A LONG VACATIONがもたらす恐怖とは何か

 時はコロナ禍である。私の住む街には比較的大きな商業ビルがあるが、かつて隆盛を極めた姿は今は無く、空きテナントが目立ち、近い将来廃墟となってしまうのではないかというあながち非現実的ではない心配をしてしまうほどである。このような光景を見て私が思い出すのは幼い頃のエピソードである。当時私はバブル期に建てられた五階建てのマンションの最上階に住んでいたのだが、エレベーターが設置されていなかった。両親、特に母は、足腰が弱くなるであろう老後もこのマンションに住み続けることについて随分と心配していた。同じような考えだったのかは分からないが、ある時からポツポツと住民が引越すことが増えていき、新しい入居者もあまり入って来ず空き家が目立つようになっていった。母はよく「近い将来このマンションはわずかな老人だけを残したゴーストマンションになるね」と言っており、その前に新居を買って脱出するのだと息巻いていた。その後なんとか私たちは新たな住居を見つけ、そのマンションを後にした。現在も取り壊されていないようなのでそのマンションは今もそこにあるが、引っ越す際に二束三文で売り払おうとしたがなかなか買い手が付かないようだったので、恐らく母の予言に近いような状態にあるのだと思う。

 閑話休題。というかここからが本題なのであるが、先日めでたく発売40周年を迎えた大滝詠一”A LONG VACATION”である。日本のポップミュージック界に名盤としてその名を轟かし続け、10周年毎にアニヴァーサリーエディションが発売され続けているモンスターアルバムである。キャッチコピーは「BREEZEが心の中を通り抜ける」であり、古き良きアメリカンポップスのオマージュとはっぴいえんどの盟友松本隆の手がけたお洒落な詩が絶妙にブレンドされた非常に爽やかな音楽作品、いわゆるシティポップの金字塔である……というのが世間一般の印象であり、だからこそ累計200万枚以上も売り上げたのであり、当然のように私の本作品に対する印象もそのようなものだった。ところがである。この”A LONG VACATION”を「怖い」と感じる人がどうやら幾らかの割合でいるようなのである(Twitter調べ)。私個人はそのような見方をしたことがなかったので非常に驚くと共に面白くも思ったので、その理由について若干の考察を行おうと思い立ち筆を取った次第である。
 
 本アルバムのもたらす恐怖感(というか、不安感)を考察する際に非常に参考になる他作品があり(ロンバケの話じゃないの?というのは分かりますがちょっと付き合ってください)、それは坂本慎太郎の「ナマで踊ろう」である。このアルバムは「人類滅亡後の地球」というSF的な世界観を持ったアルバムで、バックトラックだけを聴くとむしろ能天気に聴こえるような曲も多いのだが、「キノコ雲を背景にスチールギターを奏でる顔面が骸骨化した坂本慎太郎」というジャケットを見れば分かるようにかなり異様な雰囲気に包まれている作品である。

 「いわゆる人工的な楽園みたいなものです。といっても、すごいスケールのものじゃなくて、自分が子どもの頃に流れてたCMとかあるじゃないですか。常磐ハワイアン・センターとか、ハトヤホテルみたいなリゾート温泉の。そういう人工的な楽園を作ろうとしてた人たちが、もう死んじゃってこの世にいないんだけど、志だけが残って空気中を漂っているような感覚ですね」

 「そういう音楽が、人間が滅亡した地球上で小さいスピーカーから流れてたり、ブラウン管からそういうCMが流れていたりする世界を妄想したんです」

 坂本慎太郎、2ndアルバム『ナマで踊ろう』を語る。より引用

 このようなコンセプト、正に”A LONG VACATION”ではないか?と思うのである。このアルバムを象徴している永井博によるカバーアート、正にリゾート=人工的楽園である。そもそもこのアルバムはこのカバーアート(ビジュアルブック)が先に存在し、ここに後から音楽のイメージを同化させていきながら作成されたというのである。つまりこのアルバムにおけるカバーアートの果たす役割というものは我々が想像するよりも遥かに高かったということになる。このカバーアート、パキッとした鮮やかな色彩で夏のプールサイドが描かれているが人間の姿はない。プールの水質は青く保たれており、奥の芝生もよく手入れされているように見える。しかしながらあまりにも清潔すぎる、無機質すぎる印象も抱く。永井は若い頃アルバイトでテレビ大道具の会社で働いていた経験があり、絵の描き方はそこで教わったため、自身のスタイルは背景画の側面が強いのではないか、と述べている(仕事はメジャーでも趣味はマイナーでありたい——四半世紀にわたって描き続ける永井博の「懐かしさ」の哲学より)。つまり永井博のイラストが極めて「人工的」に感じられるのは彼のルーツに依るところが大きく、また我々が絵を見たところでそのように感じることは不自然では無いのである。このようにリゾートというモチーフに加えて永井博の絵の持つ独特の雰囲気から、意図的ではないにせよ坂本慎太郎が目指した「人工的な楽園から人間が消え去った世界」が垣間見える。
さらに、サウンドの方に目を移そう。大滝詠一がこのアルバムで繰り広げているのは「ナイアガラ・サウンド」、すなわちフィル・スペクター・サウンド=ウォール・オブ・サウンドのオマージュである。これがどういったものかは詳細に解説したテキストがごまんと見つかると思うのであまり詳しくは述べないが、要するに多重録音と深いエコーで音に厚みを出したもの、と捉えておいて大筋は間違いないと思う(詳しい人は怒らないでね)。楽曲全体にかけられたこのエコーが当時の大滝詠一の流麗なボーカルと合わさって、幻想感、非現実感を強めている。また、このアルバムに収録されている曲は他アーティストやCMへの曲提供を依頼されて作ったマテリアルが大量に使用されている(Road to A LONG VACATIONより)ため、非常にコマーシャルであり、キャリア初期に散見された大滝詠一特有のおちゃらけたユーモアに見られる人間性が感じられない、漂白された世界観を形成している印象を受ける。つまりカバーアートだけではなくサウンドからも人間性の不在が感じ取れるのだ。この徹底的に人間を排除したにも関わらず、管理者不在のまま管理だけが徹底的に行われた世界に対し人は違和感を抱く。この世界感に対し、何か決定的な恐怖の対象があるわけではないが、その前段階である予期恐怖=不安が生じるのである。
 などと長々考察してきたが、この作品をリスナーが聴いて不安を抱くことを大滝詠一にしろ永井博にしろ良しとはしないと思われる。しかしながら、個人的にはこのような新たな見方が出来ることはとても素晴らしいことだと思っている。稀代のポップアルバムとして見ることが全くできなくなったわけではないし、視点が増えて一粒で二度美味しい作品になったと言えなくもない(などと言われてもやはり面白くはないだろうが)。恐怖は主に大脳辺縁系の扁桃体が司ると言われているが、この部位は同時に喜びや楽しいなどのポジティブな情動も司っていることがわかっている。人間は刺激を追求する行動を取ることが知られており、快感も不快感も同時に処理され脳を刺激している。それゆえに我々は怪談を聞き、お化け屋敷に入り、「ナマで踊ろう」のようなアルバムを楽しむのであり、”A LONG VACATION”の中毒性の秘密というのも、実はこのような部分にあるのかもしれない、というのは自分でも強引な結論だと思うところである。私がかつて住んでいたが今は廃墟になる日を待つだけになったあのマンションの一室で、今日も”A LONG VACATION”がターンテーブルに乗せられ回転しているのではないかという妄想に囚われつつ、稿を終えることとする。

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