駆け抜ける狂騒と一条の郷愁 第15話

【前回の話】
第14話 https://note.com/teepei/n/nd280d23251bc

 このままお話ししても大丈夫ですか、と魔王が細やかな気配りを見せる。めまいを覚え、ひと息つきましょう、と男が席を立つ。村でも数少ない懇意の知り合いからもらったかわらけの器に、汲み置いた水を柄杓で注ぐ。ひとつは魔王、もうひとつは男の位置で食卓に置き、再び椅子に座る。ああ、どうも、と魔王が口をつけ、男もひと口啜った。今度は男がため息をつき、壁をくり抜いた明り取りから瑞々しい朝を覗く。
「それで、避難する相手、というのは」
「『物語』です」
 ようやく聞き取れ、間違いなく先ほどもそう言っていたことを認めるしかない。
「続けてよろしいですか」
「ああ、ええ、どうぞ」
 促され、魔王は再び水を啜る。
「もっと言えば、物語が物語ることからの避難です。連中は、物語ることを阻止する反乱分子だと、そう言っていました。そして物語というのは、今、私達がいるこの世界です」
「物語る」
「そうです。あなたの村の若者が旅立ちました。それが物語の始まりです。彼が魔界の城にいる私を斃す、それがこの世界の物語なのです。私が斃されるところまで行きつけば、物語は物語ることを遂げてしまう。彼らはそれを阻止するため、私に避難を促しました」
「だからと言って、なぜ私の家に」
「出発した村に魔王がいる。それは物語上最もあり得ないことで、だから避難に適している、と彼らは言っていました」
「いや、それなら私の家でなくても、他に」
 と言いかけて、男は予感し、そして自分が何であるかを理解してしまった。
「そうか、そういうことか」
 魔王は口を固く引き結ぶ。
「俺は、物語上最も必要のない登場人物、ということですか」
 魔王は何も答えない。
 答えることができない、と言ったほうがよさそうだった。この事実によって抉られる、Aの傷の深さを慮ったのだろうか。
「ここは村のはずれなんかじゃない、物語のはずれなんだ。物語られる中で語られることのない登場人物の設定のひとつで、便宜的に『村のはずれ』とされただけの」
 そこで言葉に詰まる。
 思い返せば確かにそうだ。選ばれる、選ばれない、の騒動を遠くから眺め、周りをうろつき、それ以外は何をしていたのか。それだけだ、物語の中で個別に語られることのない、群衆のひとりだった。
 たまらなく、胸にこみあげるものを感じる。

 自分にも、こんな感情があったのだな。

 魔王は何も言わず、やはり水をひと口啜ると明り取りの向こうを見遣る。
「私もね、腹に据えかねているのですよ」
 しばらくして、魔王がぽつりと言った。
「連中は言いました、連中も含めて我々の存在は記述でしかない、私の存在も厳密には魔王とは言えない、魔王とされた記述なのだ、と」
 遠くを見る魔王の横顔で、力が顎にこもる。
「何ですか、今さら。私は私自身が魔王であることを疑わず、これからも疑う余地なんてないと思っていました。それが、たかだか記述された存在とは。私は記述され、記述する存在によって魔王とされ、まるで魔王であることに浮かれていただけの間抜けです。しかし、ようやく受け入れました。そして決めたのです、この物語に抗うことを。記述する存在に、反旗を翻すことを」
 明り取りから朝の光が魔王の横顔に差し込む。それは新たにこみ上げた、男の感動そのものでもある。
「分かりました。私にも手伝わせて下さい」
 心に灯るものを、男はしっかりと感じていた。
(続く)

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