粗品の理由
粗品という芸人がいる。霜降り明星というお笑いコンビのツッコミで、M-1チャンピオンであり、R-1チャンピオンでもある。
これはひとりのお笑い芸人を考察したフィクションである。
まず筆者は粗品のファンではない。彼の言う、投げ銭少額者を指して言う、細客ですらない。
たまにyoutubeのチャンネルを覗くくらいの通りががりのおっさんだ。
彼は、とにかく他方面にケンカを売る。売られたインフルエンサーはもちろん、そのファンまでも攻撃する。
ファンからすれば、たまったもんじゃない。
最近であれば、
「youtuberなんかおもんない」
「ジャニオタ痛い」
という内容を、壮大なあるあるとして展開している。
当然、その発言は、その部分のみ取り上げられヘイトを生む。だが、そんなことは、はじめからわかっていた筈だ。
ここで題名に戻ろう。なぜ粗品はケンカを売り続けるのか。
プロレス?炎上商法?エンターテイメント?
色々と憶測はあるし、ある意味ですべて当たっているのかもしれない。
しかし、解せない。
まず、粗品は既にお笑いという世界の頂点を究めた男なのだ。
すでに飽和するほど仕事があり、借金も公言しているが、お金にももう困らないだろう。
もっと言えば、明らかにひとり才能が突出しているのに、なんで、そんなところでそんなことやってんねん。と突っ込みたくなるのだ。
天才という存在について言及しておくが、
これは定義化が難しい。
ゼロから始めて何かを作り上げた人とも言えるし、単純に人々に訴求する人。とも言える。曖昧なのだ。
かつて松本人志という青年が、今のお笑いという装置を一人で作り上げた。
その功罪は日本社会というマクロ視点を含め今後言及されるべきであり、手放しに肯定もできない。
だが、彼が幼少期から見えていた世界を我々は共有し、驚愕した。
漫才がうまい、コントが面白い、平場が最強、大喜利が強い、
という次元ではない。天才は世界観を共有できる。という強みがある。
もちろんそれを担保するものが、圧倒的なプレゼン力だったりするのだが。
話が逸れた。では粗品は松本人志と同じレベルの天才なのか。
筆者はそう思う。
粗品のエピソードで一番好きなエピソードがある。
彼が芸人になってまだ誰にも知られていない頃、右も左も分からない彼に、ある先輩が粗品をギャンブルに誘った。
「明日、二人とも25万ずつもって競馬場に集合な。」
当然そんな大金はない。
彼は消費者金融で借金し、訳の分からないまま、1レースに全部ぶち込む。
結果二人とも負けた。
その1レースで賭けたお金は当時の彼の全て以上だったろう。
そのレースの最中、アドレナリンが脳を駆け巡り、それが彼の人生を決定づけた。
同志社大学を出た高学歴の心根の優しいお笑い好きの青年が、本当の意味でお笑い芸人になれた瞬間だったのだろう。
お笑い芸人として全ての力を注ぎ込み、R-1とM-1を獲った。
だが、ここでふと気づくのだ。
テレビというコンテンツが死んで、エンタメのマーケットは細分化の一途を辿る。
それぞれの趣味趣向に走り、横断的なつながりは無くなる。
お笑いというコンテンツもシュリンクし、若者の趣向は狭義のお笑いから離れつつある。同じ年代の人間同士なのに、価値を共有できない、分かりあえない時代が来ているのだ。
粗品は憂う。
価値観の違いだけで分断された世の中を。
同じクラスにいたら話してたやんか、趣味が違ても。俺やったら絶対いじってんな、こんなおもろそうな奴おったら。
と、YouTuberを弄り、ジャニオタを弄り、繋がろうとする。
もう答えは出ただろうか、彼がケンカを売り続ける訳が。
これは最初に述べたようにただの仮説だ。
だが、粗品がめちゃくちゃ寂しがり屋で、みんなと繋がろうとしているため、と捉えたら、彼のディスが少しマイルドになる仮説だ。
終
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