駆け抜ける狂騒と一条の郷愁 第5話

【前回の話】
第4話 https://note.com/teepei/n/n90aaaf608eae

「ありがとうございました」
 少女の支払いで降り、相変わらず呑気な声を残してタクシーが去ってゆく。幼い少女にそこそこのお金を持たせている設定は如何なものかと思いつつ、あっさり支払いを頼った自分は見ないことに決め込む。
 どんよりとした空は曇りのせいでもあるが、スモッグのせいでもあるんじゃないかと思う。それは遠くの割に距離感が狂うほど大きな施設が見えるせいで、上がる煙やら蒸気やら、それとある程度規則的に響く大小の機械音が辺りを埋める。さっきの街との連続性は保たれているのだろうかと要らぬ心配を抱え、しばらく施設の様子を見ていた。
「あんた、どこからきたんだい」
 と、ふいに呼びかける声がした。声の方を振り返ると老人がいる。どこから、と言われ、ここが隣町とするならば相対的に元々いた街も隣町と呼んで然るべきだろうと思い至る。
「隣の町からです」
「そうかい、よく来たね」
 はあ、と曖昧な返事で濁し、改めて周囲を見回す。老人以外は人陰もなく、気配もない。
「他のひとは」
 やれやれ、と老人はベンチから立ち上がり、腰を叩く。
「動ける者は、みんなあそこさ」
 指さす先には先ほどの巨大施設が唸りを上げている。
「あれは」
 と問い掛けるよりも先に、老人はおぼつかない足取りで歩み始める。振り返り、続けた言葉は問い掛けに対するものではなかった。
「大したおもてなしはできないがね、良ければうちに来なさい。旅の疲れを癒すくらいの慰めにはなりましょうて」
 旅の疲れも何も、タクシーで移動してきただけなのだが、唐突な歓待に戸惑う俺は、やはり濁すような答えしか出てこない。構わず先を行く老人に、付いて行く他ない空気を読みとり、取り敢えず行先もないしな、と冷やかし程度の迷いを見せたのちに付いて行くことに決めた。少女は特に疑問も戸惑いも見せず、そんな俺に付いてきていた。

「どうぞ」
 と差し出されたお茶とおせんべいは、こじんまりとした畳の部屋とすこぶる相性がよく、確かにそこには思わぬ癒しがある。先ほどまでの重く機械的な騒々しさと静けさに比べて、これが同じ街の一場面であることに軽い驚きを思う。
 玄関と、入ってすぐの台所にガラス戸で仕切られた和室。簡素で必要最低限を思わせる暮らしぶりが、拠り所としてもいいような安心を思わせつつ、それだけにあの施設とこの街一帯を覆う不穏が際だつように思う。部屋の中にこじんまりと佇む箪笥があり、その上に置かれた写真立てには今よりも溌溂とした老人と若い男が映っていた。
「これは」
 という俺の問いかけに、老人は自ら淹れたお茶をひと啜りする。吐き出す吐息はお茶で和んだ安息とも何かに対する嘆息とも取れた。
「それは、孫ですじゃ」
 老人の口調はさらに老け込み、設定のブレを疑う。
「お孫さん、ですか」
「ええ」
 それから再びお茶を啜り、老人の会話は思ったより進まない。嘆くべき過去を回想し、目の前の現実には無頓着になりがちのようだ。
「お孫さん、今はどちらに」
 再び吐き出す吐息ののち、老人がようやく口を開く。
「あの施設ですじゃ」
 じっと覗き込む湯呑の中に、施設に対する凝縮された何かを覗き込むような、何かとは何かは分からないがおそらく無念とも後悔とも取れる類のものか。
「あの施設は何ですか」
 湯呑を覗き込む老人は、相変わらずこちらの問いかけに鈍い。そしてしばらくしたのちにこう続ける。
「ここらの者は、皆あの施設に行きましてな」
 微妙に噛み合わない掛け合いにも馴れが見え始め、しばらく老人の話すがままにしてみようかと思う。しかし続かない。それでも待つことを選択したのち、とうとう老人が口を開く。
「ここらは、昔は、農村だったのですじゃ。とびきりの贅沢はないんじゃが、つつましく暮らしていける程度には食べることできて。そんなことを豊かに感じることができる、私はいい村だったと、今でも思いますじゃ」
 切り出されたのは老人の回想で、それもまた湯呑の中で展開されているかの如く覗き込んだまま続けられた。
「そんなある時、村に工場ができましてな。最初は小さな工場で。村とも共生できるほどの、程度の良い生産で、工場の人達も皆、良い人たちで。わしらは仲良くやっていける、そう思っとんたんじゃが」
 そこまで来て湯呑をひと啜りする。喋るたびに無理やり老け込んでいるような気もするがこの際気にしない。なんせ話を進めなければならない。啜ったのちに一息つき、ええと、なんじゃったかのう、と少し思い返すようにして、ああ、そうじゃった、そうじゃった、とどうやら話の継ぎ目を見つけられたようだ。
「ある日、工場を大きくする話が出ましてな。勿論、環境には配慮して、それに新しく人を雇えるもんだから、村の若いもんは喜びまして。それでわしらも、まあ、今までも感じが良かったし、それならいいんじゃないかって」
 そしてひと啜り。長話は高齢の身体にこたえるのかもしれない。
「そうして、工場は拡大しました。それからしばらくして、また工場が大きくなる話が出まして。その頃には、村の人間の多くが、工場で働く傍らで農業をしていたもんだから、まあ、半分くらいは工場の関係者でしたな、だから、異議を挟む間もなく拡大が行われ、そうするとまた大きくして…と、それからはあっという間に、気付けばあんな巨大な化けもんになっておりました」
 そして湯呑を覗き込み続ける老人には、最初に見えた無念やら後悔やらが滲んでいる。
「それで、村の人達は」
「最初は、工場に通っていたんじゃが、ある時に快適な居住施設が工場の中にできたと言うて、みんな引っ越してしまいました」
「その中にお孫さんが」
 はあ、と返事なのか吐息なのか分からない気の抜けた声なのか音なのか、つまりそれだけ老人の落胆は計り知れない。写真を見る限り関係性は良好だったのだろう、語られていないお孫さんの両親、つまりお爺さんの息子か娘の不在を懸念するが、尋ねるのに躊躇する。
「それからは、お爺さんがひとりでここに」
「そうですじゃ」
 結局、過去に起きたかもしれない大きな不幸は老人の負担をさらに大きくする心配から聞かないことにしておいた。それにしても、あの施設が生み出す劣悪な環境の中で老人がひとりで暮らすとは。差し出されたお茶を啜り、心を和ませながら決意する。
「お孫さん、呼び戻しますか」
 老人が顔を上げる。
「俺があの施設に行って、お孫さんに帰ってくるよう説得します」
 少しだけ、老人の表情に鮮やかな感情が過ったようにも思え、しかしすぐにもとより沈む。
「それは、無理ですじゃ」
 先ほどよりも深い落胆に、何があったのかと訝しがってみる。
「あれは、もう、別人ですじゃ」
 それからこれまでに一番長い吐息を吐き出す。
「別人」
「ええ、わしのいうことはまるで聞こえてないみたいに…そもそもわしすらも見えていないようで、わしはそんな孫を、不気味に思うてしまって…結局、わしは引き留められなかったんですじゃ」
 無念と後悔の発端を垣間見、俺は再び決意を固める。
「何か原因があるはずです、それも含めてあの施設からお孫さんを取り返してきますよ」
 しかし、と老人はそれ以上言葉が続かない。落胆と希望がない交ぜになり、老人は口籠る。
「大丈夫です。おそらく俺のやるべきことがこれなんだ」
 そう、あいつが何をさせたいか、つまり老人と会話させた理由は明確だ。そして壊すべき物語は進行してゆくだろう。老人は再び、しかし、と口籠る。
「大丈夫です」
 それから最後の一口を啜り、湯呑を置いて立ち上がる。隣の少女も何も言わずに立ち上がる。玄関口に向かおうとして、あることに気づく。
「そういえば、工場って何を作ってるんですか」
 老人は深い落胆と吐息を伴い、答える。
「靴下ですじゃ」
 振り向きざまの問いかけは、俺の気持ちに暗い翳を差す。

 大丈夫なのか。

 相変わらず設定に対する不安を拭わせてはくれないようだ。それでも乗りかかった舟だ、老人を一人のままにしておけないしな、それに…と必死に理由を探し、気持ちを繋ぎとめる。
 そうして、俺と少女は家をあとにした。
(続く)
【次の話】
第6話 https://note.com/teepei/n/n454734821cc5

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