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「72歳!ゼロからのスペイン語」 No.1

 英語も話せない私ですが、「なんとかなる」でコロンビアの首都ボゴタにやって来た。
「なんとかなる」とはミステリーだ。
人生ミステリーだなんてかっこいいこと言っても危険すぎる。
他人は「見ていられない。危なかっしくて」と思うのは当たり前だ。 

 娘に今度はコロンビアに行くと連絡すると、「危険度はどんなん?」と言われた。
昨年の7月にアルゼンチン・ブエノスアイレスに90日間滞在して成田に戻った時「無事に帰ってきた」と娘にメールをすると、装飾語は何もなく「今度行くときには危険でないところにしてよね」と一言だった。

 その一言にどれだけ心配していたかが伝わってきたのだった。
今こうして書いていて気がついたが娘は「今度行くときは・・・」と記していた。
成田に着いたときは今度行くときは・・・など想像をもしていなかったが娘は私の行動を読んでいたのかな。

 私の人生は3回ほど大きな山も谷もあった。
しかし、おかげさまで“生かされて”72歳で仕事を完結した。
完結という言葉で状況を受け止めた。
実はまさか72歳で完結になるとは思っていなかったのだ。
しかし、そのおかげで昨年はアルゼンチンに行き、今年はコロンビアだ。
思いつきのように聞こえるかもですが、薄々「行きたい」と思っていたので状況を調べていたのだ。

 70歳でアルゼンチンタンゴの出会いを頂き、タンゴの虜になり好きなタンゴにお金をつぎ込こみ、老後も「なんとかなるさ」で72歳。
人生80年ほどで終わるなら私は花を愛でたり、時たまタンゴを踊ったりしながら、1枚2枚と夜お札の枚数を数えてほそぼそと暮らしていたかも。

 しかし、人生100年時代に突入した現代をどのように生きるか。
人生100年時代の生き方を私は考えた。
過ぎし日を追憶する日々?死に向かって生きる?NO!
新たな挑戦で何が生まれるか、人生のミステリーを楽しむ生き方を選択した。

 なぜ、スペイン語を学ぶのか、なぜコロンビアなのか。
来年は4年に1度のオリンピックの年で、東京が開催地だ。
スペイン語を母国語とする人たちも日本に大勢来ることと。
コロンビア在住の日本人がスペイン語アカデミーを立ち上げていた。

そのスペイン語の出会いがあった。
コロンビアのスペイン語が世界で一番きれいとの評価。
どうせゼロからの出発なんだ。
コロンビアで学びたいと思った。
コロンビアに半年の予定でいくことを話すと100人中100人が口々に言ったことは「コロンビアは中南米の中でもとても治安が悪い。そんなところにどうして?」だった。
それでも決めたこと。
72歳、ゼロからのスペイン語を学ぶにはコロンビアだと。

 2019年9月3日、怖いところだと身を引き締めてコロンビアの首都ボゴタに入った。
スペイン語も英語もゼロな私です。
言葉がわからないのが一番怖いとおもいながら。

 Buenas noches.(今晩は)と始まるN様からメールが入った。
「昨日H嬢に会いました。コロンビアは治安が悪いし、普通の生活の中でも悪い輩がいるから侮られない様に留意して欲しい、と吐露していました。無茶なをしないでください」

 なんて心暖かなメールだろう。
N様はタンゴの音楽を中学の時に出会いそれからずっと愛し続けて70歳を有に超えていられるようだ。
人と人との関係もタンゴのように大切にされる方だと。
私は端くれながらもタンゴを愛する歴史ある仲間に入れていただいた初心者であるが、タンゴの仲間・タンゴの神様に守られていると実感する。

 当初はホテル住まいをした。
生活レベル7のところのホテルだ。
コロンビアは海から山に向かって生活レベルが1から7に上がるのだと。

2週間ほどホテル住まいして、その間にボゴタの街の様子やスペイン語学校の場所を調べたりした。
先に日本のコロンビア大使館で情報をもらった資料をもとにホテルのタクシーに乗ってスペイン語学校を探せども見つからなかった。

3時間もタクシーに乗って探したことをFBに載せると「お手伝いします」とFBからメッセージが入った。
タンゴ仲間だった。
1回だけお会いだけのH嬢から「お手伝いします」と書かれていた。
彼女のメッセージに私は甘んじた。
彼女はスペインのスペイン学校で学んだ経験がある人だということを初めて知った。

 H嬢のおかげでスペイン語学校も決まった。
学校のお世話でアパートも急遽決まった。
流しの黄色いタクシーは危険だと聞いていたので、ホテルから移動する時にはホテル付きのタクシーにお願いしていた。
指名して何度かお願いしたタクシーの運転手さんにアパートが決まったことをメールで知らせると、[Para mi fue un palacar conocerla](あなたに会えたことは私の喜びです)という応答メッセージを頂いた。
タクシーの中で「por favor」の口の開け方や、「uno.dos.tores」と数字を教えてもらった運転手さんだ。
彼は誠実な人、機会があれば再び彼のタクシーを指名したい。

 コロンビア・ボゴタに来て16日目。
アパート住まいになった第1日目。
早速、日本から持ってきた日本茶をいれた。
三輪素麺を茹でて稲庭麺つゆをかけてすすった。
ふー、おおきな安堵感か、なんとも言い難い気持ちでしじみと味わった。 心臓を固くして日々を過ごしてきた。
歩くときも緊張して足早に歩いた。
そんななかでの日本茶と素麺にホッ!

 アパートの家賃は月13万のところを35%引きに。
学校が値引き交渉してくれた。
それでも高いが安全を買った。
フロント係と警備員がいてドアを開ける。
セキュリティがよい。
スーパーマーケットまで3分。
コロンビアの日本大使館にも歩いて5分。
学校からアパートまで歩いて13分。
地の利が良い。
アルゼンチンで住む所はどういうところが良いかを体験していたの他は節約しても住むところだけはと環境条件が良いところを選んだ。

 ボゴタはなんといっても高度2,600メートルの街だ。
高山病にもなった。
ゆるい坂道だが5分も歩くと心臓がパクパクしてくる。

一番の問題は寒い。
にもかかわらず、暖房はない。
高級ホテルに泊まったときにも暖房がなくてお願いしたら小さな暖房器具を部屋に持ってきてくれた。

このアパートのオーナーに「私は暖房器具を買う。使ってもよいか」と確認すると、ヴィトンのハンドバックを持っているにも関わらずなんて関係ないかもだが、目をむき出して絶対に駄目だという。
もしあなたが暖房器具を使うようだったら追加料金で月に5,000ペソを請求する。
「あなたは暖房器具を使わないと約束してください」とキー!と睨んだ。

 「電気の照明もこまめに消して小さな明かりで過ごしてください」と言う。
コロンビアは電気代が非常に高いだのだと。
仕方無しに、部屋の中でもダウンジャケットを着て、マフラーを首に巻いて、羊毛のマットを買って座布団代わりに床にひき、毛布を膝にかけて勉強している。

 この当たりは生活レベル6。
ネクタイを締めピカピカに磨かれた靴を履いた紳士も、ハイヒールや膝までくる長いブーツを履いたおしゃれな女性も歩いている。
そのような人たちを横目で見ながら、生まれながらにして危険を察知する能力を身につけている現地の人とは違い、どんなに汚い格好しても観光客と見破られるという。
しかも日本人は狙われやすいと。
油断は大敵だと肝に命じている。

 軍服姿で銃を持って警察犬を引き連れた警備のビルもたくさんある。
同じ中南米でも国が異なれば随分と違う。
ブエノスではとても肉が美味しかったが、ボゴタの中心の街でまだ美味しい肉に出会ってない。
ブエノスではマテ茶は日常的で道を歩きながらマテ茶を飲んでいる人も居たが、ボゴタの街でマテ茶を売っているのを見たことがない。
ブエノスでは酷い風邪で咳をしていてもマスクをしている人は一人も居なかったが、ボゴタはマスクをしている人がいる。
ブエノスほど空気は汚れていないがボゴタの中心地はガソリンの排気ガスで空気は汚れている。
高度2,600メートルの街だから空気がきれいであってほしいな。
また、ブエノスでは路上で土産物や電気のソケットなど売っていたが、ボゴタの中心の「キンタ・カマチョ(Quinta camacho)」の街では、歩道に自転車の部品を直に置いている露天商や青いビニールシートを引いて自転車の修理をする露天商がでている。

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 リュックを前に抱えてそっとカメラを取り出してぱっと撮ろうとした。
その瞬間に修理の彼がカメラの前に顔だした。

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えっ!えっ!どこに居た?である。
察知する力が敏感だ。
日本人とは察知力が違う。
この察知力の違いが危険な目に合うだろうなと瞬間的に思った。

 ボゴタは自転車を推奨している。週末は主要道路の片側は自転車のために開放している。
私が住むようになったボゴタの 「キンタ・カマチョ」の街は学生街で特に自転車が多い。
歩いていると、すごいスピードで走っている自転車から私の左肩を押された。
右側に行けという合図だったのだ。
歩道に自転車の車線と歩く人の車線が引いてあるが、消え入りそうでとぎれとぎれだ。
歩く人は、建物の壁に沿って歩くのが常識のようだ。
えーと信号はどこにあるの?と思うほど。
いつ自転車や車が走り込んでくるかわからない。

 コロンビアで交通事故に会わないように気をつけよう。
学校からアパートまでの道のりを案内してくれた学校の職員さんに道路を「Miedo(渡る時、怖い)」と言って彼の腕を掴んだら、彼は笑った。

 ボゴタは今は地下鉄などの電車が走っていない。
「今は」、というのは5年後には電車が走る。
この工事を中国企業が受注した。

 今の交通機関はバス路線のバスと車とバイクと自転車だ。
意外や道幅が狭い。
片側3車線のところを4車線で走っている時がある。
車と車、車とバイクがしのぎを削りながら僅かな隙間に入り込んでくる。
ブエノスほど神風運転ではないが機転を効かせて走る運転は見事だ。
でも事故が多い。私は2週間の間に大きな事故を2回見た。
ボゴタの街は常に渋滞している。
渋滞解消のために道路の規制がある。

どういうやりかたかというと、車のナンバーの下一桁の数字の奇数か偶数かで車を運転して良い時間帯があるという。
朝6時から9時半までと、午後3時から7時半までの規制だと。
ホテルでタクシーを予約しているときも、予約の日によっては「明日は偶数の日で運転できな日」だといった。

 金持ちは規制をどうするか。
金持ちは一人2台の車を持ち、偶数と奇数のナンバープレレートを2つ持って偶数でも奇数でも運転ができるようにしているのだと。

 ボゴタの人は働き者が多のか、朝7時半頃には通行人も多いし道路は渋滞になっている。
公的機関はじめ旧市街地にすべてが集まっているのだ。
5年後には渋滞は解消されるだろうか。

  コーヒー農園の見学の時に通訳で見えた日本人でボゴタ在住40年という方の話では、「コロンビアは内戦が終わって、日本で言うと戦後の状態だ。戦後、日本は一丸となって復興に取り掛かり高度成長時代で成長したその時と同じ。今、コロンビアのエリートの人々が国造りに力を入れて日本への視察が増えている」といった。

 スペイン語アカデミーのはからいでコロンビアのオリンピックセンターに正式訪問した時、総長は「コロンビアはオリンピックでメダルをたくさん獲ってスポーツで世界に知らせていきたい」と抱負を述べられた。

 コロンビアの首都ボゴタに来て、60日目。
まだ会話はできないが、緊張してコーヒーを注文することはなくなった。「Por favor 」も吃ってスムーズに言えなかった私でしたが、珈琲の注文に「Buenas tardes,Por favor」と言ってから注文が出来るようになった。

 「Por favor」とか、「gracias」 は人格を表すのでたくさん使いなさいと日本を発つ時にアドバイスをいただいていた。
会話はまだだが、品格・人格だけは凛とした姿で接したいとおもっている。

 昨日はイタリアレストランに一人で入った。
メニューを見ずに「Por favor」と言ってピザのマルゲリータを注文した。
出てきたのはマルゲリータの上にトマトピューレとかイカ・エビがのっているのだった。
「No!」と首を振り、「残念だ」という仕草をした。

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店長らしき人がシンプルなマルゲリータを作り直して持ってきた。
食べながらスマホの翻訳をつかって「前回、友達と食べに来た。マリゲリータを食べて美味しかった。今日もマルゲリータを食べるのを楽しみで来ました。美味しくいただきました。ありがとう」とメモを書いてお勘定と共に渡した。

雨も降り出した。
ドアを出る時に傘を持っているのかと差し出してくれ、優しい笑顔で送り出してくれた。
「なんとかなる」で来たが、一人では決してできない。
コロンビアの人に助けられ、日本の皆様からはたくさんの励ましをいただいて今日がある。
励ましは祈りでもあった。
無事に帰ることを念頭に、コロンビアの首都ボゴタでスペイン語が上達する日々を過ごすこととしよう。

人生はミステリーだが、ひと糸づつ織り込んでいく機織りのようなもの。
72歳からの色はどんな模様を折りだすか。
縦糸と横糸が織りなす色に目を細めながら、100歳を迎えたい。

(続く)

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