見出し画像

北海道南西沖地震30年 奥尻島への旅

 北海道に住んで30年余り。道内をくまなく回ったつもりだったが、行ったことのない自治体が唯一あった。7月12日に北海道南西沖地震から30年を迎える奥尻島(奥尻町)だ。M7・8は、日本海側で発生した地震としては近代以降で最大規模。死者202人、行方不明者28人のほとんどが、奥尻島での被害だった。
 震災の記憶を改めて心に刻もうと、2年前に就航した北海道エアシステムの直行便で丘珠空港から向かった。


 札幌の街を一望できる丘珠便のフライト時間は実質40分ほどで、奥尻へはあっという間に到着。空港のある青苗は被害が最も大きかった地区で、海辺の市街地は6メートルかさ上げされたという。


 旅の拠点としたのは、青苗の素泊まり民宿「島じかん」。空港で出迎えてくれたオーナーの森田吉紀さんによると、奥尻では今も航空自衛隊分屯基地などの公共工事が多く、宿はどこも工事関係者でいっぱい。コロナ禍で中止となっていた6月のムーンライトマラソンも宿泊の受け入れができず、再開できなかったという。2カ月ほど前に電話した際、一部屋なら空きがあると言われ、即座に予約したのは幸運だった。
 宿は食事を出さない代わりに自炊設備がそろい、近くにはお店もある。荷物を置くと、まずは食堂で「イカ刺し定食」を味わい、島南端の「奥尻島津波館」に向かった。
 館内は入館者が僕を含めて2人しかおらず、職員の方からマンツーマンで当時の状況を伺うことができた。勉強不足で知らなかったが、青苗では西方からの津波が襲った後、さらに十数分して北海道本土から反射した第2波が襲来。港に停泊していた船が打ち上げられて出火し、民家のプロパンガスなどに引火して火の海に。ニュースでも見た光景だが、まさに焼け野原となった。


 「1983年の日本海中部地震では、秋田・青森以外に、青苗でも犠牲者が2人出ました。10年前の教訓から、住民も『地震が起きたらすぐ高台へ』という意識は持っていたのですが、津波が2度襲ってくるとは思いませんでした」。職員の言葉に実感がこもっていた。


 津波館の横には犠牲者を弔う「時空翔」が建立されている。7月12日に海に向かって正面に立つと、くぼみの中に夕日が落ちていく設計になっているという。犠牲者の碑には札幌や江別市の人名も。土砂崩れで埋まったホテルの宿泊客らという。
 あれから30年。阪神・淡路大震災に東日本大震災もあり、奥尻の記憶は薄れつつあるが、「大地震がいつ北海道で起きてもおかしくないんだ」と身につまされた。
 2日目は宿からマウンテンバイクを借りて島一周に挑戦した。東西11キロ、南北27キロ。礼文島より少し大きく、利尻島より少し小さな島は周回道路の全長が約65キロある。



 朝9時過ぎに青苗地区を出て、反時計回りに周回を目指す。まずは名所の「うにまるモニュメント」や「鍋釣岩」のあるフェリーターミナル方面へ。島内唯一のコンビニ「セイコーマート」で行動食を買い求めた。
 65キロの道のりは、電動アシストのない自転車だと、けっこうきつかった。特に北部はアップダウンが激しく、延々と自転車を押して歩く坂も。

午後2時ごろに島の西岸にある唯一の温泉「神威脇温泉」に到着。熱めの湯につかった後、北海道最西端の北追岬を通って青苗地区に戻ると午後6時近くになっていた。


 民宿では自転車のほかに、釣り具も無償で借り受けることができた。近くの釣具屋で購入した塩イソメを、青苗漁港のテトラポットの間に落とすと、ものの30分ほどで型の良いクロゾイやシマゾイが3匹釣れた。


 島ではグルメも満喫できた。オーナーおすすめの「北海寿司」では、地場産ウニの載った贅沢な海鮮丼も堪能。


 奥尻では養殖も行っており、漁期の前でも割と安価にウニを食べられるのだという。宿に戻り、釣り上げたソイも唐揚げにして味わった。
 奥尻−丘珠便は現在、毎週金曜と日曜に運行。週末に札幌へ行きたいという地元の要望により、就航につながったという。翌日は改めて青苗周辺を自転車で回った後、食堂でブランチを取ってからオーナの車で空港へ。震災を振り返るとともに、サイクリングに釣りも楽しめた、味わい深い旅となった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?