駆け抜ける狂騒と一条の郷愁 第8話

【前回の話】
第7話 https://note.com/teepei/n/n2aeff38d2a73
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靴下は素晴らしい。

人生の哲学がそこに凝縮されている。
検品を任されて三カ月を過ぎる頃、私は靴下の魅力に完全な降伏を示していた。
 さらにこれを製造する工程に各職人がいることを、まるで世界の奇跡のように思いこうべを垂れていた。いいか。間違ってはいけない。こうべを垂れた気持ちで、ではないのだ。実際に私はこうべを垂れた。靴下が検品台に置かれるたび、私は跪き、己の無力を思い知り、底なしの愛情を示す靴下に溺れていた。

「そろそろ、次に行かなくちゃな」

 師匠がその言葉を口にして、このままいけばその言葉を受けるか見捨てられるかしかないと思っていた私は、自らに禁じていたはずの涙を零しそうになる。零してはいけない。靴下の製造工程全てに横たわる静謐さを思えば、微塵のノイズも冒涜になりかねないのだ。誰がそういうわけでもない。私自身が、それを冒涜と決める。それだけ静謐さには、一種の神秘性が宿る。

 私は師匠に連れられ、そう言えば初めてであろう工場の奥へと進む。
 師匠曰く、師匠が次の段階へと認めた人間は、師匠自ら社長のもとへと連れて行き、その祝福を受けるのが段取りとのことだった。祝福とは辞令のことだ、と師匠は言っていたが、そこに何の差があるのだ。そう思える私自身にぶれることのない信念を見出した、というのは言い過ぎだろうか。

 大きく区切られたいつもの工場を歩ききると、大きな壁に突き当たる。その壁の中でも我々に向き合うだけの謙虚さを持ち合わせた扉と向き合う。師匠は、手首をドアノブの、おそらく読み取り部分と思われる黒い小窓部分にかざして扉を開けた。明らかに埋め込まれた何かが反応した。
しかし、だからどうだというのだ。
私はこれから祝福を受ける。
 祝福が、裾野を広げてあらゆる迷い人を温かくうけいれてくれるのもひとつの理想ではある。
 しかし、何かを突き詰めた己は、何も考えていない民衆とは違う。
 そのはずだ。
 特別意識と承認欲求。
 それを満たしてもらうためには、誰しもに開かれた救いの道では救われない。
 その矛盾は一生己を苦しめると知りながら、それでも離れることができない。
 できないのだ。

「ここだ」
 と言う師匠の言葉で我に返り、ひとまず思考を断絶する。

 社長室。

 想像以上にひねりのないネームプレートが、この短めな行脚の終点を示していた。

「失礼します」

 師匠は案外こちらの感慨を汲んではくれない。
 淡々と段取りを進める背中は、茨をものともせずにかき分けてゆく逞しさを思わせる。

 そして現れた社長は、世界観の何を間違えたのか、丈の長い軍靴と糊の利いた軍服を着、鍔があまりにはっきりした軍帽の下でこれ見よがしのちょび髭を生やす。

「なるほど、彼が」

 そう含めたちょび髭の糞チビが、いや社長が、俺を認めたらしい反応に反比例して、次第に何かが醒め始める。
 醒める、とは難しい言葉だ。
 ゆめからさめる、はこの字を充てて正解だろうか。
だとしたら、今の俺を体現するにふさわしい。

「うん、いい目をしている」

 嘘だ。
 醒めたと認識した俺の前で、社長の言葉は何処かいかがわしく響く。

「それじゃあ、頼むよ」

 全幅の信頼。
 見せかけのそれをどう飲み込むかで、私の踏ん張りどころ、根を這ってもいい場所が決まる。

 私?

 社長室をあとにして、師匠の背中に連れられながらもと来た廊下を戻る。
 戻ろうとして、そう言えば近くにあった扉のネームプレートが、うん、何だか急に目についたように思える。

 世界征服事業部

 見過ごすべきか。

「師匠、これは」
 と、当該のネームプレートを指し示す俺を振り返り、厳格に結ばれた口はより引き締まったように思える。
「それは、そういうことだ」
 もともと口数は少なく、いつもなら自分勝手に分類した『背中で語るタイプ』に嵌め込み、敬意を高めるところだが今は違う。

俺は大分、醒めてきていたようだった。

「世界征服は靴下と何か関係が」
「知らん」
「ここにはどのような方々が」
「知らん」
 どうにも具合悪いのか、その場を去りたがる師匠を引き留め、俺は思う。

 ここだな。

 場違いだった社長の姿は、このネームプレートにこそ通じる。その親和性は疑うべく余地もない。そう考えきる間もなく、俺はドアノブに手を掛けた。
 おい、と呼び留める師匠の声も聞かず、踏み込んだ先は暗闇だ。奥へ進むが、どれほどの大きさなのか見当も付かない。そして誰もいる気配がない。そもそも簡単に開いたものだな、と思い返しながら師匠へ向き直ると、入り口に佇んでこちらを見ている。
「ここは、何ですか」
 まるでほとんど愚問とも言わんばかりの問いかけは宙を浮いて彷徨う。すると部屋に明かりが点る。
 部屋は相当な広さで、壁際に椅子や机が畳んで寄せられており、基本的にはガランとしていた。明かりの挙動はもちろん師匠が齎したものではない。その存在を求める様に、その場で振り返ってみる。

「ようこそ、世界征服事業部へ」

 そこには先ほど別れたばかりの社長がいた。何で、と思うのは物理的な移動手段についてだけで、でもほとんどは、ああ、やっぱり、という納得感が占める。
「君が早速ここに興味を示すとはね。まだ早いと思っていたんだが…しかし歓迎するよ」
 それなりに不敵な笑みを見せているつもりか、何かを含んだその表情はいまいち重みがなくインチキ臭い。

 ちょび髭のせいだろうか。

 きっとそうだろうな、とひとり納得したことで勝手にすっきりしてみる。
「ここはね、社長室と繋がっていてね」
 と親指で背後を指し、そこには色で壁と同化した扉があった。それにしても、聞いてもないことを色々喋ってくれる。無駄なやり取りを省いて先へ急げということなのか。それなら、探すはずの孫の名前くらいは爺さんから聞いておくべきだし(これは俺の手落ちではない、ということにしている)、そもそもこんな工場で足止めを食うような構成は避ければいい。
「ところで君は靴下と世界についてどう思う」
 恐ろしい切込みだ。横並びにして語られることなど想定されない二つの単語は、新鮮な動揺を生む。
「靴下と、世界、ですか」
 迂闊にも受け答えを許し、それは俺の中に生じた混乱がよほどであることを示した。答えてしまった後悔をよそに、社長と呼ばれているだけの奇人は、そう、とう頷く。したり顔で。
「わたしはね、靴下こそが真理だと思っている」
 既に動揺を越え、眩暈にも似た衝撃と言っていい。
 真理。世界。靴下。
 靴下?
 間違いを探せと言われれば、迷いなく靴下を指し示す。だが、何が間違っているのかを問われても答えはない。そして間違っているのは靴下の方ではなく、世界と真理の方かもしれない。
「靴下の尊さを、この世界は解釈しきれていない。我々の足元を無条件に包み込む、大いなる愛情。擦り切れる我が身を省みず、ただただ己を全うする気品。それだけのために編み込まれ、彼らは今も、世界の足元を守護している。ここには神の加護がある。そう、靴下こそ、神の残したもうた徴なのだ。神自身の姿を象り人間を創造した時、自らの愛を、その加護を、徴として足元に刻み込まれたのが靴下なのだ」
 靴下は履いているだけで刻み込まれてはいないのだが、果たしてこの話について行ける人間がいるのだろうか。むしろ、ついて行ける人間こそが世界征服事業部に適合するというならば、それはそれで恐ろしい。うっかり受け答えなどしない様に気を付け、今はそれが精いっぱいだ。
「さて、ここからが君にとっても興味深い話となりうるのだが」
 もはや沈黙したままでも怪しい雲行きであり、居心地の悪い空気に絡めとられる。
「靴下を以てして世界を制する構図について、我々はだいぶ前から確たるものを抱いている。それは君を大いに安心たらしめる材料となろう」

 なるほど。

 靴下製造は単なる表の姿ではなく、世界征服と直結しているとのことだ。これほどまでに始点から終点までの経緯が不透明なこともなく、安心などとはよく言えたものだが、勿論そんなことに構う様子など見せず、目の前の、もはや狂人と言っていいちょび髭は滔々と構図について語るのだ。

 肝心の俺は、と言えば、いや無理がある。
 滔々と語られるそれは一向に耳に入らず、入らせようとせず、どんなに頑張ったって靴下から世界征服への文脈は無理がある。確かに目の前で語られているのかもしれないが、それは語られていると表現された一文のみの中で語られた実際にはあり得ない演説と言っていい。とにかく口は動き、おそらく音声も生じていいたかもしれないが、そういう生態を見届ける俺は観察者だ。突き放して然るべき現象を、適切な距離から見つめ続けるだけだった。
(続く)
【次の話】
第9話 https://note.com/teepei/n/nad40a420c186

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