見出し画像

知識は力なり?


哲学者フランシス・ベーコンは、こんな言葉を残した。

「knowledge is power (知は力なり)」

もともとは「観察と実験で得た知識(結果)は、物事の真理を解明する際に役にたつ」という意味で、ある物事の真理は帰納法によって思考し判断することが重要だと説いたものだ。

これに基づき、日本では「知識は力なり」という言葉で周知されている。日本語では知識に知恵という言葉も含意され、今では「知識をもつことは自分自身の糧となる」というような意味で使われることが多くなっているのではないか。



私の今までの短い人生においても、知識は度々大きな力となってくれた。(例えば大学受験。この場ほど、知識が力を盛大に発揮する場はないですよね。)

だが、今までのしがない私の経験は、所詮学校程度の小さなコミュニティ内でのものだけである。この先、さらに巨大な社会を構成する一員となる者に、このまま知識は力になり続けてくれるのだろうか。


残念ながら、現実社会には、丸暗記した知識で対応できる問題は極めて限られている。


知識だけで対応できるものは、既に起こっていることや、既に存在している問題、あるいは誰かが解決した先例のある問題だけである。実際社会にあるのは過去の先例が参照できないような、「知識は力ならず」の問題ばかりのように見える。

特にあらゆる問題が絡み合う複雑な現代では、対処に絶妙なバランスが求められるものが増えている。(例えば、人間はより快適な暮らしを追求する一方で、環境対策にも力を入れていかなければならない。また最近の問題でいうならば、新型コロナウイルスの感染予防のため自粛生活をしながらも、QOL を維持した生活をしたいと思う人は多くいるし、そうでなければならない。)

このような非定型的な問題を個別に、しかも創造的に考えていかねば解決できないことばかりの現代社会では、頭でっかちな「知識」ではなく、それらを用いて「考える力」が重要視される。


かつては、本を沢山読んでいる人しか ”物知り” になれなかったため博識な人は重宝されてきた。しかし、インターネットが普及し、スマートフォンを開けば誰もがたった10秒で情報や知識を手に入れることができるこの時代で、単なる “物知り” に価値はない。


もちろん、知識なんて何も意味がないから必要ない、なんてことはないだろう。知っていて損をすることはまずないが、知らないと損をすることは沢山ある。(”知らないふり” が必要な時もあるが。)  基本的に、人間は知らないことは想像できないし、想像できなければ考えることもできない。


私が思うのは、誰もが知識を持てる時代においてより価値がでてくるのは、さまざまな知識を組み合わせて新しいものを生み出したり、多くの情報からその先を推論したりできる「考える力」なのだ。


この「考える力」の重要性に気づき、自分自身の頭で思考し答えを出し続ける能力を磨く人たちもいる。一方で、常にゴールのある勉強が用意された日本の教育制度に慣れきってしまい、誰かに答えを教えてもらわないと行動できない「思考停止」の状態に陥ってしまう人も多くいる。


今まさに、このような「考える力」の格差によって勝者と敗者が分けられてしまう、厳しい時代に突入しているのかもしれない。


これらの日本人の思考力・判断力・表現力については散々問題視され、多くの人が気づいているはずなのに、なかなか改善されない。(私自身も知識の力を崇拝してきた一人であるし、何も考えず外を眺める時間も最高ですよね。)


ただ、曖昧で複雑な問題ばかりのこの世の中を見ると、知識が力となる時代はとうに通り過ぎ、思考が力となる時代になっていることを、私自身も含めた社会全体が改めて認識する必要があるとつくづく感じる。


(寄稿 高橋奏 twitter:@_candy0411)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?