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天使喪失を読んで

はじめに

これは、僕の大好きな『天使喪失』という詩についての解釈をまとめた備忘録です。作者の岩倉文也さんへ、心からのリスペクトを込めました。

この詩は神楽坂と同じ逆転式一方通行で、中央の行が正午丁度になっています。
文面の右手側が正午-0時、左手側が0時-正午です。
一行目~三行目のあと、七行目~四行目の順番で時間が進んでゆきます。
前半と後半は、それぞれ異なる人物の視点で描かれているようです。そして四行目でそれらが収斂します。

正午-0時

前半は“天使ではない存在”の視点です。
太陽が出ていて、それが時間の経過とともに傾いてゆくように感じます。

一行目:影と影の重なる距離で、一人の天使と一人の天使ではない存在が道を歩いています。一行目の「ぼく」は“天使ではない存在”の一人称で、「きみ」は“天使”のことを指しているように思います。
『あの夏ぼくは天使を見た』において、この部分は「影に影重ねてぼくら空をゆく」となっています。ですから詩画集におけるこの「ぼく」は“天使”の一人称なのでしょう。
彼女たちのゆく道と空はどのようなものでしょうか。候補が多すぎますが、ひとつ挙げるとしたら人生そのものでしょうか。

二行目:やわらかくあたたかい風が、ぼくの耳朶をつつみ、五月の青空を吹き抜けてゆく様子が浮かびました。とてもやさしい風のように感じます。壇ノ浦の戦いがあったのも、五月だったようです。
スカイツリーが飛ばしている孤独とは、電波の一種でしょうか。一人の天使がきみへと飛ばす、白い電波の。

[あの夏ぼくは天使を見た 七十四頁より]

そうすると白いスカイツリーは、白い羽をもつ天使のことだと解釈することができるかもしれません。
持つものの何ひとつない、ひとりの天使が飛ばした白い電波は五月の風に乗り、きみの耳朶をやさしくつつんだのでしょう。

三行目:点滅する信号機、その刹那にぼくがふり向いた理由は何なのでしょうか。いっしょに道を歩いていた連れの姿を確かめるためでしょうか。ふり向いた先に天使がいるはずだったのかもしれません。ですが天使がいるはずの空間は、渚の果てになっているのかもしれないと。

[あの夏ぼくは天使をみた 三十七頁より]

きっとこの句は、この場面のことを表しているのではないかと思います。

0時-正午

後半は“天使”の視点です。
月が出ていて、それが時間の経過とともに沈んでゆくように感じます。

七行目:天使だった二人が夜の渚で自分たちの無垢を弔っています。黒くあってほしいと願うのは、海に喪服を着せる感覚に近いのでしょうか。七行目の「きみ」は“天使ではない存在”のことを指していて、「ぼく」は“天使”の一人称ではないかと思います。

六行目:その昔、壇ノ浦の戦いで「」という妖刀が海に沈みました。それを海豚が飲み込み、壇ノ浦から讃岐宇多津沖まで運んで息絶えます。そして刀は百年後に引き上げられ、別の人の手に渡ります。は仏教の言葉で真理に対する無知の心を意味しますので、彼女たちの無垢のことを指しているのだと思います。彼女たちは言葉をもたず、こころも知らぬ存在でした。ですが時間の経過とともにそれらを手にしていき、ついに天使ではなくなるのです。

[あの夏ぼくは天使をみた 百十一頁より]

彼女たちが持っていた「癡」を海豚が飲み込んだので、海豚は死んで渚の果てに流れ着きました。天使でなくなった彼女たちは渚にて、失われた無垢と死んだ海豚を弔っています。刀の「癡」は海から上がり人の手に渡りましたが、彼女たちの持っていた「癡」はどうなったのでしょうか。おそらく、次の世代の新たな子供たちに引き継がれたのだと思います。それは彼女たちが子供ではなくなったということです。
飯田橋駅は、神楽坂の逆転式一方通行を思い起こさせるためのヒントのように思います。

五行目:立入禁止は四行目の工事現場のことを言っているのだと思います。ぼくらは“未来明日希望”に手を引かれて、奈落のような底のない思い出に堕ちてゆきます。その際に羽根を見つける。それは自分たちの持っていたものか、あるいは非在の翅なのか。時間の流れと共に、彼女たちは“未来明日希望”に近づいてゆきます。

正午

前半のきみと後半のきみが一つとなって、時間軸が収斂してゆきます。

四行目:“きみ”はお互いがお互いのことを指しているのでしょう。“未来明日希望”は、どれも光の差すような明るい印象のある言葉で、現時点の自分のいる時間軸より先に存在するものです。
工事現場とは、時間の流れと共に変わりゆく街と彼女たちのことを暗喩しているのだと思います。そしてそこに光が満ちる。
つまり“未来明日希望”が街と彼女たちのなかに満ちてゆくのです。

おわりに

この詩全体を通して描かれているのは、

「時間の流れと共に変わってゆく街の中で言葉とこころを得た天使たちが天使ではなくなり、嫌っている“未来明日希望”へと向かってゆく様子」

であると、僕と僕の友人は解釈しました。
いっしょに解釈をしてくれた友人に、心からの感謝を捧げます。これはひとつの解釈で、人の数だけ解釈があると思います。
一年後にこの詩を読んだら、また違う解釈になるかもしれません。
この備忘録は、そのためのものです。


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