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手紙社リスト音楽編VOL.9・堀家敬嗣による、勝手に輝く!「ウラ日本レコード大賞」

あなたの人生をきっと豊かにする手紙社リスト。9回目となる音楽編のテーマは、歌謡界の年末の風物詩「レコード大賞」。なんと今回は、堀家敬嗣教授が、「勝手に輝く! ウラ日本レコード大賞」というテーマで、各年の「堀家教授が選ぶレコード大賞曲」を発表してもらいます。いやあ、今回も読み応えがありますよ!

勝手に輝く!「ウラ日本レコード大賞」

『輝く!日本レコード大賞』
かつて年末年始のお茶の間に家族が集っていたころ、その憩いの中心にはテレビがありました。学校も職場も休暇となる年末年始それ自体が非日常的な期間であるうえに、この期間のためだけに企画された特別番組の不規則性がそれを促したのです。大晦日にTBS系列で生放送されていた『輝く!日本レコード大賞』やNHKによる『NHK紅白歌合戦』とともに年は暮れ、除夜の鐘を聞いた『ゆく年くる年』で新年を迎え、フジテレビ系列の『新春かくし芸大会』はきまって年始の和みを提供してくれました(*1)。

とりわけ、『輝く!日本レコード大賞』については、必ずしもその年のヒット曲のみで構成されるところではない『NHK紅白歌合戦』とは異なり、この年間を代表し、それを特徴づける楽曲として選出される大賞の行方を予想する愉しみはもちろん、その候補曲が紹介されていくなかで1年を懐古的に総括する機能もありました(*2)。それは、まさにその年が終わろうとしている瞬間の切迫を、回復しようのない喪失の感覚とともに強く印象づける番組であったはずです。

しかしこの特別番組も、大晦日ではなくその前日に生放送されることが恒例となったいま、そうした意義はすでに希薄化しています。それどころか、この姿勢は、年末年始の特別さ、その非日常性が均され、これを平坦なものとすることに寄与しています。

ところで、テレビによる「日本レコード大賞」の生放送は、当初から大晦日に設定されていたわけではなく、その第1回となる1959年には12月27日に実施されています。しかも、のちにTBSとなる当時のラジオ東京テレビが担当したその放送も、あらかじめ受賞曲が決定され、すでに公表された周知の結果を確認する番組として、後日の授与式の様子を生中継するものでした。各部門の受賞作品が順に紹介され、表彰のうえ楽曲が歌唱される体裁のそれは、いわば単なる式典の中継にすぎなかったのです(*3)。

これが『輝く!日本レコード大賞』としてTBSによる大晦日の特別番組となるのは、開始からちょうど10年後の1969年のことです。その年の最後の晩を彩るにふさわしい煌びやかな番組として派手な演出が施されたこのときから、各部門の受賞曲も放送時間のあいだに審議のうえ決定され、その結果が番組内で生中継される方式へと変更されています(*4)。要するに、テレビ放送にとってそれは、当初はひとつの番組によって伝える報道の対象であったはずが、ここでようやくひとつの番組として自ら積極的に介入し、特別に加担するに足るコンテンツとなり、ショー化したわけです。

大賞の発表と受賞の感動を、そして涙まじりの歌唱を、その年の最後の瞬間に向けて可能な限り先送りしようとするこの番組の構成とは、まぎれもなくサスペンス映画のものでしょう。そうして結果への到達が宙吊りにされるほどに、焦らされた観客は、煽られた視聴者は、いよいよ鼓動を高鳴らせずにはいられません。表彰式典の会場は、こうして公演興行の劇場へと変容します。事実、それまでは文京公会堂や共立女子学園講堂で開催されていた授与式は、このとき帝国劇場に会場を移しています。

そこからショーの始終をテレビで生放送することは、現場から中継カメラの向こう側へと、つまりはテレビ画面のこちら側へと、公演興行の劇場としての性質を浸透させるものであり、帝国劇場の客席は、視聴者が固唾を飲んでその筋書きの行方を見守るお茶の間にまで延長されることになります。あるいはむしろ、お茶の間こそが、さまざまな位置に適切に配され、慎重に予行演習された中継カメラによる映像の効果的な組成をもって、その瞬間を目撃するために入念にあつらえられた特等席となるのです。

「日本レコード大賞」
「日本レコード大賞」の結果をもって歌謡曲の1年間を結論づける瞬間を、この年が去り、次の年を迎えようとしている荘厳な瞬間に合致させようとする『輝く!日本レコード大賞』の仕組みは、めぐる春夏秋冬にそってすごされた暦の最後に刻まれるべき出来事として、「日本レコード大賞」それ自体を権威づけることに成功します。これもまた、大賞を受賞した楽曲がその年の象徴たりうる所以のひとつといえるかもしれません。

それどころか、大晦日に放送されることが恒例となった特別番組としての『輝く!日本レコード大賞』は、帝国劇場の舞台で歌唱されるその年のヒット曲の数々とともに、一巡した四季のそれぞれを名残り惜しみつつ最後の瞬間の訪れを期待する視聴者が、これを家族総出で座して待機するほどに価値あるものとして、自身が輝くことで「日本レコード大賞」を輝かせる発光装置だったわけです。

歳時記の最後の余白にはこうして『輝く!日本レコード大賞』が記載され、『NHK紅白歌合戦』とあわせて大晦日の風物詩となっていきます。

はじめての「日本レコード大賞」では、水原弘のデビュー盤となった〈黒い花びら〉が大賞の栄冠に輝いていますが、この受賞に得心しない審査員もいたようです。彼らの反駁の主旨は、この楽曲がロカビリーだからというものでした(*5)。戦前からの旧態依然とした保守的な嗜好にとっては、レコード会社との専属契約がないどころかはじめて詞曲を作った永六輔と中村八大の仕事を、やはり新人の水原弘が歌唱していたこともまた、少なからず否定的に作用していたものと考えられます(*6)。

それでもなお、設立されたばかりの日本作曲家協会が、会長の古賀政男と理事長の服部良一のもと最初の仕事として実現に奔走した「日本レコード大賞」の構想は、欧米の音楽と比肩する日本の大衆音楽を生み育てるために、世代間やジャンル間の溝を埋め、垣根を越えて、作詞家や作曲家、さらには歌い手たちの向上心を刺激することを目標に謳っていました(*7)。要するにこれは、本格的な“和製ポップス”としての歌謡曲の新たな概念形成です(*8)。

高邁といっていいこのような理想にしたがうならば、既得権益を囲うべく制度化された大手レコード会社による音楽の生産体系との摩擦は不可避です。にもかかわらず、歌謡曲を解放する姿勢の表明として〈黒い花びら〉の新しさを強力に推したのは、服部良一、そして古賀政男だったとされます(*9)。

〈黒い花びら〉を、まさに新しさのゆえに否定する勢力とは、たとえこれが日本の音楽業界にとって支配的な権威であろうとも、日本に固有の新しい歌謡曲の発展を阻害する旧弊にほかなりません。その大賞受賞は、まぎれもなく新しい時代の到来を予告するものとなります。

ところで、“和製ポップス”の確立は、別の観点からも急かされるところでした。

同時期のアメリカでヒットした最新のロカビリーの楽曲を輸入し、これに日本語の歌詞をあてがってカヴァーした平尾昌章や山下敬二郎らの歌唱に、1950年代終盤の日本の若い聴衆が熱狂していたころ、音楽産業は、その原曲の使用をめぐる著作権をきわめて杜撰に扱っていました。GHQによる占領下にあって自国式の民主主義を日本に根づかせるための啓蒙の手段として、占領国における自国の大衆音楽の利用に鷹揚だったアメリカが、サンフランシスコ講和条約が締結されたのちもなお、これについては寛大なままだったことが原因とされます。

しかし相手が欧州諸国となると事情は異なります。さるフランスの音楽関係者が来日した折に、自国の楽曲がほとんど無承諾で日本語の歌詞をあてがわれてカヴァーされ、対価もなく勝手に発表されている現状を目撃し、母国の知的創作物に対する扱いの杜撰さに驚き、呆れ、JASRACに強く抗議したうえで、その厳密な管理を申し入れ、日本政府には法改正さえ求めたといいます(*10)。

こうして“翻訳ポップス”は転機を迎えます。これ以降、歌謡曲は、若い日本の聴衆のために欧米の最新のヒット曲と遜色のない“和製ポップス”の創出を模索することになります。けれどその機が熟するまでは、いましばらく、ただし今度は著作権の厳正な管理をめぐる国際的な法の趣旨を遵守しながら、とりわけ漣健児による日本語詞とともに、“翻訳ポップス”もまた歌謡曲のありようを差配する彩りとなります。

ウラ「日本レコード大賞」
〈黒い花びら〉が「日本レコード大賞」を受賞して以降の歌謡曲の歩みとは、そうして同時代の欧米の大衆音楽における最新の流行に頼みながら、これを歌謡曲へと仕立てあげていく独自の仕方を真剣に検討するものでした。実際、この時期の「日本レコード大賞」の選考には歌謡曲のありようの変遷や逡巡が反映されており、各年の受賞曲を順にたどれば、せめぎあう保守と革新のあいだの動揺がみてとれます。

こうしたなか、『輝く!日本レコード大賞』が大晦日の恒例となるころには、「日本レコード大賞」の行方にある種の安定がもたらされます。この安定は、歌謡曲の聴衆がテレビの視聴者となってその年間をあらためて懐古するにあたり、ここまで経験してきた歌謡曲の状況と、『輝く!日本レコード大賞』において総括される内容との合致に由来するものにほかなりません。要するに、歌謡曲のありようをめぐって送り手の側の意向と受け手の側の実態とがずれなく一致し、誰もが納得するものとして「日本レコード大賞」の共有が達成されるようになっていたわけです。

しかしこの安定におごって送り手の側の意向が肥大するとき、それは受け手の側の実態からずれ、はみだし、遊離せずにはいません。「日本レコード大賞」は、楽曲における「芸術性」や「独創性」とともに「大衆性」を選考基準としました(*11)。にもかかわらず、『輝く!日本レコード大賞』の成功をもっていったん権威化されてしまった制度をめぐって、当初はこの企図に批判的だった大手の各レコード会社などが、企業や業界の都合をそこに反映させようとしはじめます。

確立され、権威づけられた「日本レコード大賞」における政治的な運用の余地は、おそらく、これがレコード盤のセールスを根拠とする量的にして客観的な結果に対する褒賞ではなく、そのヒットにおける質的にして主観的な吟味にもとづく評価による褒賞であることのうちに存しています(*12)。歌謡曲に対する嗜好が細分化され、かつて家族で共有した年末年始のお茶の間の機能が個室の閉鎖性をもって分断されてしまったことも、のちに「日本レコード大賞」が迷走する要因となります(*13)。

事実、いま私たちが「日本レコード大賞」の受賞曲を俯瞰的に一覧するとき、いくつかのものについては、相応の居心地の悪さをともなう違和感を覚えることは不可避であり、それらに比してより大賞にふさわしい当年の楽曲を想起することさえできるでしょう。

なるほどそれは、事後の観照的な視点から無責任に省みられた、ある種の歴史修正主義的な発想によるものかもしれません。それでもなお、娯楽のきわみとしての「日本レコード大賞」が歳末の非日常性においてのみ催される縁起ものであり、だから『輝く!日本レコード大賞』も大晦日の無礼講を活性化する演目としての祭典である以上、これをめぐる少々の戯れごともまた、年の暮れの一興として許容されるはずです。

いくつかの「日本レコード大賞」受賞曲に対して覚える違和感を払拭すべく、まさしくその一覧に勝手に修正を施し、いまこの誌面で「ウラ日本レコード大賞」を開催してみたいと思います。そのために、本家の「日本レコード大賞」の制定目的と本来の選考基準とをふまえつつ、さらにそこに、以下のような独自の選考基準を考慮します。

なによりもまず、私たちの特権的な利点とは、すでに事後の視座にあることです。回顧的な視点のもと、その時代を特徴づけた楽曲の社会的な意義を再評価することができます。加えて、その楽曲がいまなお親しまれ、愉しまれているか否かについても、そこからは把握できるでしょう。もちろん、当該の楽曲の発表までの活躍ばかりでなく、それ以後の歌い手の次第も私たちには既知のものです。当然、本家の大賞受賞曲と遜色がない程度のセールスの有無も選考にあたって参照されます。

ところで、私は、日本語で書かれた歌詞をあてがわれた楽曲であれば、作詞や作曲、歌唱を担当した人物の属する国籍にかかわらず、これを[歌謡曲]と認識しています。[歌謡曲]の定義を最大限に拡張したこの認識にあっては、“翻訳ポップス”もまた、まぎれもなく歌謡曲であり、この誌面で開催される「ウラ日本レコード大賞」の選考対象の資格を有します。

第1回となる1959年の「日本レコード大賞」受賞曲である〈黒い花びら〉を基点に、1960年から1989年までの30年間を、回顧されるべき期間とします。というのも、1990年には「日本レコード大賞」は名実ともに機能不全に陥ってしまうからです。

1960-1964
歌謡曲が“和製ポップス”の確立を急ぎ、そのありようを模索していたころ、この姿勢は、たとえば本放送を開始して日も浅いテレビ業界の姿勢と重なるところでもありました。このような文脈のもと、1961年から1966年にわたりNHKが制作し、生放送された『夢であいましょう』を舞台に、多くの“和製ポップス”が誕生することになります。

1960年の本家「日本レコード大賞」を受賞したのは、和田弘とマヒナ・スターズが松尾和子を迎えて吹き込んだ〈誰よりも君を愛す〉です。吉田正の作曲によるこの“ムード歌謡”の受賞は、「日本レコード大賞」以前を、すなわちジャズと歌謡曲との関係性を証言する選考結果であり、そのぶん1961年以降の“和製ポップス”の新しさをきわだてるものとして、「ウラ日本レコード大賞」でも踏襲したいと思います。

翌1961年は、第1回の「日本レコード大賞」で〈黒い花びら〉との決戦投票にまでもつれたすえに、1票差で大賞を〈黒い花びら〉に譲ることになった〈夜霧に消えたチャコ〉のフランク永井が、〈君恋し〉で待望の大賞を獲得しています(*14)。フランク永井こそは“ムード歌謡”の真の歌い手ですが、このレコードは〈あほ空〉と同じ1928年に二村定一により吹き込まれた音盤を原曲とするカヴァー盤でした。

歌詞を日本語に置換したロカビリーなど最先端の洋楽が直截的に日本の音楽産業を、とりわけレコード会社に専属する職業作曲家の地位を脅かした1950年代終盤の“翻訳ポップス”の黎明期に、歌謡曲における洋楽の摂取と消化をより穏便に実行していたフランク永井の貢献を、論功行賞のかたちでここであらためて評価することになったのでしょう。そこには、はじめての「日本レコード大賞」を彼に贈ることができなかった蹉跌にもとづく忖度を邪推したくもなります(*15)。

しかし、この年には坂本九の歌唱による〈上を向いて歩こう〉が発表されています。永六輔と中村八大のコンビにとっての代表作となるばかりでなく、日本の大衆音楽史にとって最重要にして最高傑作のひとつであることに疑う余地のないこの楽曲は、なるほどレコード盤の発売こそ10月となり、そのヒットも年をまたぐことになったとはいえ、すでに8月のうちに『夢であいましょう』のなかで紹介され、発売とともに大きなセールスをあげています。
当時の選考では、〈黒い花びら〉の場合と同様に、楽曲がアメリカ的すぎるとの理由から〈上を向いて歩こう〉に反対意見が呈されたといいます(*16)。そうした保守的な態度にとっては、圧倒的な才能をみせつけていた永六輔と中村八大のコンビが時代を刷新し、毎年の大賞を独占してしまうことへの懸念が働いたのかもしれません。

いずれにしても、〈上を向いて歩こう〉に大賞を授与することのできない「日本レコード大賞」に説得力はありません。“シティ・ポップス”の始祖とも考えられるフランク永井の歌唱曲が「日本レコード大賞」の歴史に名を刻めないことは残念ですが、ここではあくまでも〈上を向いて歩こう〉を「ウラ日本レコード大賞」に推します。フランク永井の活動は1950年代後半の文脈においてこそ充実し、輝くものでした。要するに、「日本レコード大賞」の構想が彼の活躍に遅れをとったわけです。

1962年の「日本レコード大賞」受賞曲は橋幸夫と吉永小百合が歌唱した〈いつでも夢を〉です。この楽曲は、作曲の吉田正が、1950年代後半からのフランク永井との協働の一方で、歌謡曲の将来について、その新しい時代への刷新について、柔軟に対応できる抽斗の多さを保持していることの証左となりました。これ以外に、永六輔と中村八大の詞曲による〈遠くへ行きたい〉などは、大賞曲と甲乙つけがたい佳曲です。

しかしむしろここでは、まったく毛色のちがう、けれどこの時期を象徴する楽曲として、植木等による〈ハイそれまでョ〉を「ウラ日本レコード大賞」に選んでおくべきでしょう。青島幸男と萩原哲晶が詞曲を提供したこのコミック・ソングを選考の対象とすることそれ自体、当時ならば賞の権威を蔑ろにする暴挙と非難されかねませんが、この楽曲を成立させている技巧や芸当が歌謡曲を、そしてその歴史をどれほど豊かなものとしたかについて、いま私たちは、たとえば大瀧詠一らによるその再評価を介してよく理解するところです。

つづく1963年も永六輔と中村八大の年でした。大賞となった梓みちよによる〈こんにちは赤ちゃん〉のほか、坂本スミ子が歌唱した〈夢であいましょう〉もこの年にレコード音源化され、受賞の資格は十分以上にあったものと考えます。ザ・ピーナッツが発表した〈恋のバカンス〉は、欧米でヒットした楽曲に岩谷時子が訳詞をつけた“翻訳ポップス”と騙ってそのまま通用するような、宮川泰の作曲および編曲が西洋風味の強く香る“和製ポップス”であり、〈こんにちは赤ちゃん〉よりはこちらのほうが、「ウラ日本レコード大賞」にはよほどふさわしいかもしれません。

そのうえで、永六輔の歌詞のもと、中村八大のものとみまがうような曲調の〈見上げてごらん夜の星を〉が、いずみたくの作曲により坂本九に提供された事実は、“和製ポップス”の水準の向上を証言するものにほかならず、これをこの年の「ウラ日本レコード大賞」とします。

本家の「日本レコード大賞」では青山和子の〈愛と死をみつめて〉が大賞を獲得した1964年もやはり、「ウラ日本レコード大賞」についてはいずみたくの作曲作品が受賞を考慮されるべきでしょう。

岸洋子の歌唱による〈夜明けのうた〉は、旋律がいわゆるサビへと展開されることのない抑制的な楽曲です。Aパートの8小節とA’パートの8小節をあわせて1コーラスが成立し、構成として単純なぶん、少ない音符のあいだで起伏する旋律の抑揚がきわだちます。コード進行や3連符のリズムは、ボビー・ヴィントンの〈ブルー・ヴェルヴェット〉からの影響を感じさせます。

1965-1969 
1965年の選出は、少なからず物議を醸すことになるかもしれません。というのも、本家が大賞と承認したのは美空ひばりの〈柔〉に対してである一方、これに異を唱えてまでここで「ウラ日本レコード大賞」に認定しようと企む楽曲とは、漣健児の日本語詞をあてがわれたイタリアのヒット曲、すなわち“翻訳ポップス”そのものであり、そればかりかシングル盤〈はじめての恋人〉のB面収録曲でもあったからです。

弘田三枝子が歌唱した〈砂に消えた涙〉は1964年の12月に発売されています。ここでは、11月以降にレコードとして発売された楽曲を翌年の選考に譲る本家の慣例にならって、これを1965年の対象曲とみなしたうえで、単に「ウラ日本レコード大賞」に推すのみならず、のちの筒美京平による一連の女性アイドルへの提供曲の系列を準備し、方向づける歌謡曲の傑作として、最大限の敬意とともに賞賛すべき楽曲であると考えます。

1960年代後半の日本の音楽産業にとって、若者の音楽としてのフォークとロックはすでに無視できない勢力となっていました。レコード会社に専属する作詞家でも作曲家でも、あるいはレコード会社に所属する歌手でもないどころか、職業作家や職業演奏家でさえもない、いわばただの素人が、ジョーン・バエズやボブ・ディラン、ザ・べンチャーズやザ・ビートルズを見よう見まねで自作自演した楽曲を発表し、その姿勢がこの時代の歌謡曲を特徴づけることになります。

1965年の12月に発売された〈君といつまでも〉の加山雄三は、1966年に発売される〈空に星があるように〉の荒木一郎と並んで日本のシンガー=ソングライターの嚆矢となります。彼らはともに俳優業をもこなし、さらなる多能ぶりを発揮します。ここではやはり、セールスの規模や人口に膾炙した程度、さらには後進に対する影響なども参照し、〈君といつまでも〉を1966年の「ウラ日本レコード大賞」としますが、荒木の楽曲も相応のセールスを記録していることについては留意が必要です。なお、本家の大賞は〈霧氷〉の橋幸夫でした。

1967年には、〈見上げてごらん夜の星を〉のいずみたくが佐良直美に提供した〈世界は二人のために〉の壮大さが、いかにも彼のものらしく青臭いまでの爽やかさをともなって響きました。この楽曲の魅惑には抗いづらいところですが、しかし“グループ・サウンズ”に支配された時流を映す本家に追従し、「ウラ日本レコード大賞」でもジャッキー吉川とブルー・コメッツの〈ブルー・シャトウ〉が大賞作として妥当と考えます。

こうした文脈からすれば、つづく1968年の黛ジュンによる〈天使の誘惑〉の「日本レコード大賞」受賞は収まりが悪いものです。前年に美空ひばりが歌唱した〈真赤な太陽〉の企図を継承するように、いずみたくの作曲のもと、歌謡曲の核心への“グループ・サウンズ”の本格的な波及を実感させるピンキーとキラーズの〈恋の季節〉こそが、「ウラ日本レコード大賞」にはふさわしいでしょう。〈帰って来たヨッパライ〉のザ・フォーク・クルセダーズの目もありましたが、彼らの本領はこの年の10月の解散以降に発揮されるところです。

事実、メッセージ性の強い“関西フォーク”系の音楽が大衆の支持の獲得に難儀するなか、シューベルツを率いたはしだのりひこは、さっそく1969年の新春には〈風〉を発表し、“カレッジ・フォーク”路線へといち早く舵を切ります。学生運動の蹉跌を予見するような北山修の虚無的な歌詞を軽やかに綴る瀟灑な旋律は、メロディ・メイカーとしての端田宣彦の才覚を存分に表現するものであり、「ウラ日本レコード大賞」によく応える質があります。

なるほど、本家で受賞した〈いいじゃないの幸せならば〉も、いずみたくによる佳曲であることは否定のしようもありません。けれどこれは、いかにも時局にそぐわない結果であって、やはり〈世界は二人のために〉で大賞になれなかった相良直美への埋めあわせとの疑念を誘う審判でしょう。

1970-1974
1970年には、菅原洋一の〈今日でお別れ〉が「日本レコード大賞」を受賞しています。しかしいまではこの受賞にもまた、どこか釈然としない気配が漂います。この年には、いずみたくに師事した川口真が作曲し、名実ともにその最高傑作といって過言ではない〈手紙〉が由紀さおりの歌唱により発表されています。短調を基調とした楽曲において、ⅲ△7−ⅵ△7と連続して使用されるときの△7の響きの洒脱さは、けっして聴き逃されるべきものではありません。これがこの年の「ウラ日本レコード大賞」となります。

1971年と1972年の「日本レコード大賞」ほどわだかまりなく腑に落ちる選考はほかにないはずです。1971年には尾崎紀世彦が〈また逢う日まで〉で、翌1972年にはちあきなおみが〈喝采〉で、それぞれに大賞を受賞しています。阿久悠と筒美京平が協働した名曲となる前者であれ、吉田旺と中村泰士による一世一代の名曲となる後者であれ、いずれも日本の歌謡史上に燦然と輝く傑作のなかの傑作であり、そうした心境は、当該の時代をすごした老若男女のほとんどに共有されるところでしょう。

そのような意味からしても、このあたりが「日本レコード大賞」の、ひいては歌謡曲の真正の頂上期であったわけです。「ウラ日本レコード大賞」としても、そこに異論の余地はありません。

換言すれば、これ以降の「日本レコード大賞」の選考にはどこか危うい態度が見受けられます。おそらくそれは、限られた若者たちだけに支持される要因となっていたフォークやロックの先鋭性が、政治の季節の終焉とともに自ら角を削いで丸みを帯び、国際規模で謳われていた問題意識を私的な関心事へと急速に萎ませてしまったことと無関係ではいられません。1970年の声を聞くとともにいとも容易に商業主義に同調していったフォークやロックの大衆化は、「日本レコード大賞」においてもその扱いかたに苦慮するところとなります。

吉田拓郎の〈結婚しようよ〉がシングル盤として発売された1972年の年始から井上陽水のアルバム盤《氷の世界》が発売される1973年の年末までのあいだが、いわば歌謡曲の転換点でした。実際、1973年には、チューリップによる〈心の旅〉や南こうせつとかぐや姫による〈神田川〉が発表されたほか、すでに前年に発売されていたGAROの〈学生街の喫茶店〉も大ヒットするに至っています。この楽曲は、GAROの自作曲ではなく、山上路夫とすぎやまこういちによるフォークを模した歌謡曲でした。

「日本レコード大賞」は、こうした状況に当惑しつつ、五木ひろしが歌唱した〈夜空〉に栄冠を授けます。事実、服部良一などはこれを大人の歌として評価していたようです(*17)。しかしながら、このことは、すでに日本作曲家協会が融通の利かない権威となり、「日本レコード大賞」を体制的に硬直化させつつあった証左でもあります。仮に「芸術性」が歌謡曲にもかかわるところとして、これに資する楽曲の質的な担保に腐心するあまり、「独創性」や「大衆性」といった観点が軽んじられてしまうことにもなりかねません。

だからこそ、1973年の「ウラ日本レコード大賞」は、“グループ・サウンズ”の残滓が歌謡曲の中枢で機能していることを確認するためにも、女性作詞家の新鮮な日本語のもと加瀬邦彦が作曲した、沢田研二の歌唱による〈危険なふたり〉を該当作とします。

1974年の〈襟裳岬〉の受賞は、フォークの大衆への浸透をもはや「日本レコード大賞」さえが直視せざるをえなくなった実情を物語るものでした。加えてこれは、森進一を五木ひろしにつづく大賞歌手と位置づけることで、“演歌”に傾斜しがちな歌謡曲とフォークのあいだの親和性の高さを示唆してもいます。小坂明子の〈あなた〉のヒットを考慮しても、歌謡曲がフォークとの境界線を曖昧なものとし、これと融合していく傾向は明らかです。

とはいえ、事態は重層的に推移しています。それまでほとんど省みられることのなかった新しい要素が、このころから歌謡曲を華やかに彩っていくことになります。アイドル歌手の登場です。テレビ放送の意義を存分に活用し、お茶の間に対して聴覚よりもむしろ視覚に訴えることに重きを置く彼らの活躍は、たとえば服部良一が懸念を表明していたように、楽曲単体における、もしくはレコード盤における「芸術性」にかかわる質的な水準の絶対的な低下を、あるいは少なくともこれを強調する価値観の相対的な低下を、音楽産業にもたらさずにはいないでしょう。

それでもなお、これもまた歌謡曲における「独創性」、すなわち新しい表現のかたちです。このような姿勢が「大衆性」におもねるきらいもあることは覚悟のうえで、「ウラ日本レコード大賞」がフィンガー5の〈恋のダイヤル6700〉を1974年の大賞に選出するのは、なによりもこうした理由からです。洋楽的なリズム感に映える派手な振りつけと華美な衣装のかたわら、彼らの楽曲ではいつも歌謡曲的な泣きの旋律が用意され、むしろこのことをもって、海外で流行した意匠の単なる模倣に始終することを巧妙に回避しています(*18)。


1975-1979

1975年の「日本レコード大賞」は、前年の傾向を踏襲するものでした。吉田拓郎が作曲した〈襟裳岬〉につづき、今度は小椋佳の作曲による〈シクラメンのかほり〉で布施明が大賞を受賞しています。

Sugar Babeの《DOWN TOWN》をはじめ、大滝詠一の《Niagara Moon》や細野晴臣による《TROPICAL DANDY》、あるいは鈴木茂の《BAND WAGON》や荒井由実による《COBALT HOUR》など、いわゆる“シティ・ポップス”の胎動が強く感じられるようになったこの年は、しかしこうした名盤の発表がアルバムであいついだ一方、シングル盤については新鮮味に欠ける地味な顔ぶれとなり、まるで嵐の前の静けさとでもいった類いの凪の状態でした。かろうじて、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの〈港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ〉がついにロックの大衆化を達成したことは、なるほど画期的ではあれ、楽曲としての力不足は否めません。

ところで、この翌年に子門真人の歌唱によって大ヒットし、日本におけるシングル盤としていまなお更新されない最多セールス記録を保持しつづけている〈およげ!たいやきくん〉は、実際にはこの年の10月にフジテレビ系列の『ひらけ!ポンキッキ』において放送され、その年末にレコード盤が発売されています。したがって、いくぶん例外的な判断となることは承知のうえで、これを1975年の「ウラ日本レコード大賞」とします。

1976年の「ウラ日本レコード大賞」もまた、例外的な扱いを求めるものです。本家の大賞には都はるみの〈北の宿から〉が輝いています。しかしここでは、荒木一郎の1966年のデビュー曲である〈空に星があるように〉が、その10周年を記念して神保正明の手で新たに編曲を施され、発表された再録音盤に着目したいと思います。相応にヒットした原曲における海老原啓一郎の編曲よりもなお、再録音盤では、荒木自身による詞曲の潜在性が的確に理解され、楽曲と不可分の音響そのものとして、その可聴化が成功しているところと考えるからです。

これは、「ウラ日本レコード大賞」の選考対象となる楽曲が、単に歌い手によって音声化された譜面上の音符の連鎖の謂ではないことを確認するものでもあります。歌声を含めさまざまな楽器の演奏が一体となって編みあげ、時間にそって組成されていく音の塊。それが記録されたレコードから発せられる音響的な持続を傾聴するこそが、ほかでもない「ウラ日本レコード大賞」を謳う意義なのであって、そうした観点からすれば、〈空に星があるように〉の再録音盤ほど「ウラ日本レコード大賞」に適格なシングル盤はないかもしれません。

1977年は、本家の「日本レコード大賞」で栄冠を獲得した沢田研二の〈勝手にしやがれ〉のほか、森田公一とトップギャランによる〈青春時代〉、およびピンク・レディー〈ウォンテッド(指名手配)〉が三つ巴となる悩ましき豊年です。

ピンク・レディーは本家では翌年に〈UFO〉で大賞を受賞していますが、楽曲としての完成度は〈ウォンテッド(指名手配)〉のほうがよほど充実しています。沢田研二の〈勝手にしやがれ〉は名曲です。ただし、すでに「ウラ日本レコード大賞」となった〈危険なふたり〉の疾駆する緊張感は、そこでは過去のものです。〈青春時代〉もまた名曲ではあれ、その問題意識はいかにも時代錯誤的といわざるをえず、こうした検討の結果、1977年の激しく競られた「ウラ日本レコード大賞」は、ピンク・レディーが歌唱した〈ウォンテッド(指名手配)〉に授与されます。

したがって、本家が大賞とした〈UFO〉は1978年の選考から漏れます。かわりに「ウラ日本レコード大賞」となるのは、ゴダイゴの〈ガンダーラ〉です。

世良公則&ツイストや原田真二が前年の晩秋以降に、そしてサザンオールスターズはこの年の夏にデビューしたばかりでした。年初よりTBS系列で放送が開始された『ザ・ベストテン』をはじめ歌番組への出演を微塵も厭わず、アイドルのように積極的にテレビに露出する彼ら新しい世代の音楽がはじまろうとしていたところです。

「日本レコード大賞」の受賞を符牒に予期されたものとはいえ、ピンク・レディーの人気の失速は、あまりに急激な減速のため、むしろ失墜とでも形容されるべき次第でした。すでにキャンディーズは解散を発表していました。1980年の山口百恵の引退を含め、いくつもの重要な座席が空くことになります。この空席を埋めるべく、1979年から1980年にかけて、“ニュー・ミュージック”をはじめいかにも多彩な佳曲群が歌謡曲として大量に投入されます。

広告業界での関係者の暗躍も功を奏してか、〈魅せられて〉のジュディ・オングが栄誉に輝いた1979年の「日本レコード大賞」とは、そうした間隙の出来事でした(*19)。このような混沌にあって、歌謡曲史上もっとも印象的な前奏に飾られた傑作が発表されます。萩田光雄の編曲が鮮烈に冴える久保田早紀の〈異邦人〉がそれです。自作自演となる彼女のこの衝撃的なデビュー曲が、1979年の「ウラ日本レコード大賞」となります。


1980-1984

1980年以降の歌謡曲の行方を方向づけたもの、それもやはりテレビでした。
1978年の秋から翌年にかけて日本テレビ系列で『西遊記』の放送が開始され、ここで音楽を担当していたゴダイゴが発表するシングル盤は、〈ガンダーラ〉を端緒にことごとくヒットします。タケカワユキヒデに倣って英語まじりの歌謡曲を当たり前のように口遊みはじめた子どもたちは、ただしその1年後には、TBS系列で放送される『3年B組金八先生』の視聴者となります。まぎれもなく彼らこそが、1980年代の歌謡曲の聴衆です。

『3年B組金八先生』に生徒役として出演した俳優陣のなかでとりわけ人気を博したのは、ジャニーズ事務所に所属していた3人の男子、すなわち“たのきんトリオ”でした。なかでも、当時すでに成人に近かった年長の田原俊彦が、このドラマの放送がひとまず終了する1980年の春を待ってただちにデビューすることは、彼らの人気の過熱ぶりから明らかであり、実際、6月には〈哀愁でいと〉が発売されています。

歌謡曲は、ここで残酷な断面をにわかに露呈させます。歌謡曲にとってあくまでも傍流だったアイドル歌手の存在は、いまやさまざまなジャンルにおける音楽性の偏差を測る基準となり、ときの歌謡曲のありようを支配します。1980年の「ウラ日本レコード大賞」が田原俊彦の歌唱した〈ハッとして!Good〉を大賞に推挙する所以です。

本家の「日本レコード大賞」は、そうした現実と正対することなく、1980年には八代亜紀の〈雨の慕情〉に、1982年には細川たかしの〈北酒場〉に、1983年にはやはり細川の〈矢切の渡し〉に、1984年には五木ひろしの〈長良川艶歌〉にと、1981年の寺尾聰による〈ルビーの指環〉を除きこの期間すべてにわたり“演歌”に大賞を授与しつづけました。

1981年の音楽産業は、前年の暮れにデビューした近藤真彦に対する熱狂の渦中にありました。その活躍にかたくなに顔を背けた「日本レコード大賞」が、テレビ朝日系列の『西部警察』における寺尾の扱いを不問としてまでも、〈ルビーの指環〉については“演歌”の埒外といって目を瞑るわけにはいかなかったようです。「ウラ日本レコード大賞」もまた、“シティ・ポップス”の雰囲気を色濃く漂わせるこれを1981年の大賞とすることに異議はありません。

したがって、近藤真彦は、松本隆と山下達郎が詞曲を提供した〈ハイティーン・ブギ〉の歌唱をもって、ようやく1982年に「ウラ日本レコード大賞」の栄冠に輝くことになります。

〈ハッとして!Good〉が使用されたグリコのCMで田原俊彦と共演していた松田聖子は、翌1981年には自ら歌唱した〈風立ちぬ〉とともに今度は単体でグリコのCMに起用されます。彼女の活動の真の充実は、少女の名残りある1980年のデビューからしばらく三浦徳子が担当していた作詞を、1981年の〈白いパラソル〉で継承した松本隆が、1984年の〈ハートのイアリング〉を最後に彼女のための言葉を綴る筆をいったん置くまでの期間に相当します。
〈天国のキッス〉から〈ガラスの林檎/SWEET MEMORIES〉、そして〈瞳はダイアモンド/蒼いフォトグラフ〉へとつながる1983年の松田聖子は、まさしくその最盛期にあったにちがいありません。

〈SWEET MEMORIES〉や〈瞳はダイアモンド〉は、いまや“和製ポップス”のスタンダード曲となって広く親しまれ、本家「日本レコード大賞」の趣旨にも十分に適う楽曲です。けれど“和製ポップス”の達成と歌謡曲の可能性をより深化させたのは、〈天国のキッス〉や〈ガラスの林檎〉の側でした。1983年の「ウラ日本レコード大賞」は、転調につぐ転調も旋律の展開に無理を強いることのない細野晴臣による作曲のもと、歌い手としての成熟を感じさせた〈天国のキッス〉に贈られます。

なお、松本隆は、1981年から1983年までの「ウラ日本レコード大賞」について、3年連続でその大賞受賞曲に歌詞を提供した作詞家となります。

1983年の松田聖子を輝かせたもの、それは、松本隆ら協働者の優れた仕事であるとともに、彼女の背中を猛追する中森明菜に対して覚えた逼迫感であったかもしれません。事実、彼女の〈天国のキッス〉と〈ガラスの林檎〉の作曲家であった細野晴臣は、同じ年の中森明菜に〈禁区〉を提供しています。この楽曲においてすでに「ウラ日本レコード大賞」の候補として検討される資格はあったものと思われますが、結果的にそれは翌年まで持ち越されることとなります。

高中正義による〈十戒〉および井上陽水による〈飾りじゃないのよ涙は〉が、1984年の中森明菜の代表曲でしょう。ここでは、本家における翌年の大賞授与に先んじて、彼女の新境地を開いた〈飾りじゃないのよ涙は〉を、11月の発売とはいえ1984年の「ウラ日本レコード大賞」とします。


1985-1989

1980年代前半における度をすぎた“演歌”への肩入れが不評を買ったことへの反省からか、1985年の中森明菜による〈ミ・アモーレ〉をはじめ、その後半の「日本レコード大賞」はすべてアイドル勢の手に渡ることになります。
1985年には、前年からのチェッカーズの人気が最高潮に達していました。〈飾りじゃないのよ涙は〉の1週間後に発売された〈ジュリアに傷心〉などがその頂点かと思われます。ただし「ウラ日本レコード大賞」としては、仮に彼らの業績を正当に評価するならば、おそらくその前作〈星屑のステージ〉こそが大賞に値するものと考えます。

それゆえに、1985年の「ウラ日本レコード大賞」については、セールスの重視から大きく観点をずらし、斉藤由貴の〈卒業〉を選定します。1979年の「ウラ日本レコード大賞」を逃した〈魅せられて〉の筒美京平が、松本隆の歌詞と武部聡志の編曲、そして斉藤由貴による歌唱のもと、変遷する時代の鏡にふさわしい歌謡曲の体裁を探り、その表現を洗練させる彼の天才をあらためてみせつけた楽曲でした。

つづく1986年も、本家にあっては中森明菜が〈DESIRE〉で大賞を獲得しています。しかしここで注目すべきは、サザンオールスターズの活動をとおして緩やかに変容しつつあった桑田佳祐の音楽が、メンバーである原由子との結婚と彼女の出産を機にこのバンドを休止するかわりに、新たにKUWATA BANDを結成し、自身にとって音楽とはなにかをより先鋭的に問いはじめたことです。

その音楽的な本分を、まずは日本におけるロックのありようの模索に費すところと自認していただだろうことは、彼がKUWATA BANDで唯一のアルバム盤の題名を《NIPPON NO ROCK BAND》とし、さらにその収録曲すべてが英語詞で吹き込まれたことからも明白です。日本語のローマ字表記と英語とが混交したこの表題において、「日本のROCK BAND」を標榜することは、そのまま「日本 NO ROCK BAND」、すなわち英米式の真性のロックを演奏するバンドが日本には存在しえないことの意味とも解釈できます。

英米の大衆音楽であるロックを日本人が志すとき、英語の歌詞で歌えばそのままこれがロックと聴かれるような素朴な事情でないことは、この試みのなかで彼もまた自覚せざるをえず、したがってこれ以降の彼の音楽は、ポップスへと、あるいはまさに歌謡曲へと同調していくことになります(*20)。
KUWATA BANDにおけるこうした悪あがきがなければ、開きなおりのような桑田佳祐ののちの開眼はなかったにちがいありません。その成果かどうかはともかく、1986年の「ウラ日本レコード大賞」が〈Ban BAN Ban〉を大賞に採択するのは、このような理由からです。

本家の「日本レコード大賞」にあっては、近藤真彦が〈愚か者〉で1987年にどうにか大賞に輝きます。けれどアイドルとしての彼の旬はとうにすぎており、もとより歌い手としての力量は問われるところではありません。彼にとっては残酷なことに、この年にアイドルとして輝いたのは、ジャニーズ事務所の後輩となる少年隊でした。

錦織一清の柔らかく軽やかで流麗なダンスがきわだつ彼らのパフォーマンスの背後には、田原俊彦や近藤真彦の場合がそうだったように、やはり筒美京平の助力がありました。1987年の「ウラ日本レコード大賞」は、筒美京平の作曲による少年隊の〈君だけに〉に授与されます。

ところで、すでにこの年には、〈STAR LIGHT〉の光GENJIもその光を放ちはじめていました。晩秋には〈ガラスの十代〉も発売されますが、ただしそれが他の輝きを圧倒することになるのは翌年のことです。

1988年の光GENJIは、〈ガラスの十代〉や〈パラダイス銀河〉など、いずれも〈STAR LIGHT〉以来のチャゲ&飛鳥との協働のもと、まさに光の輝きや煌めきそのものをアイドルの存在性に重ね、これと背中あわせの儚さや脆さを楽曲の主題としています。本家の「日本レコード大賞」は〈パラダイス銀河〉を1988年の大賞としましたが、「ウラ日本レコード大賞」では〈ガラスの十代〉にこそ光GENJIの哀しみの本性があるものと考え、これを1988年の大賞と決定します。

1989年にはWinkが〈淋しい熱帯魚〉をもって「日本レコード大賞」の栄冠を戴きます。しかしWinkならば、カイリー・ミノーグがヒットさせた外国曲をカヴァーする“翻訳ポップス”のかたちで、及川眠子の日本語詞により前年の11月に発表された〈愛が止まらない〜Turn it into love〜〉のほうが、より上質な歌謡曲であるように感じられるところです。それゆえに、これを1989年の「ウラ日本レコード大賞」とします。


1990年、もしくは「日本レコード大賞」の終焉

「日本レコード大賞」は、1990年に各賞を「ポップス・ロック部門」と「演歌・歌謡曲部門」とに分割します。そもそも日本の大衆音楽に介在するさまざまな溝を埋め、垣根を越えることを謳って構想されたはずが、そうした溝を、垣根を自ら率先してあつらえようというのだから、これこそ自殺的な行為というよりほかなく、「日本レコード大賞」の迷走ぶりをあからさまに可視化する対応でした。ただし、それ以上に深刻な1990年の「日本レコード大賞」の失態は、このような延命措置を施してなお、サザンオールスターズの〈真夏の果実〉を大賞に選定できなかった事実にあります。

それは、この楽曲がB.B.クィーンズの〈おどるポンポコリン〉より優れているだとか、堀内孝雄の〈恋唄綴り〉より売れただとか、そうした議論ではありません。〈真夏の果実〉が大賞を獲得すべき理由は、ほかの楽曲との比較のなかで相対的に顕在化するものではなく、それ自体のうちに、それ自体として響いています。この響きを聴くことのできなかった不明はいかにも恥ずべき事態であり、「日本レコード大賞」の存在意義を最底辺まで失墜させる絶望的な選考結果でした。

このとき「日本レコード大賞」の使命はついえたのです。

〈黒い花びら〉にはじまった「日本レコード大賞」は、1990年の第32回をちょうど折り返し地点として、2021年の暮れには第63回の表彰式を迎えます。つまり、「日本レコード大賞」の活気が確かに息づいていた31年と、それが抜け殻ないし遺骸となった31年と、その分水嶺に1990年の第32回は厳密に位置づけられるわけです。

生きた時間と同じ長さをもって弔われてなお今生への未練を払拭できない「日本レコード大賞」は、ここから先、もはや誰も、なにも期待するところのない虚しい亡霊として、きまって年末に自らのための鎮魂歌を唱えつづけることになるのでしょう。たとえば「ウラ日本レコード大賞」の試みとは、そうしたものにほかなりません。

*1 高野光平,「テレビと大晦日」,『テレビだョ!全員集合 自作自演の1970年代』所収, 長谷正人+太田省一/編, 青弓社, 2007, pp.162-167.
*2 野口広行,「はじめに」,『ヒット曲の料理人 編曲家船山基紀の時代』所収, 船山基紀, リットーミュージック, 2019, p.4.
*3 佐藤剛,『「黄昏のビギン」の物語 奇跡のジャパニーズ・スタンダードはいかにして生まれたか』, 小学館(小学館新書), 2014, pp.124-131.
*4 高野,前掲書, pp.174-175.
*5 佐藤, 前掲書, pp.126.
*6 田家秀樹,『読むJ-POP 1945-2004』, 朝日新聞社(朝日文庫), 2004, p.53.
*7 佐藤, 前掲書, pp.122-123.
*8 田家, 前掲書, p.56.
*9 佐藤, 前掲書, pp.140-143.
*10 佐藤剛,『上を向いて歩こう』, 岩波書店, 2011, pp.100-101.
*11 田家, 前掲書, pp.55-56.
*12 柴那典,『ヒットの崩壊』, 講談社(講談社現代新書), 2016, pp.81-83.
*13 同書, pp.99-100.
*14 佐藤,『「黄昏のビギン」の物語』, p.126.
*15 同書, p.134.
*16 田家, 前掲書, p.65.
*17 佐藤, 前掲書, pp.129-130.
*18 松本隆,『風街詩人』, 新潮社(新潮文庫), 1986, pp.113-114.
*19 藤岡和賀夫,『あっプロデューサー 風の仕事30年』, 求龍堂, 2000, pp.151-156.
*20 萩原健太,『ポップス イン ジャパン』, 新潮社(新潮文庫), 1992, pp.104-110.


堀家教授による「私のウラ日本レコード大賞」10選リスト

1.〈上を向いて歩こう〉坂本九(1961)
 作詞/永六輔,作曲・編曲/中村八大

歌謡曲史上まぎれもない最高傑作のひとつといっていいこの楽曲が「日本レコード大賞」を受賞していない事実は、日本の音楽産業にとってある種の醜聞にほかならない。その姿勢は、これがアメリカの「ビルボード」誌における週間ヒット・チャートで1位を獲得したいまのところ唯一の歌謡曲として、のちの海外での評価をもって厳しく告発されることとなった。

2.〈見上げてごらん夜の星を〉坂本九(1963)
 作詞/永六輔,作曲/いずみたく,編曲/渋谷毅

〈上を向いて歩こう〉のみならず〈見上げてごらん夜の星を〉までも提供された坂本九ほど幸運な存在は、歌謡曲の歌い手のなかにはいない。彼は楽曲に恵まれたのではなく、時運にこそ恵まれたのである。「日本レコード大賞」はこれさえも見逃している。

3.〈砂に消えた涙〉弘田三枝子(1964)
 作詞/ピエロ・ソフィッチ,作曲/アルベルト・テスタ,日本語詞/漣健児,編曲/山屋清

12月にレコード化され、翌1965年の選考対象となるこの楽曲は、漣健児の日本語詞のもと〈はじめての恋人〉のB面に収録された。にもかかわらず、ここまで歌謡曲になじみ、また以後の歌謡曲の羅針となった外国曲もまたとない。これにはもちろん、弘田三枝子による歌唱の貢献が絶大だ。つまりこの盤は、ひたすら秀逸な歌謡曲なのである。

4.〈手紙〉由紀さおり(1970)
 作詞/なかにし礼,作曲・編曲/川口真

この楽曲のうちに散見される1970年代の歌謡曲の先駆的な響きからすれば、いずみたくによる〈夜明けのスキャット〉はいかにも1960年代のものと聞こえる。このことは、〈夜明けのスキャット〉における〈サウンド・オブ・サイレンス〉との酷似にはなんら関係がない。

5.〈危険なふたり〉沢田研二(1973)
 作詞/安井かずみ,作曲/加瀬邦彦,編曲/東海林修

歌声に、相貌に、存在に、すべてにわたりこれほど艶のある歌い手が歌謡曲の現場に登場することはもうないだろう。歌謡界にとって不世出の華やかなスターの最高傑作をも、「日本レコード大賞」は逸失している。

6.〈空に星があるように〉荒木一郎(1976)
 作詞・作曲/荒木一郎,編曲/神保正明

編曲者による楽曲の理解が、持続する音声の響きのなかにその潜在性を汲みあげるためにどれほど肝要であるのか、その如何がこの再録音盤には確実に刻まれている。楽曲が荒木一郎の自作自演であったことは、編曲者による楽曲の理解を消化し自家薬籠中のものとする歌い手の最大限の達成を保証するものであった。

7.〈ウォンテッド(指名手配)〉ピンク・レディー(1977)
 作詞/阿久悠,作曲・編曲/都倉俊一

フラメンコに着想をえた〈カルメン’77〉あたりから、ピンク・レディーは、都倉俊一の編曲において新曲ごとに特定の音楽ジャンルの要素が参照されるところとなった。たとえば“サーフ・ロック”的な〈渚のシンドバッド〉は、リヴァーブの浅さをもって波の穏やかな日本の渚を表現する。〈ウォンテッド(指名手配)〉の鳴りにおける重心の低さは、まさに“ハード・ロック”のそれである。この重さにピンク・レディーのふたりの細く薄いファルセットがからみあうサビのパートが〈ウォンテッド(指名手配)〉の最大の聴きどころである。こののち、〈UFO〉では“テクノポップ”が夢みられるが、しかしそのころにはピンク・レディーはすでに大人の遊具から子どもの玩具となっていた。

8.〈ガンダーラ〉ゴダイゴ(1978)
 作詞/奈良橋陽子,日本語詞/山上路夫,作曲/タケカワユキヒデ,編曲/ミッキー吉野

奈良橋陽子の英語詞が先行し、ここにタケカワユキヒデによる旋律があてがわれ、そこにあらためて山上路夫が日本語を嵌め込んでいったというその制作手法は、まぎれもなく“翻訳ポップス”のものである。

9.〈ハッとして!Good〉田原俊彦(1980)
 作詞・作曲/宮下智,編曲/船山基紀

さほど熱心ではないかむしろ否定的だった当時の田原俊彦の聴衆にとって、洒脱だがいかにも地味だったこの楽曲は、発表されてから40年が経過したいま、寝かされたワインのようになおその味わいを深めつつある。

10.〈天国のキッス〉松田聖子(1983)
 作詞/松本隆,作曲・編曲/細野晴臣

歌謡曲がアイドルの存在とともに機能し、これが“和製ポップス”と同義となるのは、まさにこの楽曲をもってである。

番外_1.〈また逢う日まで〉尾崎紀世彦(1971)
 作詞/阿久悠,作曲・編曲/筒美京平

本家「日本レコード大賞」における大賞受賞作のため番外とした。

番外_2.〈喝采〉ちあきなおみ(1972)
 作詞/吉田旺,作曲/中村泰士,編曲/高田弘

本家「日本レコード大賞」における大賞受賞作のため番外とした。

番外_3.〈真夏の果実〉サザンオールスターズ(1990)
 作詞・作曲/桑田佳祐,編曲/サザンオールスターズ&小林武史

1990年以降に発売された楽曲のため番外とした。


文:堀家敬嗣(山口大学国際総合科学部教授)
興味の中心は「湘南」。大学入学のため上京し、のちの手紙社社長と出会って35年。そのころから転々と「湘南」各地に居住。職に就き、いったん「湘南」を離れるも、なぜか手紙社設立と機を合わせるように、再び「湘南」に。以後、時代をさきどる二拠点生活に突入。いつもイメージの正体について思案中。


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