アジカンのゴッチ氏が蒔いた種と、ぼざろのぼっちが受け取ったのかもしれない果実みたいな話。
ぼざろに触れてのASIAN KUNG-FU GENERATIONのゴッチ氏こと後藤正文さんの語りがどちらも面白かった。
今さらではあるが大事な予備知識として。ぼざろこと「ぼっち・ざ・ろっく!」は、ゴッチこと後藤正文氏所属バンドのアジカンこと「ASIAN KUNG-FU GENERATION」へのリスペクトがそりゃーもう強く窺える作品である。全12話すべてのタイトルはアジカンの曲のもじりであるし、後藤・伊地知・山田・喜多とバンドメンバーの名字も肖っているし、いわんやエンドロールに歌われた「転がる岩、君に朝が降る」をである。
そうしてリスペクトを捧げられた当人様がぼざろについて語ったのだから、まあ面白くないはずがないのだけど。
語られたのは、主にアジカンがインディーズだった頃の話で、そのお話を濃密たらしめたのはもちろん氏の血が通った体験談だからこそだろうけど、ぼざろの、下北沢付近やライブハウス描写のやたらと丁寧な描写や、或いは、ぼっちの「何者かになりたい」というの率直で根源的な願望が、触媒として作用して濃いめに引き出せたというのもあるのではなかろか。
特に、ゴッチ氏が自負として語った以下の部分が目頭にキタ。
アジカンの功績とはラインを異にする話ではあるけども、わたしは音楽を一番聴いてた頃に「音楽をファッションやスタイルみたいに消費しないでくれないか」という鬱屈を世間に対して抱いていたので……青少年の特権ですよね「世間」とかいうクソデカ主語への反感。「音楽」もなかなかにデカ主語だけど……まあ。今となっては「まあそういう消費の仕方もアリじゃないっスか」程度にケズれた鬱屈だけども、いわゆるシーンというものに、舞台に立つ人々もそうした逆風や矢面に立たされているものだとは想像が及ばなかった。
以下はポッドキャストからの引用になるのだけど、文意の通りやすいよう恣意的に順番を前後させているし、音声なので聞き間違いもあろうかと思う。もちろん詳しくは実際に視聴してほしいのだけど。以下。
わたしにとって経年で劣化してく程度の鬱屈は、彼らにとっては、好きなことを続ける為に立ち向かい続けなければならない切実な問題だったのだ。今の、いわゆる音楽シーンは彼らが影響を与えあいながら育んだものだった。サブスク等で大づかみに近年のロックを聴いては「やー最近の音楽おもしろいわー」とか呑気に呟いているわたしは知らずその成果物にあずかっていたのだ。今さらながら、ほんとに今さらながら知った。
ゴッチ氏のぼざろへの言及はまだまだ面白く、ぼざろから近年のロック史をたどれるみたいな話へ及ぶ。
氏の指摘のとおり、結束バンドのアルバムの感想を検索してみると、皆がそれぞれ、あのロックバンドの演奏を思い出す、かのギターロックのテイストを感じる……と、様々に口々に思い思いに例えを出している。
(そもそも事実として楽曲参加メンバーの大半がきっちり「それ系」の人々である。例えば「Distortion!」作詞作曲の谷口鮪氏(KANA-BOON)はアジカンのコピーバンドからスタートしたそうだ)
世の流れというものはおおむね個人には抗えないものだけど、でも、誰かが何かをしなければ世の中は変わらない。ゴッチ氏の自負の通り、ロックという定義は一時期と比べて確かにひろがり、アジカンはその変化の先駆けにあった。
ゴッチ氏は、かつての日本のロックを「ある種のドレスコード」と例えて、陰キャという言葉もまたドレスコードから生まれたバイアスだと解釈した。
だとするなら、後藤ひとりという存在はそうして解放されたドレスコードの末裔だ。「まあ、バンドは陰キャでも輝けるんで」という一言を真に受け、まっピンクのジャージ姿で、陰キャという自覚にがんじがらめになりながら、それでも「猫背のまま虎になりたい」と歌う(Voは喜多ちゃんだけど。
なんなら完熟マンゴーを被って。
陰キャでも「暗くてもそれが個性だから」「私にとっては、ほんとにヒーローにみえたよ」「みんなにカッコイイところ、みせてよ!」と手を引かれ、手を引いてくれた皆と何かを成し遂げたいとステージに立つ。
その地点は、アジカンが端を開き、自身の好きな音楽を個性として歌い主張してきたバンドマン達の現在最長到達点のようにも思える。
いずれにせよ、一つの成果物なのは、きっと間違いない。
その成果物を結ぶ歌が、アジカンのカバーであり、しかもそれが「転がる岩、君に朝が降る」であるのは、美しいと思う。
ほんとに美しいと思う。そう思いました。
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