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純愛とは無条件な愛だ。好意に期待するとか、孤独からの脱却を超えた、生きがいなのだ。 『自分の中に毒を持て』 - 岡本太郎

友達のバイブルだから読むしかないなと思って。それと、よく売れたアーティストのインタビューとかで岡本太郎に影響される時期とかよく言うからどんなものか好奇心で。

人生は積み減らし

積み重ねではに。財産も知識も蓄えるほど、帰って自由を失う。常に新しく生まれ変わって、運命を開け。そのためには、心身ともに無一物、無条件でなければいけない。捨てれば捨てるほど命は分厚く、純粋に膨らんでくる。今までの自分なんか、蹴飛ばしてやる。それくらいがちょうどいい。自分と戦わなければいけない。自分に忠実なんて考えるな。自分らしくある必要はない。それより、人間らしく生きることを考えてほしい。人生は厳しさがあるから面白い。

成功なんて重要だろうか。それより、どれだけ挑んだか、それで爽やかだろう。確かに、自分の経験を振り返ってみても、結果よりプロセスが大事だった。熱い思いを持った記憶は鮮明に覚えているし自分の力になった。だけど、簡単に得られたものに対して何も特別なことを感じなかった。

無条件でもやりたくなるものに出会えるか。とりあえず周りを気にせずにやってみる。しょぼいことでもなんでも。軽く素直に動けばいい。熱中することは、無条件な情熱を持って挑む。命がパッと開く。それが生きがい。瞬間瞬間が新しい。これが好奇心の源だろう。

なんで自分は、と思ってしまう人の特徴としては自分だけを特別だと勘違いしていること。そんな奴はいくらでもいる。

自信は相対的価値観

人間は絶対感で生きなければいけない。こうすべきなんてない。僕だったらこうする。それだけだ。共感する反発するもみんな自由だ。弱みを見せようとすることは、ますます弱みになる。

行動の後に意思が生まれる。やりたいことがないから、じゃない。まず、動いて初めて意思が見つかるのが自然だ。

自信なんてものはどうだっていいじゃないか。そんなもんで行動したらろくな事にならない。ただ、ありのままの自分を貫くしかないと覚悟している。それは自分と戦い続けること。どんな自分も自分だ。自信は他人との比較だ。そんなもんは卑しい。ただ、自分の信じること正しいと思うことを進むだけだ。自分を殺す、それで初めて自分を強烈に生きるんだ。

弱い、未熟な人間ほど膨れ上がれる。成功者は虚しい。周りに応えようとか思うからだ。未熟な方がよほどよい。だから、未熟なことは誇れる。プラス面なのだ。自分は常に未熟だと思って生きるのだ、平気で生きる。未熟で当たり前。評価したのは勝手に周りがやっただけ。どんなに下手でも自由にユニークに表現するのだ。

幸せとか幸福が嫌いだ。その代わりに歓喜をつかう。燃え上がる、それが生きがいで。幸せなんて考える時、幸せなんだろうかと考えてるから、考えるに至るんだ。

生きるためには内向的になるしかないのだ。悪いことじゃない。誰もが持ってる。閉じこもるから広がる。

自分を大事にしすぎだ。だから思い悩む。好かれなくていいや、と自分を投げ出した方が好かれたりする。だめになって結構だと思ってやればいい。自分をぶっ壊してやるくらいでいい。自分を主張せよ。

孤りではなりえない

孤独を感じるのはこれを証明している。人間は孤りで完結しているように思えるが、欠落している部分、何によって満たされるのか向き合って、一体になる相手は誰なのか。

純愛とは無条件な愛だ。相手の好意に期待するとか、孤独からの脱却や生活上の便利さなどを超えた、生きがいなのだ。

別れた時にどっちが悪いとかない。ただ、その時にお互いは惹かれ合った。愛し合って結ばれた。その時はお互い満たされていたはず。2人の人生が別れたのは理由が合って仕方がない。

人間には、自由という条件が必要だ。自由とは、単に気楽にやりたいことをやるのではない。できる限り強烈な人生体験を生きるのが、自由の条件だ。ところが結婚は足枷になる。お互いの可能性を潰し合う。また、結婚しているからという自由に活動しない言い訳を作り出す。

結婚と恋愛は全く別だ。結婚すると緊張もなくなり、安心し燃えることがない。妻子を養って老後を考える。家族のシステムによって社会に順応するのは卑しい。

金とかスペックとか見た目とかで結婚する女はもはや女ではない。繰り返すが、恋愛は無条件なものだ。打算が入ると、空しい。

結婚は恋愛の墓場だ。結婚は人生の墓場だ。

結婚してもお互いが嬉しい他者であり、新鮮かつ無条件な男と女のあの気持ちを忘れないことが大事だ。

愛は戦いだ。自分との戦いだ。どうすれば彼女と一体になれるのか。

片想いも立派な恋愛だ。相思相愛なんてない。どちらかが深く、切ない。言うなれば、常に片想い。そこにドラマがある。同等なんてあり得ない。だから、今の自分みたいに自分の方が上でも強烈に好きなんだ自分の方が上なんだ、それだけでいい。虚しさなんて感じるな。どっちかがその辛さ切なさを味わうんだ。それなら、彼女に背負わせる訳にはいかない。僕が耐えてやろう。

なんなら、相思相愛より片想いの方が恋愛だ。喜びと同時に心配も不安もでかい。全身をぶつけること。そこにすばらしさがある。どっちが深く愛しているなんて関係ない。恋愛は自分をぶつける対象だ。

自分がその人を好きなら気持ちを開くべきだ。求める答えが得ようが得まいが自分自身を救えるだろう。

恋愛はエゴになりがちだが、相手を思いやる余裕を持ちたい。

親子は人間同士として、純粋で無条件な一体感だ。対等だ。じゃないと、尊敬も愛情も一体感も生まれない。僕は、対等に親と話したかったなあ。いつも僕を子供として見てくる。私の子供、俺の子供と。だから、こちらも話す気が失せる。もっと対等でいたかった。

生きるには、歓喜がなければならないと思う。歓喜は対決や緊張感のないところからは決して生まれない。だから、親子でも人間と人間の対決がなければいけない。

人間本来の生き方は無目的、無条件であるべきだ。その瞬間にベストを尽くすことだ。健在に強烈に開くべきだ。一人一人、栄光に輝くも惨めであることも巨大なドラマだ。無目的に膨らみ、輝いて、最後に爆発する。平然と人類がこの世から去るのが、栄光だ。

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