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カウンセリングの神様(その①睡魔編)

ぼくは、睡魔とカウンセリングにおける一つの法則を発見した。そして唐突に思い出した。カウンセリングの神様と出会った夏のことを。

1.人の力のおよばない睡魔

今日はなにも予定のない、そして誰もいない日。妻は仕事へ、息子は学校へ出はらっている。面談カウンセリングが入らない日は自動的に在宅ワークとなるぼくが、丸々6時間ひとりになれるパラダイスな日。

しっかり者の妻と息子については、下記もご参照ください。

なのに、どうしたものか眠くて眠くてたまらない。静かな環境で、資料作りや調べものがはかどるかと思いきや、どう試みても数分も経たずまぶたが下りてくる。知らぬ間にすうっと眠りに入り、ふと起きると平気で2時間くらい経っている。

(ああ、もう昼か。もう少しで息子が帰ってきちゃうじゃないか)

そう思いながらも、またすうっと睡魔に屈する。そんなことを繰り返し、けっきょく息子が学校から帰ってきてしまった。

(仕方ない、そういう日もある)

息子の宿題を見てやりながら、またもやソファで睡魔に飲み込まれる。そうこうしているうちに妻が仕事から帰ってくる時間が迫りくる。さすがに眠り過ぎた頭重感と乾いて張りつくコンタクトレンズの不快感に舌打ちをしながら起き上がり、ドライカレーを作るべく冷蔵庫を漁る。
「一日ひまだったくせに、何も作ってないなんておかしいでしょ」という妻の口ぐせを、よせばいいのに脳内で嫌というほど反芻しながら自らをふるい立たせ、玉ねぎをひた刻む。

テレビを観ていた息子が、朝とたいして変わり映えしない部屋着のまま、玉ねぎと格闘して目を血走らせているぼくに視線をよこす。それから、気の毒そうな表情で小さなため息をもらした。

世の中の奥さんのことはわからないが、うちの妻に限っては、仕事帰りのタイミングは取り扱い注意だ。いったん妻が機嫌を損ねたら、家じゅうの空気がシベリアのごとく(行ったことないけど)凍てつく現象は、息子もよく承知している。男同士の暗黙のなんとかだ。

(安心しろ、息子。父ちゃんは立派にドライカレーを作ってみせる)

はたして妻は、カレーの芳香ただよう我が家のリビングに機嫌よくたどりついた。難所は抜けたぞ、息子よ。しかし、またもや睡魔が襲ってくる。もう昼間に何時間寝たかわからないけれど、こんな日はすべてをあきらめよう。食後もなんだかんだと仕事の愚痴を言いたそうにしている妻には悪いが、子どもと一緒に早々と布団に入ることにする。

まだ眠れる。どこまでも眠れる。無限もやし、無限ピーマンならぬ・・くだらないことを考えている間にすとんと意識が落ちた。


2.明晰な鏡として「在る」という仕事

翌朝は面談の予約が入っており、ぼくは契約している都内のカウンセリングルームでクライエントを迎えた。現れたのは、すごく常識的で知性を感じる細身の女性。何というか、申し込み時のインテークの印象は、もう少し野生の雰囲気すらあった。ちょっと意表を突かれた形の滑り出し。まあ、こういうことはある。

カウンセリングも中盤に差し掛かった頃、「実は、今まで誰にも話していないことがあって。でも、今日話した方がいいような気がするんです。いいですか」と相手が切り出した。こういうことは、カウンセリングではさして珍しくない。「どうぞ、お話ください」と、ぼくは応じる。

相手が語り始めてから5分後、5分前とはまったく別次元の世界がぼくらの間に横たわっていた。語られたことは、その女性の見た目にはまったくそぐわない、倫理観を問われるような内容。この人の見た目で、これほどの体験。それはそれは、開示する相手がいなかっただろうなと、容易に推察することのできるもの。そして相手の読みどおり、それは今日、このタイミングで語られてよかったものだった。

人は実にさまざまな縛りの中で生きている。自分で作り上げた縛りもあれば、社会規範という縛りもある。たとえば、男性ホルモンに恵まれた容姿でありながら、性自認は女性であるとか。善良そのものの見た目であるのに、何度も犯罪歴があるとか。清純の化身のような見た目で、性的な依存に苦しむとか。明るい人気者という表の顔を持ちながら、壮絶な自己否定に苦しむとか。その例は枚挙にいとまがない。

ただ、いつ、どこで、だれに、どのように吐露するのかということは、けっこう重要である。本当の自分自身を生きるには、まず自分のありのままを直視し、許し、受け入れ、愛することが必要で。ありのままの自分を発信して、人にもありのままを愛されるっていうのは、その後の話になるわけで。

まず他者に認めて愛してもらって自己肯定感を高めるというプロセスもあるのだが、自己肯定感が脆弱なまま他者からの承認にすべてを預けると、支配されたり利用されたり、不健全な依存関係に陥ったりすることがある。そこがむずかしいところ。

そんなわけで、カウンセリングの場というのは、えてして「安全に自分をさらけだす試行錯誤の場」として使われることになる。安全という理由は、カウンセラーとクライエントの関係性が日常を離れた非現実的なものであり、契約によって守られているからである。

クライエントは非現実の仮想空間で、精神的に一枚脱いでみる。訓練されたカウンセラーというのは、一般的にありがちな価値観で相手を裁くことをしない。驚いて逃げたり、拒否したり、 説教したり、興味本位で食いついたり、手放しで褒め称えたりもしない。

ただし、双方の間で起きているプロセスやカウンセラー自身の内的な体験について、ことばで伝え返すという芸当は持ち合わせていると思う。人に拒否されるのが怖くて誰にも話せない秘密がある話し手としては、とても安全に自分の姿を映してみることができる鏡になる。

ふとクライエントの顔を見ると、表情から苦悶の色が消えつつあった。自分をがんじがらめに縛っていた鎖を自らの手で脱ぎ捨てていく姿を、ぼくは幾度となく見てきた。

正直、ぼくからしたら、「こんなことで、何十年も自分を打ちのめしてきたの」と、切なくなると同時に、誰かに話しても怖れていたようなことは起きないような「こんなこと」で死ぬほど悩まなくちゃいけないくらい、社会という場所が人にとって厳しい査定の場であることを痛感するのだ。

人は思いのほか温かく、思った以上に冷たかったりする。人それぞれの独特な内的な世界と、温かくも冷たくもある社会との橋渡しを、明晰な鏡の役割を果たしながら安全にアテンドするのが、ぼくの仕事。

3.睡魔の効能

憑き物が落ちたような表情になったクライエントを見送ってから、ぼくは相談室のクライエント側の椅子に座り、昨日の耐えがたい睡魔について思いをめぐらせた。そしてひとつの法則に思い当たった。

これまでの経験上、ものすごい眠気が襲ってくるときは、だいたいものすごい自己開示をするクライエントがやってくる前触れだ。耐えがたい睡魔に屈すると、思考が強制シャットダウンされ、充電器につながれたような状態になるのだが、それは非常に理にかなっている。

結果論だが、眠るしかなかった翌日の脳内というのは冴えわたっている。意図せずとも混じりけのない状態で相手の声を聴き、屈折の少ない鏡で澄んだ響きを返すようなやりとりが生まれやすい。

聴き手の価値観にまみれた屈折のきつい響きが返ってくること(不用意に驚いたり不快感を示したり、説得したり説教したり洗脳したり、興味本位で掘り下げたり、やたら褒めたり励ましたり)が何度か続くと、相手はいとも簡単に話す意欲を失う。

逆の場合はどうか。聴き手がどこまでも虚心に、どこまでも誠実に、どこまでも純粋に、どこまでも関心をもって耳を傾けると、話し手は潜在意識の深いところへ降りていく勇気を得る。つまり、自分の中にある未踏の森に歩みを進めてみたいという知的探求心に似た気もちが、怖れを凌駕する瞬間が訪れる。未踏の地に歩みを進めても、安全に戻ってこられるだろう基地(聴き手)を得てこそである。

今日のぼくが、それをやったのかはわからない。だけど、わからんちんで気の小さいぼくは、放っておくと未来のカウンセリングの準備などという小賢しいことをしそうになる。まだ会ってもいない人とのカウンセリングの準備なんて、できるわけがないのに。

もし、カウンセリングの神様がいるとしたら、「頭の中でのみ展開するプロセスはすなわち妄想。妄想の世界であくせくするのをやめ、生身の相手と対峙する瞬間に一点集中で備えよ」ということなのだろう。

ぼくは、唐突に思いだした。

生まれて初めて銀座のクラブを訪れ、なぜか人生に一度しか会えないというヒーラーに会うために福岡県まで飛ぶ羽目になったことを。そしてカウンセリングの神様のご神託を受けることになった妙ちきりんなあの日のことを。

(つづく) 


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