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新型コロナウイルスになってみてわかったこと

2月はまるまる、新型コロナウイルスに翻弄されました。

1月下旬、長女の13歳の誕生日前後から、次女が風邪を引いたり、家族の体調がなんとなく低空飛行めで、まん延防止措置が出ていたこともあり、ずーっと週末の外出を控えていました。ある日、長女が発熱したので、「もしや!?」と思って、近所のドラッグストアを何軒も巡り抗原検査キットを探し歩いている時に、病院附属の薬局で無料の抗原検査をしてくれることがわかり、家族全員で検査して、陰性。ほっと胸を撫で下ろしたのでした。

それも束の間、翌週は次女の小学校で学級閉鎖、そのうちわたしも発熱し……「これは外出できないぞ」と思う間に、どんどん熱が上がってきた。家にあった最後の1本の抗原検査キットを使ったら、線が2本。立ち上がるのも難しいくらい熱が上がった夕方に、夫が伝手を使って病院を探してくれて、トリアージのための抗原検査をしてもらい、コロナウイルス陽性確定、となったのでした。

いいかも市のお花。癒された。

オミクロンは軽症だよ、とか、インフルエンザのようなもの、と聞いていたけれど、私にとっては結構キツかったです。発熱した日から丸5日間は寝たきりで、寝ても寝てもまだ寝られる、という感じ。熱は乱高下し、最大40.9度まであがり、節々が痛い、頭が割れそうに痛い、2日目の夜は左胸に刺すような痛みがあって「よもや」が脳裏によぎるほど。4日目から少しずつ体を起こすことができるようになりました。6日目以降は回復基調に入ったものの、熱は38度台が出ることもあり安定せず、8日目以降にようやく「治ってきたのかな」と感じました。しかし、味覚と嗅覚に障害が出て、味が単調で強く感じたり、繊細な味わいを感知できなくなったり、6日目以降、朝飲んだコーヒーと同じものを昼に淹れたらおそろしく不味く感じたり。完治を感じた日におそるおそる飲んだビールは、ようやく「うまい!」と感じました。


陽性確定してから、長女の個室を私の療養部屋とし、トイレと個室を行き来するのみ。消毒スプレーを部屋の前に置いて、入室前後に消毒し、トイレに行った時にもサニタリー全体をスプレーして、お風呂も最後に入って浴槽洗って消毒してから寝るようにしていました。歯ブラシも家族のところから分けて、顔を洗ったりうがいをしたら消毒。食事は部屋の前に置いてもらい、食べ終わったら消毒スプレーとともに部屋の前に戻す。これが正解だったのかはわかりません。

何より淋しかったのは、次女を抱っこできなかったこと。こういう時の夫はとても頼れる人なので、子どもたちもご機嫌にリズムよく過ごしているようで、楽しそうな笑い声が漏れ聞こえてきて、ああ、いいな、混ざりたいな、という気持ちがムクムク。次女は毎日手紙を書いてくれて「ママ大すき」「せかいで一ばんすき」って書いて、差し入れてくれた。もう、可愛くていじらしくて。。。家族と食事をできないのも、ごはんをつくれないのも、しんどかったです。

何よりもつらかったのは、コロナって、言えること、言えないこと、双方あるなあ、ということで、ギリギリの判断を毎日重ねていたな、ということです。私自身は、自分の症状のこと、体験のことはいくらでも話せます。でも、家族がどう過ごしたのか、家族に起こった影響というのは、それぞれの関係性や環境もあって、とても言いにくいです。ショックだったのが、中学生の長女が学期末テストを受けられなかったこと。彼女の人生にそれがどのような影響を及ぼすのか、想像もつかないのだけど、親として本当に「なんてことだ……」と愕然としています。

次女はもともと学級閉鎖で休んでいて、その流れで濃厚接触者になったので、学校と学童と登校班に連絡して、登校班の保護者はみんな「子どもには体調不良と言っておきますね」と気遣ってくださいました。別にコロナって言ってもいいのに、とも思ったのですが、学校で「誰がコロナに感染した(濃厚接触者になった)とは言わないように」という指導がなされているようです。


仕事は大きなものを一つ落としました。2週連続講演の2回目が中止に。オンラインでも講演対応できますよ、と言ったのですが、先方が体調に気遣ってくださったことで、中止に。寝込んでいた5日間には1つオンラインMTGをやったのですが、声がガラガラで相手方に失礼なレベルで、しばらく仕事は諦めよう、と思いました。どうしても社会との接点を途絶えさせたくなくて、3日目の夜にオンラインセミナーに耳だけ参加したりもしました。でも、本当に5日間はほぼ仕事にならなかったです。

6日目以降は通常の在宅勤務と同じように働けました。Zoomを使って1本講演もやりました。仕事ができている、ということがなんとなく生きている安心感につながりました。


私がコロナになった、ということは、仕事を一緒にしている仲間数人には話しました。すぐにレターパックで気持ちを送ってくれた人、大量にレトルト食品を送ってくれた人、実家からも手紙とともに食べものがきて、義母も差し入れをしてくれました。事務局長が「いいかも市」で注文していたおいしいものと一緒にお花を届けてくれて、そのお花がしばらくの間私を癒してくれました。隔離期間中にいちばんつらかったのが「孤独」です。そんな時に、誰かが自分のことを思ってくれる、すぐに行動に移してくれる、それがモノじゃなくてどれだけ救われたことか。だから、私は、誰かに何かがあったら小さくてもすぐに行動したい、と思いました。あの時の友人の温かさはめぐらせたい。

それから、同時期に罹患したり、家族の濃厚接触になった友人が何人かいたので、SNSで連絡を取りながらお互いに声をかけ合いました。「同じ時期に同じようにがんばっている人がいる」ということが励みになったし、一方で「もう今は誰がかかっても仕方ない流行状況だ」ということも感じました。

本当にうれしかった・・・


法人では、特に社会的なアナウンスはしませんでした。スタッフは在宅勤務が主だったり、職場は2軒の古家にわかれて仕事しているので、出勤していたスタッフとの接触の少なかったので。陽性後、「私が最後に出勤した日に使っていた部屋に、消毒スプレーしておいて」とだけスタッフに伝えました。

これが半年前だったらどうなんだろう? 1年前だったら? 2年前だったら? 半年前だったら事務所での事業活動を中断しなければいけなかったかもしれない。2年前だったら社会的制裁に近い拒否感を個人の法人も諸共に受けたかもしれない。保健所の立入検査と全面消毒、休業、という事態に陥ったかもしれない。

コロナ時代になって2年経って、どういうシーンで濃厚接触になるのか、事業活動を止めるほどのリスクを生じさせる行動はなんなのか、知見がたまってきているから、今回の私の罹患は、職場が止まるほどではなかった、ということでした。法人自体も、私がいなくても全く問題なく回る体制になっているので、そこは安心と信頼で休むことができました。


コロナはとにかく、「なってみてわかる」ことがたくさんある。感染したらどうなるのか。カラダはどうなのか、ココロはどうなのか。家族との関係は。隔離対策は。その解は一つではなく、家族によっても個人によっても異なるので、「なってみてもわかる」ことと「やっぱりわからない」という両面があること。そして、「何を言えるのか、言えないのか」がある、という二面性のつらさ。人によっても、多分「コロナにかかりました」と言う人と、言わない人がいると思います。そのことも理解できます。


「コロナになってみた」ことでわかったのが、「言えることも言えないこともある、その”あわい”を理解できる」ということ。でも、それはきっと「コロナ」だけではない。コロナが色濃く出るだけのことで、多分いろんなことに「あわい」があるものなのだと思う。私は簡単に白黒パッキリと判断しがちな面があるのですが、いろいろな「ままならなさ」を理解し、人はさまざまなグラデーションに在る、という当たり前のことを、受け止めていこうと思います。


これを書くかどうかを迷いましたが、私自身が、経験者の声がとても参考になったし勇気づけられたので、滅多にできない体験ということでここに書き残しておきます。

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