いけない

 旅立つことに決めて、何はともあれ扉を探した。玄関、風呂場、トイレのドア、台所の戸棚、家の中に扉はないらしい。窓も扉にはなりえないようだ。抵抗なく開いた窓の先は変わったところのないベランダで、干しっぱなしのタオルか何かが夜風に湿っている。空中に扉はない。向かいの家の玄関はどうだろう。
 煙草の煙が揺れた。その先に目を向けた。小学校のプールがある。冬目前だというのに、満杯に水が溜まっている。そんなところにあるのだ、扉は。木々に沈み込んだ池や、星座に切り取られた夜の闇や、魚が切り裂く波間や、そこかしこに。飛び降りてみれば地上は容易に足を受け止めて、そのままフェンスを飛び越してプールサイドまで連れていった。暗いのでよく分からないが、きっと藻が生えているのだろう、塩素の匂いに混じって少し生臭い。吸いさしの煙草を水面に放ると、何の音もなく、小さな火がさらに小さく、小さく、ゆっくりと落ちていくのが見えた。やはり扉だ。一度身震いして、頭からプールに突っ込んだ。白と緑と子供のはしゃぎ声とが同時に現れて、すぐに消えた。
 水の中はやけに明るく、周囲のものがよく見えた。水中をただよう煙草を拾って、また口にくわえた。煙がクラゲのように踊った。手でかき分けて先へ進むと、透明な壁にぶつかった。壁の先はもっと明るい。探ってみると、隙間がある。指を入れる。開いた。
 身体が壁の向こうに引き込まれ、冷たい水が、乾いた熱風に変わる。空気の振動に肌が震え、鼻の奥が詰まった。干からびた大地の上では、白衣を着た男女があわただしく動いている。彼らは物陰に隠れようとしているが、殺風景な薄茶けた地には、同じような色をしたレンガと、ぽっかり口を開けた枯れ井戸しかない。一人の男がその井戸に両足を突っ込み、その後を女が追って、同じように両足を井戸の端にかけた。
 すると、男の背が女の足を押し、ずるりと女の体勢が崩れた。その小さな頭が井戸の脇に並べられたレンガの列に衝突し、そのまま後頭部がレンガに引っかかる。そこへ両足が井戸に半分落ち込んだ状態にあるために、身体はぐんと足の方へ引かれ、女の首は呆気なく千切れた。細い喉から現れた頚椎は、その白さ、その唐突さで、私の目に染みついた。居合わせた男女はその速足をいっそう速めて、女の身体をどかし、井戸の中に次々と消えていった。
 砂嵐が巻き起こり、彼らの様子は分からなくなった。政争か、軍隊か、彼らを脅かしているのは何だろう。私の身体も砂嵐にもみくちゃにされる。四肢が千切れ、関節から砂粒が噴き出す。目の前には皆殺しにされた彼らの身体が浮かび、口の中が忌々しくざらつく。砂嵐がいつか電車の走行音に変わって、私はプールサイドに横たわっていた。いいかげん煙草の火も消えている。寒くなってきた。帰ろう。
 死んだ女の目は空を見つめ、何か言いたげに口を開けている。その赤い舌にからみついた物語は、もはや誰にも聞こえない。

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