駆け抜ける狂騒と一条の郷愁 第6話

【前回の話】
第5話 https://note.com/teepei/n/n4779324f8789

 遠近が狂うほど大きな施設とは言え、見えてはいるからそこに向って歩くとある程度の距離は目安がついた。まだ残っている家にひと気はなく、見かけたとしても先ほどと同じくらいの老人がぽつりぽつりといるだけだった。動ける人間のほとんどは、労働力としてあの施設にいるのだろう。曇り空なのかスモッグなのか、渦巻く模様を描き出し、うすぼんやりとした日差しはその向うで見え隠れし、その中心にはやはり施設が聳える。それが街のすべてと言っても過言ではなかった。カラスの鳴き声を聞いた気がして、鈍い金属音がそれを掻き消す。通りがかった川には重いヘドロが横たわり、排水溝から深く濁った水が吐き出されていた。
 絵にかいたような産業公害の真っただ中だが、その全てが靴下の生産に充てられていることを思い出す。やはり無理がある気がする。まあしかし、想像し得ない規模の生産と需要があるのだろう、と思い直す。隣には少女がいて、やはり何も言わずに付いてきていた。

 観音開きの巨大な鉄柵が施設の入り口で、当然のごとく解放されてはいない。脇に簡単な守衛室があった。
「あの」
 と間延びした返事で問い掛けるが、閉じられたガラス戸が遮ることに気づく。仕方なく手の甲で小突き、あの、と再び問い掛ける。少し奥にいた守衛らしき男が一度気づいたように見えたが何事もなくやり過ごしたようにも見え、机で何かを続ける。実際には聞こえない舌打ちを心の中で済ませ、三度目の呼びかけに挑戦する。
 はい、はい、とガラスの向こうからくぐもった声が聞こえ、守衛は観念したようだ。こちらに向けていた背中からようやく振り返り、ガラスの小窓を開ける。
「はい」
 と改めて守衛。
「あの、この中にいる人に会いたいんですが」
「この中の。誰に」
 と問い返され、名前なんて聞いていないことに気づく。人を探すにおいて失態の極致だが、不安定な設定に比べればどうということもない。そんな風に開き直り、動揺なんてしちゃいないとごまかしながら続けることにした。
「名前とかはちょっと、顔を見れば分かる。この村に住んでいるお爺さんのお孫さんで」
 ふーん、と、守衛は先ほどまで何かをしていた机をちらちらと見ている。明らかに気もそぞろだ。
「何か」
 聞かざるを得ない空気に背中を押され、抗えない自分にうんざりしながら問うてみる。
「いや、日誌を付けてるんだがね、このやりとりも忘れないうちね、書き付けておきたくてね」
「日誌」
「うん、私の私たる仕事を報告するための日誌だ。それゆえに私は仕事をしていることを証明し、証明できるものはそれしかないんだ」
 と、今にも書き漏らしてしまいそうな現状に気を取られ、現状が疎かになっている矛盾には見向きもしない。
「ちょっといいかい」
 もう我慢できない、とも聞こえ、こちらが、いいですよ、と返しもしないうちから机に戻る。しばらくもぞもぞと背中が動き、安堵の吐息と、よし、という声とともに両腿にパチンと手のひらを置く。
「悪いね、お待たせして。それで、この中の人に会いたいって」
「はい」
「それじゃあ中に入って探してもいいけど、ただ入るだけって訳にはいかない」
 あっさり許してくれた侵入を思えば、ある程度の引き替えはあってもいいだろう。なんせ名前も分からないしな、と先ほどまで設定の不安定さを言い訳にしていた己の非を認める。
「中に入るなら、決められた時間は働くしかない」
 そうくるか。
「つまり、靴下を作れ、と」
「そう」
 面倒くさいな、という気持ちを隠しもせず、それでも他に道がないことも理解している。
「分かった。でも、この子は」
 と隣の少女へ顎を向ける。
「働いてもらいます」
 そいつは随分と容赦ないな、そもそも何かに抵触する気もするが、と思いながら、町全体を覆う空気を思い、一般常識なんて意味ないのだろうと思い至る。
「それじゃあ、ここに名前書いて」
 守衛がクリップボードを渡してくる。そこには、暫く挟まれたままであろう名簿が一枚、擦り切れた端をひらつかせていた。自分の名前を書き、少女に渡す。微塵の戸惑いも見せず書き込んで、ちらと覗き込むと、しおり、とひらがなで大きく記されていた。
「はい、じゃあ今開けるから」
 轟音を立て、鉄柵が左右に開き出す。人がふたり通る程度で止め、全部開けると時間が掛かっちゃうから、と守衛はすでにそわそわしていた。門を過ぎ、轟音を立てて門が閉まる。守衛はすでにいない。きっと日誌を書きに戻ったのだろう。しかしそれは、どうでもいいことだった。
(続く)
【次の話】
第7話 https://note.com/teepei/n/n2aeff38d2a73

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