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恥の多い生涯を送ってきました。 『人間失格』 - 太宰治


「恥の多い生涯を送ってきました。」

タイトル『人間失格』とは、主人公が自分自身を省みて「こんな私は、他人からみたら人間失格だ」と、自分の人生を他人から見た評価なのではないでしょうか。

葉蔵は小さい頃から、他人が何をどう感じているのかが理解できませんでした。他人の幸福は自分が感じる幸福というものとはまるで違うと感じていました。みんな何を考えて生きているのだろう?自分とはまったく違うのだろうか。そういったことを考えては不安と恐怖に襲われていました。

そこで、そうした不安をごまかすために「道化」を演じ、自分を偽ることにしました。肉親たちに口答えもせず、常に笑って他人の目を気にしました。ひょうきんにふるまい続けた結果、皆にお茶目な子だと認めさせることに成功します。

「なぜみんな、実は欺きあっているのに表面上は傷ついてないよう、明るく朗らかに振舞っているのだろうか?他人が理解できず、自分が感じていることは異端なのではないか。」

彼はますます自分の孤独を深めながら、やがて中学校へ上がります。

まさに道化そのものだった。

「第一の手記」では、他人のことが理解できない彼の恐怖が描かれています。誰しも多感な時期には「他人の考えてることがわからない」「人と自分が感じてることが違うのでは?」と恐怖したことがあるのではないでしょうか。そういった感情は決して彼だけが感じるものではないはずです。

彼は大人や周りの人間に近づくため、そして自分が恐怖していることを悟られないために、道化となります。他人の目を気にすること、誰かの期待したとおりの自分を演じることは、共感できる人も多いのではないでしょうか。

「恥の多い人生を送ってきました」という一文から始まる彼の人生語りですが、幼少期のそれらは、もしかするとみんな多かれ少なかれ感じてきた感情なのではないかとも感じられますね。

「信頼の天才」との出会い。主人公との鮮やかな対比

幼い頃から他人の顔を伺い、欺き合う大人を信頼できなかった葉蔵と、それとは対照的に何者をも疑わないヨシ子。

人を信じられず、疑って生きてきた葉蔵にとって、ヨシ子の他人への信頼、人を疑う心の無さは眩しいほどのものでした。2人は正反対の気質をもちながらも、惹かれあい内縁の夫婦となります。

それまでは自分と同じような人間を見つけては安心していた彼でしたが、ここでまったく反対の彼女と出会い、心を通じ合わせたことで少しずつ変わっていきます。

「無垢な信頼心をもつ妻」という一筋の光を信じてこれからの人生を生きてゆこうと思った矢先、その妻が、無垢な信頼心を持つがゆえに犯されます。

これはまさに世の中の女性が汚い世界を認める瞬間だろう、人を審査する詮索するようになる、絶望する瞬間、まさに大学生のようだ。

Kちゃんであったり、家族に愛されている無垢な女の子に対して抱いていた、僕の感情をしっかりと掴んでくれた!!!

『人間失格』の最後が意味するものとは?

[自分の思う評価 =他人からの評価]であると信じて疑わなかった彼ですが、マダムの彼への評価とはどうも違うようです。

彼が抱えていた悩みや苦しみは、私たち誰しもが秘めているそれとそう変わらないものだったのではないでしょうか。道化を演じたり女や博打にはまったりすることも、実は特別ではないのです。

自分で人間失格と言っても他人からはそうでないように見えることもある。

自分と他人の視点の違い、信じることの大切さと脆さ。彼は本当に人間として失格だったのか?それを考えさせられる物語です。

彼が人間失格なのであれば、世の中皆人間失格ではないか??




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