校か何かのプールの中からマジンガーZが出撃する様を想像した人が居ないとは言わせない。少なくとも私はそういった空想をしたことがある。

 私は『ライジンオー』の1話の放映を見たときにそのことをありありと思い出し、そして心が沸き立つのを感じた。

 ついぞ忘れていた懐かしい空想の世界。

 それは、日常の何処かにひょっとしたら【何か】が隠されているのではという微かな期待。もし仮にそれがあるとしたら、その【何か】を自分が扱えるのではないかという更に微かな期待。その零にも等しい期待が入り混じった心が軽くなるような浮き立つような気持ち。それこそが子供の時には持っていて、大人になって失ってしまった空想世界ではなかったか。妄想とは違う、もう既に現実の世界がどんなにつまらなそうな世界であるかをわかっていながらも、心の片隅で何かを期待してしまう押さえつけることのできない心。もしかしたらという気持ちがあるからこそ、締め付けられるようなこの現実の世界の中ですらほんの少しだけ心が軽くなるのではなかろうか。

 私が『ライジンオー』に引き寄せられた第1の要因こそが、そのことを感じ、思い出したからにほかならない。

 そうしたやや高揚した気分で2話を見る。

 改めて聞き入るオープニングテーマ。響いてくるフレーズ「非常ドアを開けるたびに(中略)、新しい世界へ飛び出すスリル、君にも…」

 正に我が意を得たりと言わざるを得ないではないか!


『元気爆発ガンバルガー』~パイロット~

 地球防衛組の18人に対し、『元気爆発ガンバルガー』(以下『ガンバルガー』)のガンバーチームは3人というリストラ?のため、『ライジンオー』の様な教室から指令室への移行という戦闘前の儀式が無くなったことは個人的には些か物足りない感もあるが、それは物語の設定上致し方ないところであるし、学校が基地であった『ライジンオー』の発想をさらに膨らまして『ガンバルガー』では町そのものが基地という設定になっており、多彩な発進のスタイルが得られたとも言えなくはないので評価しておく。また、町全体が基地ということが最終盤に大きな意味を持つので、そのことが単なるギミックだけにとではなかったということも評価に値する。

 しかし、『ガンバルガー』において私が特に評価したいのは、3人のパイロットが物語中盤においてそれぞれの必殺技を持つ専用機を得たことである。

 敢えて過去の名作を播き、比較するとすれば『マシンブラスター』を挙げることになるだろうか。『ガンバルガー』の様に各ロボットが合体こそしないが、必殺技(名前は忘れたが4体が炎の輪になって相手に突っ込む技)なんかはガンバー忍法とほぼ同じ技であった様に記憶している)。パイロット達が強力な専用機を持つということは、それぞれがメインの回では自分で話の決着がつけられることになる。私はこの点に関してはこれまでの合体ロボットと比較しても優れた点であると思われる。

 どうしても合体ロボットの場合(例外は『ゲッターロボG』のシャインスパーク使用以前かアルベガスくらいではないだろうか)は必殺技が合体形熊時にしか使えないものが多く、合体前にそれまで他のパイロットが自分自身、そして自分の機体で話を盛り上げてきて(やるのは敵に大ダメージを与えるところまで)も、合体しなければ必殺技が使えず、必殺技を使うために合体し、最後の最後では結局メインパイロットに決められてしまうため、どうしてもそのパイロットの活躍の印象が薄くなりがちである。その回の主役であってもやらせてもらえるのは最後の勝鬨くらいであり、或いは必殺技を繰り出すことができた場合であっても、その場合にはメインパイロットから必殺技のコントロールを譲られるというプロセスを経るため、折角必殺技を決めても、そのパイロットの見せ場というより、【メインパイロットの仲間の気持ちを思いやるいい奴】度が上がる機会でしかないということの方が多い。だが、ガンバーチームのように各機体が必殺技を持ち、その機体を操るパイロットによって話を完結させることでそのパイロットの主義・信条・考え方が鮮明になり、単なるパイロットという記号から生きた人物へと変貌を遂げ得るのではないだろうか。と同時に、その人物との絡みのある人物へもその影響は及び、彼らもまた精彩を放つこととなる。

 こうして物語は次第に奥行きを増し、作品の世界のリアリティ(現実という意味ではなく、生きた人格の居る世界という意味で)へと繋がる。また、他人の力を借りて自分自身に生じた問題を解決するということではなく、自分自身の力で問題を解決するということが表現でき、ありがちな表現を借りるのであれば、【少年の成長を描く】ことができる訳であるが、それは観る側にとってもある種のカタルシスを与えるものでもある。

 特に贔屓のキャラクターが居る場合、その話の締めが贔屓であれば与えられるカタルシスも格別であろう。このことは私が『魔動王グランゾート』においてアクアビートの出番が少なかったのを非常に残念に思い、アクアビートが最後を締めて終わる回が何となく満足であったことからも明らかである。

 そうした意図があったのかなかったのかはわからないが、グレートガンバルガーに合体できるようになってからも、その割に合体して話を締める語数が以外に多くなかったと感じられる。そもそもリボルガー、ゲキリュウガーのいずれもがその話数までで最大の危機という展開で登場しているのであるから、いくら敵側が強くなっているとは言え、ほぼ同等の力を持つ2機、或いは3機であるのだから敢えて合体する必要がない(尤も、あっさり勝負のカタをつけられるという利点があることは認められ、また尺の関係上他のドラマ部に割ける時間を増やすことも可能だ)。合体する必要があるのは相手がそうしなければ倒せない程に手強いという必然性を設けることができる。

 これは演出、特に終盤におけるこれからの戦いの熾烈さを予感させ、更には主人公達だけでは勝利し得ない敵の存在を感じさせることができる。結局この点は好みの問題であるが、私個人としては合体はできるけどしないというスタイルの方が好みではある。


『熱血最強ゴウザウラー』~居るべき理由~

 通して見た人なら誰もが思うだろうが、『熱血最強ゴウザウラー』(以下『ゴウザウラー』)は『ライジンオー』と『ガンバルガー』を足した様な作品と言われても仕方がないであろう。クラス全員がエルドランに機械化帝国との戦いを押し付けられるという点はまさに『ライジンオー』であるし、メカニカル的な部分に関しては学校の変形以外は『ガンバルガー』を受け継いでいる(そもそもがエルドランに貰った物だし、彼のお眼鏡に適った人物達であるから、似ていても当然である)。

 確かにそうであるが、内容的にはそれほど安直ではなく、その後のサンライズ作品群に多大な影響を及ばした程の非常に試験的性格の高い作品であった(単にやり残しただけかも知れないが)と私は勝手に思っている。試験的であったが故に作品としての成功を収めたとは言い難い部分があることもまた否めない作品であった。

 この『ゴウザウラー』で私が最も物足りないと感じていたことは、キャラクターの存在感の希薄さである。後にパイロットになる金太、洋二、ザウラージェットのパイロットの五郎(大昔の『ばくはつ五郎』という作品を知っている人はどれだけ居るのであろうか?)などは語数を重ねる毎にいつの間にか存在感のあるキャラクターというかキャラが立ってきたし、他のキャラ、地味な3人組やエリカの辺りなども役割をうまくこなしている(あくまで【こなしている】)と言えるのであるが、如何せん当初からのパイロット3人の存在感が希薄であることが私の物足りなさの理由である。

 それでも拳一はまだいい、メインパイロットであるし、終盤にそれなりにいい見せ場もあった。

 しかし、後の2人は何ともフォローがし難いのである。

 ここで試しに主なキャストで地球防衛組と比較してみようと思う(自分でやっといて何だが、こういう比較の仕方は実に陳腐だ)。

 分類してぴたりと役所(やくどころ)が当てはまるのは拳一が仁であるということは異論のないところであろう。エリカとしのぶはマリアときららを足して成分を分けた感じだろうし、飛鳥に関しては、【ほぼ】洋二と五郎に成分が分割されたというところであろう。金太に関しては該当する人物がいないとも思われるが、これがそうではない。先程、飛鳥に関しては【ほぼ】と記述したが、この飛鳥の残りの成分が金太に引き継がれていると言えよう。

 それは何か?それは飛鳥で言うところの仁との関係である。拳一との関係において金太は張り合いつつも友情を深めるという関係を築いている訳である。つまりは【頼れる奴】ということである。

 私が『ゴウザウラー』において浩美やしのぶが物足りないと感じてしまう理由はここにあるのかも知れない。どうも3人の関係というか、力関係が互角ではないのである。仁に対する飛鳥、いや仁と吼児の関係と比較しても、しのぶや浩美ではどうしても拳一に一歩引いてしまうのである。

 『ライジンオー』の場合、飛鳥ほどではないにしろ吼児もその自分のポジションというものを確立しており、彼らなりの意思が我々にも伝わり、譬え発言数や出番が少なかったとしても、彼等がそこに居ることの安心感すら我々にもたらしていた。

 だが、浩美としのぶの場合はどうであろうか。

 シリーズ前半はまだしも、キングゴウザウラーに合体可能になってからは特に出動中の出番は皆無に等しい。前にも述べたとおり、出番や発言数の問題ではない。そこに彼等がいることについて、彼らなりの意思が感じられず、その彼らなりの意思が感じられないために、私には彼等の存在が希薄に感じられてしまうのである。

 先程『ライジンオー』とのキャラクターの比較分類の中で浩美を取り上げなかったのは、今述べたようなことが引っかかったからである。吼児と比較して浩美が十分ではないというのは、パイロットの多さが一因だけではないと思われる。浩美の場合、彼の様なキャラクターのためにある【放映当初の恒例である敵前逃亡】という儀式を済ませているのにも拘わらず、積極的に何かのために行動をしようという意思が希薄である。

 洋二が漸くパイロットとなってからは、それまで辛うじて浩美の役割であったことを殆ど洋二がやってしまった。それも洋二の場合、自分がなすべきことに対する問い掛けと自分なりに出した答えをやり遂げようとする意思を浩美と比較して十分に持ってである。

 そうすると必然的に意思の薄い浩美を描く必要性は無くなってしまう。彼のザウラーズにおけるポジションはない。

 しのぶについても同様である。一体何故にあの様な御転婆(いまどき人を評するのに【御転婆】という表現が真っ先に思い浮かぶというのは、それはそれで情けない)なキャラクターを描いたのだろうか?極めて疑問である。最終盤は拳一との絡みがあったがため居るべきポジション、語るべき言葉を失わずに済んだが、それは拳一とのポジションに近いものであり、ザウラーズにおけるそれではない。

 これは困ったことである。

 彼等にザウラーズとしてのポジションがない、それも一応メインキャストであるのにもかかわらずポジションがないため、『ライジンオー』では見られた【一つになった全員の思い】というものがこちらには伝わってこない、それどころか『ガンバルガー』の最終話前に見られた町の人の意思にすら負けているのである。

 それが故に『ゴウザウラー』は【ザウラーズ】の物語には在らず、特に終盤は殆ど拳一の物語になってしまい、全体としても【明確な何かの物語】ではなく、【単なる物語】に終始してしまったとは言えないだろうか。

 それが良いのか悪いのかは兎も角、『ライジンオー』で味わった【こみあげてくる何か】を知った後では物足りないことこの上ない。貶す材料は確かに多いが、そうでない部分もある。故にリアルタイムで見逃していた作品を後々見させていただけるこの状況を作ってくれたていく氏には何とも感謝せざるを得ない。

 『ゴウザウラー』で特筆すべきは【先生】の存在、いや、【先生】と言うよりは【大人】の存在であろう。

 『ライジンオー』『ガンバルガー』共に担任の先生は登場するが、いずれも【子供達】にとっての優しい先生、理解者としての大人ではあったが、それ以上の者にはなり得ていなかったと私は考える。

 『ライジンオー』の篠田先生についてはどちらかと言えば対姫木先生にウェイトが置かれている描かれ方(要は色恋沙汰に現を抜かす間抜けな大人)であったし、『ガンバルガー』の立花先生についてはこれは間違いなく対ヤミノリウスにウェイトが置かれていた(尤もこのウェイトの置かれ方は個人的には非常に好きである)。2人とも作品上は重要なポジションに居ることは間違いないのであるが、子供達の暴走を止めたり、誤った方向へ行くのを食い止める【羊飼い】の様な頼れる存在ではなかった。

 そもそもサンライズの作品(特にぼちぼち20周年※1 を迎える一連の作品)は総じて大人の扱いというか表現の仕方がステレオタイプで異様に見苦しい。中でもZが2つ付く作品の大人像と子供像が一番明確な色を出していると私は思うが、それはさておき大部分の作品において、「何にもわかってくれない、わかろうともしない。自己の保身のみにかまけていて、倖そうに世間の常識と呼ばれているものや自分の人生観等を押し付けてくるどうしようもない馬鹿。」というスタンスで描かれていることはまず間違いないと思う。概ね現実社会においても、本当にそういうものであることもまた間違いない事実である。

 がしかし、大人は常に正しいとは限らないが、常に間違っているわけでもない。それは子供の場合とて同じことであろう。

 例えば、子供進が間違った方向に進んでしまっているとき、誰がその道が間違っていることを教えるのか?そもそも子供達だけでは間違った方向に進んでいることすら気づきもしないのではなかろうか。子供の場合に特にありがちなのは、無茶を勇気と勘違いすることである。無茶を勇気と勘違いして突撃し、それをしない人間を臆病者と罵る。臆病者と罵る彼等のヒロイックな封想の中では遮二無二突撃を仕掛け、今自分達が陥っている状況を克服するという荘厳な己の姿が浮かび上がっているであろう。確かにその幻想は大人であってでも容易には断ち切り難い。子供であれば幻想に取り込まれても致し方ないだろう。

 それでも自分一人だけであれば、ふと我に返ることもあり得るのだが、子供が集団で存在している場合などは取り憑いている互いの封想が相乗効果により更に大きな怪物【みんなで協力して頑張れば絶対できる】という非常に精神主義的な厄介かつ危険な感情に変貌し、手の施しようがなくなる。

 そうした怪物が存在する以上、冷静に今の自分の置かれた状況に対応し、次に採るべき行動について熟慮を求める者が居たとしても、斯様な群衆の中にあってはそのことについて発言することができないだけでなく、その集団からは敵対者、裏切り者として排除されてしまったり、大多数が取り憑かれている封想こそが正しくて、自分が間違っているのではないかと考え、幻想という怪物に自分も取り込まれてしまうだけであろう。当然、幻想による蛮勇だけで突撃しても成果は出ないし、損害は増すばかりである。殊に彼らザウラーズは地球防衛組とは違い全員が前線に立っていると言え、つまり役割は違うが全員がゴウザウラーの中に居るのである。彼等の場合、『ライジンオー』における仁の暴走を止めるマリアや勉の役割をすべき人物が居ない。拍車を掛ける人物は居るが。どうにも取り返しがつかないことになってからでは遅い。こうした状況下に必要な物は何か?

 私は別の視点・立場を持った人物が必要ではないかと思うのである。単に別の視点を持つ着であれば子供達の中にも居るであろうが、立場(ザウラーズの一員であるということ)は同じである。

 だが、その者の立場が違う者であったらどうであろう。

 ザウラーズの場合(特に対エンジン王編以降)は【先生】という存在がこれまでになく重要な位置付けであった。物語終盤に彼の果たした役割は大きい。物語当初は殆ど地球防衛組における篠田先生と同じ描かれ方であっだが、エンジン王・ギルターボに月面へ拉致されてからの描かれ方はそれまでと大きく変わっていった。それ以後の彼の役割は、エンジン王達には【心を説く者】として、子供達には前述したような【羊飼い】として誤った方向へ進もうとする者達に助けの手を差し伸べる考となっていた。

 「『ゴウザウラー』という物語にとって真に必要であるのは、ほかの誰でもなくこの人物ではないだろうか?」、私はそう思わざるを得なかった。

 想像してもらいたい、作品中【先生】とギルターボの会話をする場面があるが、あれが仮にザウラーズの誰が一人だったらどうだろうか?ギルターボに【心】が何であるかを説く場合に彼等子供に果たして言葉に説得力を持たせることができたのだろうか?ギルターボを通じてエンジン王にもそれが何であるかを伝えることができたであろうか?私の答は当然否である。

 あの場面でギルターボと対話をなすのはやはり子供でなく、【大人】である【先生】でなくてはならない。どんなにつまらなそうな人物、どんなに下らない人生を送ってきた様に感じられる人であっても、それまで生きてきた年数を侮ってはならない。その年数があればこそ語れる言葉もある。頭の考える理屈ではなく、魂の語る言葉以上のもの。それを語る様になるには経験と年数を加えるしかないと私は最近になって漸くそう思えるようになってきた。

 そして私はあの場面で膝を打った。これこそが【大人の役割】であると。極端な話、ザウラーズがエルドランに選ばれたのは彼等だからではなく、この先生の教え子であるからではないだろうかとさえ思えてきた。あの【先生】の教え子ならば大丈夫ということでエルドランがあのクラスをザウラーズに選んだのなら、それは正しい選択であったと言えよう。そして、あの【先生】が居たからこそ『ゴウザウラー』は語るべきことのある作品になり得たと私は思うのである。


(注釈)
※1 '98年のご寄稿と考えると、2022年現在では40数年を経過していることになります('79開始ですね)。