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最も面白いゲーム実況が愛を逸脱するパフォーマンスだとすれば、愛を持って実況している人ほど報われない


はじめに

今まで色んな面白さに理論を提唱してきた。
情報量だったり、雰囲気だったり、場面転換だったり。
今回は更に奥底へと進む過激かつ前代未聞な論調。
あまり真に受けずに『そういう考えがあるかもしれない』程度に捉え、現段階ではそれが正解だと自分自身も思っていない。

面白いの定義

大前提として面白いの定義を固めておく。
一般的にはキヨのような実況は普通の面白さに位置しており、それが悪い訳ではない。
人間の声ならではの実況かつ、人間の限界の面白さにある。
例えば、ハヤテの野望とキヨ、どちらが面白いのか?
私は『人間の声の時点でどちらも同じ面白さ』と確定づける。
それを超えうる実況、合成音声にしかない面白さが今回の肝。
合成音声にしかできない実況の前にはキヨ達では勝てない。
逆に言えば合成音声はキヨの真似を絶対にしてはいけないし、キヨが合成音声のマネをすることは不可能。
合成音声の方が面白いわけないって人向けの話は後でするとして、最上級の面白さを求めた理論が今回のテーマ。

面白いゲーム実況は、そのゲームの尊厳を貶めなければならない

「そのゲームである必要性を下げてオリジナリティを詰め込むほど面白くなり、一定の時点で『そのゲームである意味が説明できない状態』が面白さの頂点である。それはゲームの尊厳を著しく貶めている状態に他ならず、端的に愛は失われている。」

ゲーム実況はゲームへの愛を持って作られるにもかかわらず、面白さを追求した場合、愛とは真逆の動画制作を強いられる。
この矛盾が今回の最重要な部分。
愛が成す面白い実況はやり込み系とかRTAとかあるにはある。
問題は人間の声を超える最上級の面白さを求めた時に『ゲームだけの力には限界がある』ということ。
なぜなら人間の声は『面白さがゲーム次第』だから。
と言っても伝わらないと思うので事例を交えて伝える。

最上級に面白い事例

バグを利用してゲーム破壊

ゲームにはバグがある。中でもゲーム本編に影響及ぼすのはfalloutシリーズ、スカイリム、ファイナルソード、Kenshi、古い作品で行くとラチェクラまで。
実際にkenshiは街から出ずに色々なことをする方法がある。
それで目的を達成すること自体はゲームを知り尽くしている愛が為せる技なのは間違いないのだが、『バグ使うならkenshiで最初の街縛りじゃなくても、他にバグがあるゲームでも良くないか』と聞かれた時に愛はあるのに答えようがない。
究極のところ、kenshiしか知識の持ち合わせがなかったという切実な答え。
この時点でkenshiである必要性は当事者を除くとかなり下がっている。
そしてバグを任意タイミングで発動して物語に仕立て上げるというオリジナリティが隙間を埋める。
もちろん本人は愛しているし実際に愛がなければできないが、間接的にはゲームを貶めて愛を捨てている状態に酷似しすぎている。
実際にバグの横行がゲームを蔑ろにする行為というわけではなくて、バグがない状態の方がそのゲームである必要性を確かに担保している事実が重要。
ビークシングで四肢を齧られるのはKenshiにしか作れない動画。
でも動かずに目的を達成する動画は、ラチェクラでもセーブデータをバグらせてエンディング召喚することでも作れる。
しかし最上級の面白さはビークシングに齧られたりキャットロンを倒すことでは生み出せないとしたら、Kenshiである必要性を下げて蔑ろにする動画を作らない限り、Kenshiで面白い動画は二度と生み出せないということになる。

ゲーム情報を遮断して面白おかしく編集

合成音声の真骨頂はこれ、一番面白いフォーマット。
特に該当するのが酒桜。
この人のゼルダのブレワイを見て欲しいのだが内容は最終的に裸縛りで中ボス討伐に着地する。
そこでは当然、ブレワイのストーリーは最低限、防具のゲームバランスの言及もなし、バフアイテムも後半までなし。
しかしなぜか役に立つであろう武器の具体的な話もナイフ一つだけ、ギミック用のアイテムも使う映像が入手時に一度だけ。
このブレワイというゲームの情報は『わずかなストーリー』『戦うボスの見た目』『ギミック用アイテム数点』のみ。
残りは全て投稿者のオリジナル編集や劇場要素。
ブレワイストーリーがキャラセリフで少し補完されてギリギリ内容が伝わるようになるが最後まではない。
もしゲーム映像だけになったらこの動画はブレワイのストーリーすら伝えることができない。
実際にこの人が『ブレワイじゃなくてダクソで良いのでは?』と言われたら本当に何も答えれないと断言できる。
そのゲームである必要性は本当にない。いや好きなのは分かる。
さっきも言ったようにブレワイである必要性を下げてオリジナリティを詰め込んで最上級の面白さを実現しているが、その状態はゲームを貶めて愛とは逆の編集をしているようにも見えてくる。

合成音声が人間の声の上位互換である理由

単純に酒桜のような動画を人間の声で作れないという一点。
今回の理論で言うと愛をかなぐり捨てた先で伸び代がない。
必要性を下げれてもオリジナリティを詰め込めず、ゲーム以外の部分で面白さを追求できない。
リアルタイムはゲームに合わせて発言することしかできない。
レイマリゆかマキのようにボケとツッコミと編集でゲームに頼らず面白さを無尽蔵に継ぎ足しするような手段がない。
理論上はひたすら不利かつどんなに頭が良くてもゲームありき。
それがリアルタイム生声が合成音声の下位互換の理由。
それでも生声の方が面白いから、というのはその人の好みの話。
好みを考慮せず面白さを理論的に求めると合成音声の方ができる方法が多くて有利だよねって話でしかない。
その人間の声にはできない領域の面白さは現状、ゲームの尊厳を貶めなければ成立しないかもってところに繋がる。

簡単なまとめ

人間の声は全ての面白さがゲームの評価に左右される。
合成音声はゲームに左右されない次世代の面白さを秘めている。
次世代の面白いゲーム実況はそのゲームである必要性を下げてオリジナリティを優先するほど成り立つが、そのゲームの尊厳を貶めていて端的に愛はない。
最も面白いゲーム実況が愛を逸脱するパフォーマンスだとすれば、愛を持って実況を作っている人ほど報われないというジレンマ。
この理論はこの前提に風穴を開ける可能性が極めて高く危険な論調。

理論に対する個人の感想

勘違いしないで欲しいのだが、愛がないからクソだ、愛があるからクソだという話はしていない。
面白さを追求した場合に行き着く終着点は全て、本人の意思とは関係なく愛が失われていると形容できてしまう動画に着地してしまうのではないか。
というちょっと飛躍した話に過ぎない。
それと、あまりストーリーを映さないのも愛がある尊敬的な接し方という視点。
どちらかというとお節介ではあるのだが、ストーリーを丁重に纏める方が愛に溢れていると個人的に思っている。
逆説的にストーリーに配慮するのは愛がないという印象。

そこで愛の割合が増えていくとオリジナリティが減り『このゲームである意味』『この動画をあなたが作る意味』に切り替わる。

そしてどちらを重視すれば圧倒的に面白いのか、言うまでもないだろう。

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