視えるか感じるのか良く分からない者に僕らは動かされている#3

#3 秋・誘い
 男は一人山道を歩いていた。夏も終わり、空気はすっかりと秋のそれに代わっていた。日も暮れかけた薄暗い山道をたった一人、何かに誘われるように歩いている。服装は軽装でハイキングや登山と言った感じは微塵もしない。どちらかと言えば都内のカフェにでも行きそうなラフな服装であった。男は歩く。カバン一つを持ち、布の帽子を目深に被り、微かに息を切らせながら山を登る。それほど標高の高い山ではないが、日の沈みかけた今頃を狙ってわざわざ登る人間もいない。整備された山道を登ると、そこは少し開けた場所に出る。昼間はハイキング客がシートを敷き弁当などを食べるのに丁度良い場所であろう。しかし、日の沈みかけたこの時間帯ではただただうす暗く、昼間の朗らかな雰囲気は微塵もない。
 男は広場の斜面に面した端の方に腰を下ろす。切れた息を整えながら、日が完全に落ちきるのを待っている。男の目は虚空を見つめ、自らの意思など感じられない。何か一つの事に囚われた様に放心している。それから大した時間も経たずに日は完全に沈んでしまった。男は、ゆっくりと立ち上がり、明かり一つない真っ暗な空間、その広場の中央に立つ。持ってきたバックから一つ【珠】を出す。手の平大の赤みがかった【珠】だ。占い師が使うような水晶の珠より少し小ぶり、うっすらと赤見の透けた奇麗な【珠】はまるで、紅葉したもみじを薄く溶かしたような不思議な色をしている。男はそれを自らの掌に載せ、言葉を発する。
「コツコツコツコツ聞こえてくる。遠い音かな近くかな。コツコツコツコツ聞こえてくる。虫の音舞う葉のすれる音。終わりの準備を始めよう。始めるために終わろうか‥‥」
静まり帰った山中に男の声だけが響く。叫ぶわけでもなく、囁く訳でもなく、男の声は山に浸透するように響く。男は言葉を続ける。
「終わりが来るから帰ろうか。ここまで来たから帰ろうか。」
 その言葉に何かが反応をする。男とは距離を取り、しかし、男を囲むように四つの影が現れる。夜の闇より深い影が男を囲むように存在する。男は繰り返す。
「コツコツコツコツ聞こえてくる。遠い音かな近くかな。コツコツコツコツ聞こえてくる。虫の音舞う葉のすれる音。終わりの準備を始めよう。始めるために終わろうか‥‥」
男の言葉に誘われるように、影は不思議な歩みで男に近づく。一歩進むと足を止め、今度は二歩進んでは足を止め、また、一歩進んでは足を止め、二歩進んでは足を止める。言葉に合わせるようにそうして歩き、近づいてくる。男は言葉を続ける。
「終わりが来るから帰ろうか、ここまで来たからやめようか。」
その男の言葉に応えるように四つの影は一斉に応える。男なのか、女なのか、近いのか遠いのか分からない不思議な声で。
【辞めるか行くかは決めはせぬ。辞めるか行くかは決めなさい。】
四つの影達は、問いの返答を待つように男の周りを廻りだす。一歩進んでは止まり、二歩進んではまた止まる。男は応える。
「進むのならば行きましょう。囲むのならば行きましょう。」
男の返答に四つの影達はまた一歩男に近づき、周りを廻る。
【行って戻りは出来はせん。行けば最期の宵の道。】
男は応えを繰り返す。
「進むのならば行きましょう。囲むのならば行きましょう。」
男がそう答える事を知っているかのように影達は一定のリズムでそれに答える。
【それならすぐに連れてこか。望むのならば連れてこか】
男は手に持った【珠】をゆっくりと掲げる。四つの影達はそれに吸い寄せられるように男を飲み込んでいく。男は一瞬我に返る。恐怖に顔が強張る。男は助けを求めるように虚空に手を伸ばす。その手は虚しく空を掻き、四つの影達は男を闇の中へと押し込んでいく。闇より深い闇の空間は、影達の消滅と共に元の山へと戻っていった。山はまた静寂に戻る。何事もなかったように。男が居たであろう場所には奇麗な【珠】が一つ落ちているだけであった。

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