見出し画像

大学院修了、そして新たな一歩を踏み出す。

note、再開します。
前回のポストから2年が経ちました。この2年間、書きたいことがなかったわけではないけれど、日々の仕事、それから大学院のレポートが団子状態で詰まっているなかで、優先順位を考えると、自分のnoteは後回し。それで2年があっという間に過ぎたわけです。

私が通っていた大学院は、星槎大学といって「人を認める 人を排除しない 仲間を作る」という理念を掲げ、「共生」をテーマにした大学です。入学を決めたのは、その理念に共感したからというより、「40代になったら、今までの社会人経験を社会に還元するために体系化するために大学院に通おう」と漠然と考え「そろそろかな」と思っていた時に、星槎大学大学院にメディア・ジャーナリズムコースが開設されるという情報を耳にし、背中を押されたから。たまたま、星槎大学の本部が、家の近く(青葉台)にあって、大学院が日本大通りにある(横浜スタジアムや森ノオトローカルメディア事業部の活動拠点の近く)、というのに縁を感じたのも、決め手でした。通信制で院生のほとんどが社会人というのも魅力でした。働きながら見つけた現実社会の課題と、その解決につながる「何か」を研究したいという仲間の存在は、これは後から気づいたことだけど、大きかったです。

通信制とはいえ、私はほぼ通学で月に1〜2回のスクーリングを受け、そのたびに2〜5冊の本を読み、2〜3本のレポートを書き、なかなかハードな日々でした。当然、平日は仕事でつぶれるので、早朝の自主学修。狭い家は本であふれ、常に何かに追われている母ちゃんの醸し出す雰囲気は、家族にとっては負担も大きかっただろうなあと思います(ごめん、そしてありがとう)。それでも、Zoomで全国、時にはロシアから参加する学生や先生方との議論や、レポートを書き上げるたびに「何か」をつかみ、世界が広がり深まる体験は、おもしろく刺激的でした。本の中には、実践に裏付けされた理論と、世界がありました。

修了は最短コースの2年より半年遅れました。ちょうど1年前から修士論文に取り組んでいたけれど、どうしても書けませんでした。研究テーマは「ローカルメディアが持続可能な地域社会の創造につながるか」どうかであり、研究対象を森ノオトそのものにしてしまったので、それが言葉に尽くせないほどつらかったのです。
1年前は、森ノオト創刊10年の節目であり、その時期に集大成として活動の本質的価値を見つめ直すといえば聞こえはいいが、研究対象として徹底的に主観を排除して客体化していく作業と、毎日の目の前の仕事や課題を解決していく作業の同時並行は、結構無理がありました。組織としてもまさに変革期で、私自身が引き裂かれていくような感覚もありました。森ノオトに関わる10人へのインタビュー調査は、相手との関係性が深いほど難しく、日々顔を合わせるAさんと、インタビュー調査に協力してくださったAさんを混ぜない、私自身も組織の代表という立場と研究者を混ぜない、という、日々同時並行する現実のなかで、どう自分を行き来するか、まるで二重人格のような日々に苦悶していました。森ノオト創刊10年のお祝いムードがあった昨年11月には、1月の修士論文の提出と年度での大学院修了を諦めるという決断をしていました。

こう言ってはなんだけど、コロナ禍がなければ、私は修士論文を書き上げることはできなかったかもしれない。この間組織で起こっていたことは立場によって見方も異なるけれど、それと研究の同時並行は極めて困難であり、またインタビュー調査から日が経つなかで組織やメディアの形態もあり方も変化しつつあるなかで、新たに調査を重ねる気力もなく、よほど研究テーマを変えようかと思っていたくらいでした。コロナであらゆることが一度止まり、組織も研究も、文字通り「立ち止まること」ができたことで、もう一度書き直そう、という気持ちになりました。とはいっても、3月4月は組織の存続や資金繰りがどうなるかの先行き不透明な不安と、毎日のように「中止」や「コロナ対応」の選択と決断を迫られる日々。ゴールデンウィーク中にひたらすらステイホームするなかで、ある時「あ、今かもしれない」と感じたのです。それから、公園にパソコンを持っていき、新緑のなかでテープ起こしを再開し、少しずつリハビリをするように、修士論文を書く、ということに自分をチューニングしていきました。

このまま筆を折るか、研究テーマを変えるかというくらいに自分的には危機的状況だったものの、百戦錬磨の鬼頭先生は「あなたは人生かけてこのテーマに取り組んできたのだから」と、諦める選択肢などないように励ましてくださいました。鬼頭先生との出会いは、まるで20年前から決まっていたかのようです。私の人生の3人の師を挙げるならば、個人の生きる現場からのジャーナリズムを導いてくださった大学時代の加藤彰彦(野本三吉)先生、ペンの力で社会を変える生き様を仕事の師として見せてくださった環境ジャーナリストの保屋野初子さん、そして鬼頭秀一先生です。文系と理系、現場での実践と理論、ストライクゾーンの広さは「知の巨人」のようであり、鬼のように厳しい指導と仏のような温かく深い懐で、私の迷い多き研究を導いてくださいました。

6月、NPO総会が終わった後から1カ月、仕事を半量にして集中しました。SDGsとメディアに関する書籍や先行研究と、調査インタビューの逐語録、森ノオトの過去記事と編集会議の議事録を読み込みながら、たくさんのキーワードを書き散らし、それを積み上げて論理を構築していく作業によって、「何か」が見えてくる、つかめる感覚がありました。森ノオトの10年を、メディアの世界とSDGsの中で位置づけてみて、ローカルメディアはローカルSDGsに寄与できそうだと確信しました。鬼頭先生に提出直前のギリギリまで、週に何度もZoomでご指導いただきながら、20万字超を書き上げました。

7月15日に修士論文提出、8月15日に口頭審査、9月上旬までに改稿を重ねて、9月15日に冊子が納品されて最終提出して、ようやく大学院が修了。

2009年に自分で生み出したローカルメディア「森ノオト」は、すでに「地域のもの」になり、そこに関わる一人ひとりのものになっています。この1年は、私自身が森ノオトと切り離されるためにも必要で十分な時間でした。
森ノオトが、個人の手から離れ、普遍的に応用可能なものとしてプラットフォーム化されていくことによって、本質的な意味での地域の財産になっていくはずです。
修士論文の終章で、こんなことを書いています。
「ローカルメディアが多様な主体の対話形成の場となり、草の根からの民主主義を生み出す土壌として、一人ひとりが主体的な意志を持って耕し、次世代にバトンを渡すものになることを願い、本研究の結びとする」

私自身も、次の一歩を踏み出す時がきているように思います。それがどのような形になるのか、今はまだその輪郭がはっきりとは見えていないけれど……。一つだけ、ローカルメディアについての本を書く、という目標は明確に定まりました。

まずはnoteを再開し、これからの時代のローカルメディアの役割や、なせることについて、月に1本のペースで、じっくり記事を書いていきたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?