芸と技と発想の世界

年末のM-1GPで、優勝したマヂカルラブリーについて「あれは漫才じゃない」という声が出ている。

主張している人からすると、前年のミルクボーイのほうが”漫才”だそうだ。

漫才かそうでないかというのはお笑いフォーマットの定義として興味深いが、それよりも 、

1. 何であれで笑ったんだろう(個人的には一番笑った)

2. あの笑いと前年のミルクボーイの笑いは明らかに種類が違う。それは何か?

という疑問が出てきた。

例えば、「人志松本のすべらない話」は、”話芸”一本で笑いを引き起こす。

ウーマンラッシュアワーの村本は、話の内容はほとんど記憶に無くて、あの”噛んだら全てが台無し”という滑舌マシンガントークが笑いを起こす。

それらとは真逆で、アインシュタインの稲田は、その存在自体から笑いが生まれる。

漫才も、「ネタが重要だ」と言われるが、例えば同じネタ(ミルクボーイの漫才)を自分が友達と完コピ(台詞を完璧というレベルで)したとしても、同じ笑いを引き起こすとは思えない。

すべらない話でも、人のネタを他の芸人が話すと笑いになるのかという試みをしているが、ちゃんと笑いとして成立している。

ということは、笑いとは"ネタ(発想)"だけではない何か別の要素もあるんだろうなと。

それを仮に”技”として、稲ちゃんのあのインパクトを”芸”とするのであれば、笑いは、芸x技x発想(ネタ)で因数分解できるのではないかと考えてみた。

例えば、漫才の台本、つまりネタの部分を専門に書く漫才作家という職業があるそうで、若手、大御所の方々はその台本をもとに舞台で漫才を演じていることがある。ということは、その時は発想は他の人が考えたにせよ、それを笑いに変換する技x芸を披露しているということにならないか?

このフォーマットでミルクボーイのネタを因数分解して、何故あれだけ笑ったのかを分析してみる。

発想: 否定と肯定を狂気じみた回数と熱量で繰り返すネタ

技: ツッコミ、ボケともに滑舌がよく、抑揚とタイミングがぴったり

芸: ツッコミの関西おじさんの風体(ホクロまで完璧)とそれを邪魔しないボケ

過去の映像を見てみると、ミルクボーイは10年以上前から同じネタ(発想)をしていた。ただ、その時は見た目は大学生のあんちゃん(芸)で、ツッコミも「〜やねー」と今の「〜やないかっ!」と比べて切れ味が鈍い。つまり技が発展途上であった。

彼らは、ウケなかった時代から自分のネタ(発想)を貫き、それに技(タイミング、間、声量、滑舌)と芸(見た目、服装)が追いついたことで、あの日本全体を巻き込んだ掛け算の笑いを引き起こした。

ここまで考えて、マヂカルラブリーのネタも同じように分析しようと思ったが、はて、どんな内容だったか覚えていない。ということはネタ(発想)自体にはあまり情報が無いとも言える。となると、

発想: (あまり覚えていない)

芸: 見た目の風体はごくごく普通の若者

技: 舞台を転げ回るボケをツッコミがタイミング良く突っ込む

ということは、”技”が突出していたので笑いになったということになる。

見てみよう。

これを見て、そういえばつり革だったなと思い出した。それほどネタのことを忘れて"技"で笑っていたことがわかる。(ミルクボーイの場合は、"コーンフレーク"と"最中"はみんな覚えているはず)

ついでにおいでやすこがも見てみよう。

発想: 替え歌なのだが、正直あまり覚えていない

芸: たたずまいは明らかに芸人。ダブルメガネで分け目の方向も一緒

技: 歌のうまさもあるが、しばらく歌わせているときにツッコミが微動だにしていないのが、後のツッコミの爆発に効いている。タイミングも完璧。ついでに言うと歌の声量が大きいのにツッコミの声量が負けていないのも重要。しかもツッコミの声量もタイミングにより微妙に変えている。

つまり芸としてはマヂカルラブリーより勝っている(マヂカルラブリーはそこで勝負をしていない)のと、技がすごい。正直言うと、ピン芸人なのに何でこんなにツッコミがすごいのか意味不明だ。

となるともう一人の最終決戦進出者の見取り図にも触れなくてはいけない。

発想: 地域ネタを繰り出すオーソドックスなしゃべくり

芸: 二人ともジャケットで、ここでは勝負していない

技: 声量、タイミング、聞きやすさ(滑舌)も完璧。閻魔様と便座カバーを噛んだらそもそも笑いとして成立しない。

つまりマヂカルラブリーとおいでやすこがは、「訳わからんことを舞台で繰り出して”技”で笑ってもらう」のに対して、見取り図(または前年のミルクボーイ)は、「核となるネタの面白さを正確に伝えるために技を繰り出す」という方法論の違いが漫才の最高峰で激突したということになる。

これはあくまで想像だが、「漫才じゃない」と言っている人は、漫才とは「ネタ(発想)を芸と技で正確に伝えて笑いを起こす(二人で)」というものだと思っているような気がする。そういう人にとっては、ミルクボーイ、見取り図がものすごくしっくりきて、マヂカルラブリー、おいでやすこがは邪道(ネタないじゃん。技だけで笑わせるのはずるい)ということになる。

漫才の定義は人ぞれぞれだし、それを言うと、サンドウィッチマンの漫才も「あれはコントだ」と言う人も出てくるだろう。

伊達ちゃん「一番~するとき」

冨澤「間違いないね」

で始まった後は、コントと言っても良いぐらいだし、そのフォーマットを今でも貫いている。

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今まで漫才の話をしてきたが、そもそもコントも同じような因数分解ができないか?

例えば東京03

発想: よく練られた会話劇

芸: 角田のたたずまいは笑ってしまうが基本的には3人とも普通の人

技: 声量、間も含めて熟練の技

おそらくであるが、コントの場合は舞台装置含めた設定が大きな要素となっているため、最初の発想(ネタ、ストーリー)の要素が大きく、それを再現できる技が次に重要で、逆に芸が際立つと発想に制限がかかる仕組みなのかもしれない。まさしくコメディショートドラマ=コントという図式だ。

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この"発想"、"芸"、"技"という因数分解は、他の業界でも通用するのだろうか?

例えば歌の世界

発想: 曲と歌詞

技: 音程、声量など曲の世界観を伝えるための技量

芸: それらに区別されない個人の魅力(ストーリー)

と区別すると、宇多田ヒカルは、

発想: あの小室哲哉も脱帽した曲と歌詞。しかも本人が書いている。

技: これは専門家ではないのでわからないが、素人目で見ても物凄く上手い。

芸: これを若干14歳で、しかも母親が昭和の有名な歌手というのも魅力をプラスしていると思う。

これにプラスして、あの枯れたような声はトレーニング(技の習熟)で出せるものなのだろうか。それとも生まれ持ったものなのかはわからない。

と、1999年の我々が熱狂したのもうなずける。

ボイストレーナーの人の本を読んだことがあるが、歌の発声の理論はだいぶ確立しており、十分なトレーニングを積むと、基本的には素人コンテストを荒らすぐらいには皆上手くなるそうだ。

となると、ズブの素人でも努力すればプロの歌手になれるのかもしれないが、そこはそれ以外の要素(芸と発想)が必要となる。で、私の想像だが、歌の上手さはそこそこでも、見た目や性格、頭の回転の速さ、楽曲が良ければ、そのほうが売れる確率が高いということが業界知として認識されているのだと思われる。(もちろん例外はたくさんあるし、上記のように全てが高度に掛け合わされるとメガヒットとなる例はいくらでもある)

「この歌手、歌が上手くないのになんで売れているんだろう?」

「歌はものすごく上手いのになんで売れていないんだろう?」

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この、芸と技と発想の世界は、他のエンタメでも見られるのではないか?

演技の世界でも、キャラクターを憑依させ感情どおりに演技するメソッド演技法

と、それを「馬鹿げたもの」と否定するアンソニー・ホプキンス

などがあると聞いたことがあるが、その対立は、もしかしたら、

- 憑依することで湧き上がる自然なアイディアをもとめる(発想からのアプローチ)

- 台本に書いてあることを様々な技(マイム、間、目線などなど)で演じる(技からのアプローチ)

ということなのかもしれない。(ここらへんは素人なので想像です)

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いずれにしても年末のM-1GPはいろんな意味でエンタメについての自分の頭の中が整理できた。

個人的には、あれはものすごい技を繰り出した漫才です。

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