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【EX】虚飾性無完全飯罪

CHAPTER:EX もう泣かない


 “団地”で連日続いたデスクワークから久しぶりに解放され、曇り空といえども久しぶりの外出に、Wは飢えた野良犬のような心に多少は張り合いを取り戻したのを感じた。差し入れに山積みされたカップうどんを食っていた日々は、この日の捲土重来を予感していたも同然だったらしい。
「シャバの空気は美味いな。」
「准佐昇進の前に仙人になりましたか、食費が浮いて結構ですな。」連れ出した部下のソゥが軽口を叩く。鬼のような上官だが、冗談を喜ぶ性質(たち)だということは心得ている。
 正午過ぎである。Wは部下のソゥと共に船橋本町に向けて巡視へ。肌寒く、足早に歩く。
 年に一度の船橋緊急事態訓練、今年は今日がその日である。緊急事態、非常事態を想定して一日を過ごす、大規模な避難訓練のようなものだ。幼稚園児から社会人まで、老いも若きも、この日は『自分自身の命を守る』ということを自覚して過ごす。勿論、東武と西武の遺恨も無い。建前上はそういうことになっている。
 五十年前なら、こんな日があれば中高生たちは浦安へ押しかけただろうが、夢の国が夢の国だった頃の記憶など最早誰にも無いと言っていい。そこは今や、ただ滅びを待つだけのソドムとゴモラにすぎない。
 船橋を襲った痛ましい惨劇の傷跡は行政の手により隠されて久しいが、この記憶を風化させてはならないと誰もが思っているのだ。
 この日だけは駅前の浮浪者、路地裏の中毒者、往来の極道者も見当たらない。無論、そういった手合を取締るために、習志野軍属行田駐屯地から出張って来ているわけだから当然といえば当然だ。しかしそれより当然のことだが、Wの目的は別にある。冬眠をしない動物でも、この季節は脂が恋しくなる。
 京成高架下を本町一丁目スクランブルへ向かう途中、その店が。
「へぇ、豚骨ラーメンですか。船橋には珍しいですね。大尉は、やっぱりハリガネで?」
 暴力上官の部下として、普段見せている怯えたような様子伺いでは無く、美味なる物に対する屈託のない笑顔をソゥは見せた。
 京成高架下を本町一丁目スクランブルへ向かう途中、違うこの店じゃない。
 この地に宿った『こってりらーめん 成田家』の、今思い返せばちっぽけだった生命の灯火は消えてしまったのだとWは察知した。津田沼店から抜けた三人が立ち上げた店。だから『こってりらーめん もいらい』、ギリシア神話の運命の三女神にその名を由来していた。
 この悔しさを右の拳に乗せて、満身の力を以ってソゥの顔面に振り下ろしたい。そして、この悲しさを左の拳に乗せて、全霊の気を以ってソゥの下顎を殴り上げたい。
 だが、何が悔しい。店の喪失感か。何が悲しい。一個人の無力さか。
 Wは漆黒の軍装に身を包み、その上着の衣嚢に突っ込んだ両手の革手袋を軋ませて、拳を握り締めた。
 何が悔しい。事変後五十年の空気か。何が悲しい。平時に非常時の訓練をする空気か。
 部下の思いがけない所で激昂し、鉄拳制裁いや鉄拳遊戯のような暴力が日常茶飯事のWにしては珍しい事なのだが——握り締めた手を緩め、暖簾をくぐろうとしていたソゥの肩を引き留める。
「粉は落とさず、そのままだ。」目的地はここでは無い、少し歩くぞと告げて、西船橋まで国道14号をずんずんと進む。
「あぁ、かいばらですか。自分、ねぎチャーシュー麺いいですか。」
「おう、俺は大盛りもやしWだ。」
「大尉が野菜食べるのそこだけですもんね。」
一月二十八日水曜日。降り出した雪が、今は救いだった。

この記事は、Day to Dayの理念に共感し、執筆しました。
本編は、我々バンドのブログ内、虚飾性無完全飯罪をご覧ください。
バンド楽曲なんかもヨロシク。


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