脱成長資本論とアンチ脱成長論は共存する
斎藤幸平(さいとうこうへい)さんの著書「人新世の資本論」の脱成長論と
それを否定する柿埜真吾さんの、アンチ脱成長論は共存する。
柿埜真吾(かきのしんご)さん著書「自由と成長の経済学」という
現代の資本主義を肯定する本は、
違う視点から同じことを言っている可能性を感じています。
柿埜さんのアンチ脱成長論は、いわゆる資本主義の立場から
マルクスの社会主義的な安定供給型社会を否定して
経済の成長によって、社会は豊かになってきたし
これからも社会は常に発展し続けることによって豊かになっていく
という考え方で
斎藤幸平さんの人新世の資本論は、マルクス主義をもう一度再定義し直して
社会全体の豊かさを目指す考え方を提案している。
斎藤さんの言う脱成長とは、70年代〜90年代まで活発だった
アメリカ的な大量生産大量消費をどんどん永遠に増やし続ける
高度経済成長をし続けるという成長に限界を感じていて
これ以上大量にモノを生産し続けると地球の資源を使い果たしてしまう。
足るを知ることの豊かさを追求することの大切さや
人と人のコミュニケーションの豊かさ、サービス業や老人福祉、介護
医療などのホスピタリティなどで人と人が助け合うことで価値を創造する
社会にシフトすべきなのではないか。
生産性を追求し続けて大量生産大量消費の成長を終わらせて
もっと普遍的な幸福や、限りある地球の資源の中で幸福を追求しませんか
という考え方になっている。
人類は、他人を幸せにするサービスをすることでお金をどんどん稼ぐことによって目的がお金を稼ぐことになってしまっていて
お金を沢山稼ぐために地球を破壊するまで成長し続けるのではないか
ということを懸念している。
一方柿埜真吾さんの資本論は、
経済成長は、今ままで人類の暮らしを常に幸福にしてきたし
貧困層の人々に仕事を分け与えて、賃金を分配して、富を分配してきた。
この資本主義という方法論でしか、経済を成長させ自由になれない。
成長を止めるとか、成長という思想から降りるなんてあり得ない。
という考え方であるのだが
実は、どちらも同じようなことを言っていて
結局は、人類がもっと豊かになるための提案をしている。
生産性を重視しすぎた結果、石油をもっともっと燃やし続けて
もっともっと金融を回して経済を活性化させ続けてバブルを創り出し
資本を持っている資本家の資産をどんどん増やし続けて
貧困に喘ぐ貧しい人たちにクレジットで借金をさせて
未来や時間や信用や肉体や魂を略奪して金を生産するという
バランスを崩した資本主義に一度ブレーキをかけてみませんか?
方向転換をしませんか?という提案に違いない。
資本という権力は暴走して暴君になる。
暴君になった権力は首がないでぇだらぼっちみたいなもので
不安な心を埋めるために権力の暴走を止められなくなる。
お金の蛇口の開け閉めの担当を任された人間は、
そのお金を自分で稼いだわけでもないのに
お金をコントロール権力を持ったことで
自分に万能感を抱いてしまう。
自分の匙加減ひとつで莫大なお金をコントロールできるので
周囲の人がその人の機嫌取りをしたり、
また自分自身でもその感情をコントロールすることができなくなってくる。
最初は重大さがわかってはいても、些細なきっかけで倫理観が崩れると
砂で造られたダムのように少しずつ少しずつ崩れて
いつの間にか巨大な金額を不正に利用したり、
感覚が麻痺して正義のための裏金を製造し続けなければ成り立たない
会社や組織になってしまったりすることがある。
所詮人間が考えた概念の中の制度は完璧ではないし
それをコントロールしているのは不完全で弱い人間が
ハンドルを握って操作している。
気が狂うのは当然である。
当然であるが、正当化して、それを理由に
だから少々の犠牲はしょうがないよね。
となってしまうのはよろしくない。
だから、脱成長資本主義と、アンチ脱成長主義は
相互に支えあって一緒に機能しなければバランスが取れない。
ある部分では、脱成長させることで無用な大量生産大量消費を
止めなければいけないし、
またある部分では、新しい時代にマッチした次世代型の社会システムを
成長させなければいけない。
新しい社会システムはそれを機能させることで、
資本主義を機能させる必要性があって
そこにお金や知識や労働者も時間もどんどん投資しなければいけない。
そこに詐欺や不正や権力の暴君があってはいけない。
そのためには、過去式の資本主義の一部の破壊する必要性があって
その古い資本主義を破壊して止める脱成長させる部分が必要になる。
そして、新しい種に栄養を再分配して、
また新しい社会を成長させなければいけない。
そのために資本主義は機能する必要性がある。