[エッセイ】素潜りの詩篇
午前の時分、久方ぶりに我が心をシュノーケルへと委ねてみせた。理解を得られる者には既に認識されていることだろう、ダイビングとシュノーケルとは、同じ海を舞台に繰り広げられるものの、その性質は微妙に異なる。ダイビングは、我々が身に纏うタンクという装具を肩に負うことにより、ゆっくりと海底を探索することを可能にする。一方、シュノーケルは素潜りを通じて、水面から海の奥深さを伺う。タンクによって苦しみを知らぬダイビングと、そのタンクがないが故に苦しみと共に海中を旅するシュノーケル。これが私の認識である。
今日の海は、見るも哀れなほど濁っていた。わずか1m先にいる仲間(バディ)の存在を認識するのがやっとであった。そういえば、地上は晴天に恵まれ、快適な日々を送っているのに。バディと私は、片方を基軸にシュノーケルで周回する、いわゆる訓練の一環を行っていた。だがバディが私の周囲を旋回する際、その正確な位置をつかむことが難儀だった。私の背後から海上に出現するバディの存在に気付かず、海底をじっと見つめ続ける場面が数度繰り返された。もしバディが暗殺者(アサシン)だったなら、私はすでに命を奪われていたことだろう。
しかし、シュノーケルの真の困難さは、息を止め続けることにある。今日の私はせいぜい30秒程度、それが限界だった。風呂桶にお湯を溜め、そこに顔を沈めて訓練を行っていた頃は、1分30秒程度耐えられたのだが、泳ぎながらだとその時間は大幅に短縮される。本当はシュノーケルで観察したいと思っている動物がいるのだが、その生物を目にするためには最低でも1分間潜る必要があると聞いている。来週、その生物を見に行くのだが、今の私にはそれが不可能である。それがどうなるのか、一体全体。
午後は、例のごとくダイビングを堪能した。とはいえ、いつものように視界は悪く、前を進むインストラクターのフィンしか見えず、迷子にならぬよう必死で泳いだ。視界が悪すぎて魚がいるのかすら確認できない。海底に張られたロープを頼りに進むしかなかった。時折、岩陰を覗いてはみたものの、特別な魚との出会いはなかった。
私の言葉は散々なものかもしれないが、それでも私は楽しみを感じてしまう。日が経つにつれて暑さが増す季節、ただ海に身を預けるだけでも心地良い。今日のインストラクターは大変だっただろう。こんなに視界が悪いダイビングは初めてかもしれない。だが、これも一つの経験。大切にしたいと思う。
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