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それはアニメでも、ドラマでも、ましてやYoutuberでもなく、Vtuberである-アキロゼ生誕祭2023-

 ていくと申します。さる5月27日に開催されたアキロゼ生誕祭2023 ーStart your journeyーに、私は大きな衝撃を受けました。彼女がミュージカルを行うのは2回目であり、去年の1回目も感動したのですが、今回の驚きはそれを大きく越えるものでした。それは何故か、今回はその点についてじっくりと考えていきます。そこには、Vtuberという存在に内包される新たな可能性の芽がありました。


  1. エルフが、ライオンが、死神が普通に交流する世界"Vtuber"

  2. ホロライブという箱、5年という月日

  3. Vtuberだからこそ

  4. 現実だからできること アキロゼ5周年Live

  5. おわりに


1.エルフが、ライオンが、死神が普通に交流する世界"Vtuber"

 オズの魔法使いといえば、細かい所までは知らなくとも、題材としては非常に有名な作品です。少女ドロシーが、カカシと、ブリキの人形と、臆病なライオンに出会い、西の悪い魔女に立ち向かう。今回のミュージカルは、そんな名作を原作としていました。これは物語なので、カカシもブリキもライオンも、それぞれが言葉を発することにわざわざ言及はされません。しかし現実の我々がそういった存在に出会ったら、おそらく言葉も出ないほど混乱するでしょう。
 アキ・ローゼンタールは異世界から来たハーフエルフであり、尾丸ポルカはVTuber界の座長となるべくホロライブに降り立ったサーカス団の団員であり、ロボ子さんは記憶を失ってとある荒野に現れたロボットであり、獅白ぼたんはギャングタウンちほー出身のホワイトライオンであり、森カリオペはグリム・リーパーの第一弟子である死神です。普通の"人間"は一人もおらず、しかしそれぞれ様々な背景があります。私達が暮らす世界では言葉を発することの出来ない動物たちも、Vtuberであれば時にはマインクラフトの世界で運動会をしたり、時には広いステージでライブをしたり、様々に交流しています。種族の壁というものはなく、まるで物語のように、様々な存在が互いに言葉を交わすことができます。

2.ホロライブという箱、5年という月日

 今、私の目の前に「私はエルフです!」などという人がいれば、それはジョークか何かと思うでしょう。しかしVtuberであれば、そこに違和感はありません。ああ、そういった新人さんが来たのか、あるいはそういった方が活動していたのか、程度の認識となります。
 特に新しい物、珍しい事を目の前にしたとき、人は慣れるのに時間がかかります。新しく出会う人、新しく手に入れた道具など、出会った直後は様々な交流をしたり、使い方を学ぶことによって、少しずつそれに対応していきます。
 Vtuberに対してもそれは同じであり、たとえ最初に「私は羊の女の子です」などと言われても、しばらくは慣れず、違和感が残ります。しかしその娘がゲームの中で羊を見つけ「仲間だー!」とはしゃいだり、同じグループのメンバーであるライオンから食べられるのを恐れたり、様々な"羊らしさ"をみせていく事で、その違和感は消え、ただ当たり前に「羊の女の子」としてその娘を見ることができるようになります。

 ホロライブの一期生であるアキ・ローゼンタールは、5年もの間活動を続けてきました。シャルイースに見る幻想的な雰囲気であったり、後にデビューした後輩のエルフ仲間からの交流からも、もはや彼女が異世界から来たハーフエルフであるという事に違和感はありません。ホロライブというグループの中で、多くの種族と交流し、日常的に"エルフらしさ"をみせることで、彼女がハーフエルフであるということは受け入れられていきました。
 そして、まさにここに、Vtuberという存在が持つ可能性があると、私は感じています。アニメでは「そういう設定」で済まされる様々な要素が、Vtuberにおいては長い年月をかけることで段々と"慣れ"、"現実"として了解されていく。はじめから違和感なくそうであったのではなく、その姿を見続けることで、人間ではない存在が(あるいはずっと少女であるような存在が)当然のものとなっていきます。


3.Vtuberだからこそ

 私は只の人間なので、空は飛べないし、猫になることもできません。ミュージカルに出ることになれば、その役割を人として演じることしかできません。しかし、Vtuberがミュージカルを行えば、ライオンが、ライオンとしてその役割を果たすことができます。そしてミュージカルに限らず、世の中には人間以外の存在がモチーフになっているものは数多あります。たとえば、あらいぐまラスカルが洗剤のモチーフキャラになっていたり、異世界食堂が現実の飲食店とコラボしていたりと、現実には存在しないキャラクターが関わることで、その存在に説得力をもたせることができます。
 確かにキャラクターとコラボすれば、その存在をアピールすることができます。ですがキャラクターは作品という下地があり、その物語のうえに成り立っています。現代の食べ物などをレビューしたところで(この作品の時代には存在しないのに…)であったり(このキャラこんな褒め方したっけ…)といった違和感が生まれることも、ままあります。しかしVtuberがその種族としてアピールしたとき、それは本当のものとして受け入れられます。過去、幻想の産物であった異種族というものが、バーチャルを通すことで、実際に存在するものとして認識することができるようになるのです。Vtuberという存在は、そういった可能性を秘めているのではないでしょうか。


4.現実だからできること アキロゼ5周年Live


 そういったことを考えているうちに、彼女の5周年ライブが始まりました。さぁ、今度はどんなステージを見せてくれるのだろうかと、期待に胸を膨らませて視聴します。彼女は期待通り、素晴らしいステージを魅せてくれました。ホロライブのメンバーと共に、きらびやかで、華やかなステージを披露してくれました。一期生で集まり、休止している娘も共に在るような、そんな感動を与えてくれました。
 中盤に入り、雰囲気が変わります。(マーチングバンド…?)私にはあまり馴染みのないものでした。時折パレードで見る楽隊については知っていましたが、詳しくは分からなかったのです。しかしひとたびその演奏を聴いた所、一気に惹き込まれました。ああ、たしかに素晴らしいものだと、感銘を受けます。今思えば、この時点で"期待していたもの"を大きく越えるものになったのだと感じました。
 マーチングバンドは、生身の人間が行うからこそ、その価値がより身近に感じられます。一切のブレなく、多くの人々が規律を保って演奏する。CGであればモーションを読み込ませるだけで達成できることですが、当然現実では途方もない訓練が必要とされます。そういった修練があるからこそ、私達はその演奏に素晴らしさを感じるのです。
  その中に、彼女は溶け込んでいきました。ARという技術を以て、Vtuberという存在が、現実のマーチングバンドと足並みを揃えるのです。こんなこともできるのかと衝撃を受けたうえで、私は思い出します。アキロゼ含めた一期生のライブは、当時の情勢により無観客で行われました。広いステージで行われ、多くのサイリウムが振られましたが、それはバーチャルの中だけのものです。本来あったはずの「現実の盛り上がり」を体感することはできませんでした。しかし今、このライブでは、まさに現実と一体となりステージが披露されています。AR技術によりバーチャルと現実の境目はなくなり、ひとつのものとなったのです。Vtuberは、現実の様々な素晴らしい物事と、共に在ることができるのです。


5.おわりに

 ホロライブ一期生は、まさにVtuber黎明かつ激動の頃に生まれ、まだ何がVtuberたりえるかも分からない中活動してきました。それは彼女たちにとってですが、実は私達にとっても同じことが言えます。何をしたらVtuberなのか?手探りの中で、その答えを見つけようとしています。ですが、こうして振り返ってみると、その答えを確かなものとして見つける必要はないと思います。できること、やれることは広がり続け、配信の中で様々な挑戦を応援し、また新たな可能性が生まれていく。「◯◯をしたらVtuber」ということは決めてしまわず、その可能性を信じること。それこそが、新しい世界への入口なのではないでしょうか。

 ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました。

 

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