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日常の中のホロライブ 変わりゆく私と世界について

 はじめまして、ていくと申します。ホロライブが好きないちリスナーとして今回の広告に感情を非常に揺さぶられたこと、そしてそれを言葉にしたいと感じたため、こうしてはじめての文を書かせていただきました。

 最初にお話させていただくと、この記事は「◯◯は△△のことだ!」といった考察や、「◯◯してみよう!」といった啓蒙や宣伝をするものではありません。いわゆる"推し活"といったものとはちょっとズレた、少し立ち止まって考え事をしてみようと、そしてその先にほんのちょっとだけ良い世界の見方ができるようになったらいいなと、そういった願いを込めたものです。

  1. 日常とは何か?

  2. 日常と世界、そして知っていること

  3. Vtuberの黎明、はじめてそこに生まれたもの

  4. 類似を超えた先の世界

  5. おわりに、未だ変わり続ける世界

1.日常とは何か?

 今日、私が朝起きてまず見たのはスマホでした。現代、そういった人は非常に多いでしょう。SNSやニュースをチェックしたり、朝のルーティーンに欠かせなくなっている人は多いと思います。そうして、私が開いたのは朝ミオでした。

 楽しかった土日が終わり、またお仕事、学校の始まる月曜日は強敵です。おふとんから中々出られない。着替えたくない。それでも私は眠い目をこすってスマホを見ます。画面の中ではミオしゃがやさしく笑い、リスナーから募集したツイートを紹介していく。そのエピソードにあるある!などと頷いたり、ミオしゃのかわいらしい話を聞いていると、そのうちに朝ごはんを食べ終わり、着替えや支度も終わり、家を出ていました。もちろん、イヤホンをつけて続きを聞きながら。

 休憩時間、ふとTwitterをのぞくと、RTで駅の広告が流れてきました。新宿駅にホロライブの広告が出てるぞ!とあったので画像を確認したら、そこには日常生活に溶け込むホロライブタレントの姿がありました。私は驚きました。というのも、今はホロライブ全体のライブ前。例年であれば様々な駅にホロライブの広告が打たれるだろうことは予想していました。しかし目に入ったのはライブとはまったく関係のないもの。ただ日常をすごす、現実の人々とメンバーの姿でした。このことは疑問として残り、休憩が開けた後も頭の片隅に残り続けました。日常とは何か?そんなことを考えます。

2.日常と世界、そして知っていること

 わたしたちの今の日常は、生まれてから今までに驚くほど変化しています。赤ん坊の頃は思い出すことはできませんが、ミルクを飲むために私は必死に何かをしていたでしょう。物心がついて間もないころの記憶だと、ふと(なんで大人は運動不足になるんだろう?こんなに外で遊ぶのが楽しいのに、こんなに身体を動かしたいのに、自分は将来も絶対に運動不足になんかならないだろう!)と考えたことを憶えています。結果といえば、いわゆる二次元コンテンツにどっぷりとハマり、家でモニタと向き合うことがなによりも楽しい人間へとなっていました。

 今普通だと思っている日常も、様々な変化の先の日常です。昔の人々が考えていたように車が空を飛んではいませんが、代わりに多くの電波や情報が飛び交っています。地球の裏側の情報が一秒もかからず私達の元に届き、そして小さな板(スマホ)をすこしタップするだけで、明日には必要な物が家に届きます。Vtuberが東京の観光大使になるなど数年前は思いもよらず、そもそもバーチャルYoutuberを名乗る最初の少女も、7年前には存在すらしていませんでした。

 よく人間は想像できることなら実現できる、といいますが、Vtuberという存在が何かを成し遂げるという事実は、7年前には一切想像不可能なものでした。存在を知らないということではなく、そもそもその概念が生まれていない。私達は何かを知っているからこそ想像できるのであり、知らない概念については思考すらできない。それが私達が考えられる、世界の限界です。しかし今は、ホロライブのLiveが数万人のドームを埋めることも容易に想像できますし、それ以外にも様々なことを成し遂げる姿も思い浮かべることができます。そしてその暁には自分も絶対に祝福するだろうと、心から思います。

 人は生きていく中で、さまざまな概念を学びます。大きなものから小さなものまで、概念というものは私達の思考を変えていきます。20年前には存在しなかったスマホは、今や日常に欠かせないものです。最近私が知った事だと、例えば白菜の芯はゆでるだけだと柔らかくなるまで非常に時間がかかるため、先にレンジでチンしておくといいというもの。ほんの小さな事ですが、今後の生活で非常に役立つ知識でした。そういった概念の積み重ねによって、私達の日常は少しずつ、しかし確実に変化していきます。私が想像することのできる世界は限りなく広がっていき、そして日常になっていきます。

想像 越えてく 世界見せてあげる
アクセスしてみたい 後悔なんてそうさせない
それぞれ 違った ココロで 走れGO

Hololive IDOL PROJECT "Shiny Smily Story"

3.Vtuberの黎明、はじめてそこに生まれたもの

 私がはじめてVtuberに触れたのは、バーチャルYoutuber四天王という言葉が生まれた頃でした。イルカのような笑い方をする娘、喉を締められたような特徴的な声を出す娘、誰でも知る有名なママから生まれたセンシティブな娘、見た目はかわいらしい女の子なのにやたら太い声の…娘?など、人数は少ないながらもバーチャルな肉体をもつ様々な方々が話題となっていました。こんな個性的な人たちが、アニメやゲームのキャラクターではなく、それぞれ意思を持った一個人であるということは、衝撃であるというよりも、もはや想像の及ばない概念でした。基本は通常の配信者と同じであり、ただ見た目が違うだけ…当時はそんなふうに思っていました。そこに例外はなく、毎週木曜日に1時間の配信をし、自らを空気だと語る少女も、そういった中の一人にすぎませんでした。

 転機、というものはなかったように思います。多くのVtuberが生まれ、様々な配信をしていく。それぞれの個性を活かし、着替えをお披露目したり、バーチャル空間で触れ合ったり、かわいらしい見た目からは想像もできない映画を見た話をしたり、初めて貰ったクイズ番組の案件をやりきった後、ファンの前で少し涙を流してしまったり…と、色々な姿を見てきました。今思えば、そういった中で私の概念は変わっていきました。見た目だけが二次元的にかわいい、かっこいい配信者という意識から、Vtuberとい存在が、只純粋にその人たち個人であること、その人であるからこそ生じる悩みがあること、歓びがあること、そういったことを感じるようになっていきました。

4.類似を超えた先の世界

 新しい概念というものは、常に想像できないものです。もしそれを想像できるとすれば、スティーブ・ジョブズや、ビル・ゲイツのような先駆者たちでしょう。凡人である私達は、想像できることしか思考できません。そして想像できるということは、少なくとも知識としてそれを知っているということです。眼の前で現実に新しい事が起きていたとしても、まず私達はそれに似ている物を思い浮かべます。新種の花を見つけても、学者でなければ、せいぜいあの花に似ているな、ということしか考えられません。人は新しいものに対して、まずは類似を見つけることによって理解しようとします。

 Vtuberも、そういった新しい概念でした。そこに人は、それぞれの類似を思い浮かべました。あの配信者に似ているな、あのキャラクターに似ているな、あのアイドルに似ているな…思い浮かぶ類似は、人によって違います。しかし、類似から入った人も、やがて「違い」を見つけていきます。キャラクターだと思っていても、一人の人間ですから、そこにはブレが生じます。調子の良い日、悪い日もあるでしょう。日によってその違いがあるため、アニメのようなキャラクターとして見た時、そこには安定性がありません。では、現実の配信者に類似点を見たときはどうなるか。そう考えると、今度は逆にそのキャラクター性が際立ちます。明らかに豊富な人生で奇怪な経験を語っていても、女子高生の委員長であろうとする。17歳の船長であろうとする。そういった姿から、私達は類似の先にある世界を少しずつ見つけていきます。

 本当にみかんなんて存在するのか?りんごと何が違うんだ?などという人はいません。日常とは、わざわざ類似と違いを見つける必要もないほど、その概念が浸透したときにはじめて生まれるものです。誰もがみかんのことを知っている世界ではありますが、少なくとも今は誰もがVtuberを知っている世界ではありません。ですが、私の日常にはVtuberは当たり前のものであり、わざわざ他の配信者やキャラクターと比べる必要はなく、ただその一個人として、その人を見ることができます。昔からある何かから類似点を見つけて理解しようとする段階を超え、ただそれがあることが当たり前になった時、それが日常となります。

5.おわりに、未だ変わり続ける世界

 新しいものが日常になった時、それはもう新しいとは思われません。しかしそれは古くなったという意味ではなく、真にその新しいものが世の中にあるものとして理解されたということです。それまで存在しなかったものが新しく生まれ、そして世界に満ちていくとき、そこには様々な壁が立ちはだかります。人が思い浮かべる類似には、ポジティブなものもあれば、ネガティブなものもあります。近年のAI論争のように、人はその立場によって新しいものに対する態度が異なります。世界はそのようにして、新しいものを受け入れたり、時には拒絶していきます。そうして変わり続けた先に、日常という世界が生まれていきます。

 バーチャルYoutuberが日常になるとは想像もできなかった頃、私の最も応援している娘はこんな動画を上げていました。

 気づけばもう、このような世界はすぐそこにあるというよりも、すでに"ここ"にあるように感じられます。

お読みいただき、ありがとうございました。

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