【番外編】生活なんてもう、こーりごーりだぁ〜〜〜(泣)

 表題の件のとおりである。

 他者よりもすこしだけ長い学生時代の終焉、社会人時代のはじまりとともに、わたしの一人暮らしもスタートした。
幸い、会社からの補助によって健康で文化的な最低限度の日常は保証されているけれど、そんなわたしの人生にも、恐るべき波が押し寄せている。

 生活である。

 生活とは、毎日出社し、おのれの下着やシャツを洗い、食料を調達し、毛並みを整える継続的な営みの全般を指す。
もちろん、現在に至るまでも社会の一員として、わたしは23年間生活をしていたのだが、母親の庇護のもとでそれらの生々しい実態は潜在化していたのである。
 特に大学生のときなどは、歌舞伎や演劇や文藝にほとんどの時間を費やし、恋人と時を折り重ね、渋谷のチルインや日吉の喫煙所で文字通り霞を食っていた。頭の中はといえば、おのれの肉体をいかに美しく見せるかということと、虚構に渦巻く人間の情念と、死した魂はいかに処理されるか、そもそも魂など存在するのか、それくらいのことであった。

 こうしたことは、今でも確かに考える。
21グラムの魂の行方は、そう簡単に忘れ去ってしまえるような問題ではない。
けれど、卑近な生活が脳内にどっしりと鎮座して、硬質な輝きを持つ難解な鉱石のようだった疑問の数々が、思考の隅に追いやられる時間が少しずつ長くなっているのだ。

 朝、会社で食べるためのお弁当を作っているとき、冷蔵庫の残りから夕飯のことを考える。
 昼、会社でお弁当を食べながら、帰りに買わなければならない食品や生活雑貨のことを考える。
 夜、用意したご飯を食べながら、翌日のお弁当について考える。

 念のため加えておくと、わたしは特別食いしん坊なわけではない。
体調を崩さないように、体型を維持できるように、
そう考えたとき、次の、次のことを想定しなければ、一日の大部分を会社で過ごさざるを得ない状況においては、とても回らないのだ。
生きることは、次のごはんを考えることなのだと、齢24に差し掛かってようやく気がついた。

 当然、考えなければいけないのは食事のことだけではない。
次の洗濯、ということは今週の天気は?
ごみが溜まっている、回収日はいつか?
台所の洗い物、洗剤はまだあった?
うまくやりくりしなければ、今月はあといくら使える?

 平常な日常を過ごすためのコストは、想像していたよりもはるかに大きかった。

 そう考えると、多くの場合は母親であるところの保護者(庇護者)は、その対象の生活を肩代わりする存在とも言える。
前に母親が、大人の条件に「自分以外の人間を育てられるようになること」(その対象は、実子でも、生徒でも、会社の後輩でもありうる)と言っていてすごく納得したけれど、これに付け加えるならば、大人とは他者の生々しいコストを引き受けることのできる人間であるのかもしれない。

 少しずつ大人になっているのだろう。
まだ方々から育成されていて、子どもも生徒も犬も育てていない、なんならもらった切り花を最速で腐らせる始末であるが、ギリギリ自分の落とし前は自分でつけている。
一方で、霞を喰って生きていたわたしが、蚊の鳴くような声で助けを求めている。
これは退化である、あるいは敗北であると叫んでいる。
自分の世話をする云々の話ではない。それは本当に自分でできたほうがいい。自分のコストをいつまでも他者に背負わせ続けることは罪である。
問題はわたしがいま、本来持っていた重要な思考を手放しつつあることにある。

 少し前まで、素晴らしい才能を持っていながら生活苦によって自殺する芸術家の心情が本当にわからなかった。才能こそ至上、生活なんてかなぐり捨ててしまえばいい、それなのにどうして、と思っていた。
でも、彼らは貧乏が苦しくて死んだんじゃない。
生活に押しつぶされて死んだんだと、今ならわかる。
保つべき肉体を持ってしまった以上、それからはどうしても逃げられない

 思えば社会人になって、無意味な行為をしたい衝動に駆られ続けている。東西南北に向かって叫んだ。ブランコを全力で漕いで大人の推進力に慄いた。一度もできたことがないのに側転を試みた。
もしかしたら、これらはすべて逃走の試みなのかもしれない。
今だって、絶対に資格の勉強をしたほうがいいのに「チラ裏にでも書いとけ」と言いたくなるようなnoteを粛々と執筆している。

 以前、一人で宮崎に暮らす高齢の祖父を訪ねたあとで、母親がぽつりと
「おじいちゃん、一生懸命生きてるって感じだった」
とこぼしていた。食事を用意したり、洗濯をしたり、そうした基本的動作が少しずつ難しくなり、椅子でじっとしている時間が極端に増えたその姿は、確かに生活に追いつかれている。そう思った。
追いつかれてしまったあとは、追い越されるまで走り続けるのみである。
その営みは、尊いものだと思う。決して無駄ではないと思う。
というか、無駄とか有為だとか、そういった次元を超えた営みだ。
それでもわたしは、能う限り逃げ続けていたい。
身体が動かなくなるまで、思考が回らなくなるまで。

 願わくば慣れが来て、脳内の生活の容量を圧縮できますように。
肉体の美を捕まえておくためには、正常な生活を必ず失ってはならないという、絶望的な矛盾を抱えているので、わたしは生活を放棄することが許されない。
しかも、歌舞伎とわたしの生活は、これ以上ないほどに密接に絡まってしまったから、相互を成り立たせなければ人生そのものが破綻する。

 こうして駄文を綴りながら、徒然なるままにものを書くことの快感を思い出している。今より若いわたしを救ったのは、唯一この感覚だけでなかったか。とりあえず、習作のモキュメンタリ―ホラーをここに連載し、完成させることをここに宣言しようと思う。薄弱な意志、貧弱な体力、溶けゆく時間、それらを奮い立たせて創作を続けていくには、後に引けない状況をつくるしかない。情けない限りである。

改めて。

生活なんてもう、こーりごーりだぁ〜〜〜(泣)





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