鬼子

 子供が産まれたと報せを受けて、急いで家に帰った。俥から飛び降りて玄関扉を開けるや否や女中が駆け出てきた。連れ立って奥へ行く。奥座敷の障子に手をかける。女中の顔は何か不安げである。障子をすらりと開ける。座敷の中央には布団がのべてあって、先週からそこに寝ていた妻が、今は起き上がっている。その腕に赤子を抱えていた。
「産まれたか。」
「ええここに。」
 妻の腕から赤子を受け取る。妻の顔も不安げである。常には葡萄酒のように美しい紅い顔が、くすんだ灰色に沈んでいる。私は赤子の様子に目を移した。
 赤子は腰から下に大人の片腕が生えていた。その腕も薬指の部分が中指に癒着し、中指が異様に太くなっている。上半身は普通のようだが、両手は小枝より細い。赤子自身はその十指をペコペコと不気味に曲げ伸ばしして、キャッキャと笑っている。私は頭の先から血が一遍に下がっていくのを感じた。赤子は可愛らしい顔で私の頬に吸いついて、またキャッキャと笑った。
「鬼の身体ではないな。」
「ええ。人魚のようです。」
 私は赤子の白い頭髪を掻き分けてみた。翡翠色の小さな角が二つ、ぽっつり生えていた。
「角はあるな。」
「ええ。ですから……」
 妻は頬に手を当てて首を振った。黒髪の間から白銀の細い角が現れた。
「……取り換え子の類ではなくて、奇形児と言うしかないのです。」
「奇形児なものがあるか。」
 私は思わず声を荒らげた。驚いたらしい女中の喉からキュッと音が漏れた。
「私とお前の子だ。奇形児であるはずがない。医者に見せれば、すぐにも治る。」
「そうでしょうか。」
「そうとも。」

 医者はぐるんと首を振って、ため息をついた。
「これは手術のしようがございませんな。生殖器と魚腕とが融合してしまっとりますでな。切ろうとすれば死に至りますで……」
「そんな。」
 妻が悲痛な声をあげた。
「それでは、頭は鬼、腰から下は人魚ということになるのですか。」
「そういうことになりましょうな。」
 医者はつんと澄ました顔で、赤子と、私と、妻とをぐるぐると見回した。背中に背負った翼からピンと一本羽根を抜いて、ぷつぷつと毛をむしり、紙にその粉末を落とした。さらさらと黒い粉が微小な山をつくった。
「濡らした布に、この粉末をいくらか振りかけて、赤子の腰から下を包んでおやんなさい。生まれてすぐですから、治りはしなくとも、歩けるようにはなるかもしれませんでな。では、お大事に。」
 医者は女中から帽子を受け取ると、ちょっと礼をして飛び去った。曇天を遠ざかる大烏の影に被せて、赤子がれうれうと泣き出した。泣き声だけはまったく鬼の子らしいものである。妻が乳をやりながら、「よしよし、いい子、いい子ね……」と呟くように赤子に話しかけている。それが自分に言い聞かしているようで、私は心中苦しかった。

 医者の粉末はひと月ほどで使い果たした。赤子はこの粉末をもみ込んだ布が心底不快らしく、女中が布を取り換えようと抱き上げるたびに、力いっぱいもがいて逃げ出そうとする。目を固く閉じて全身をくねらせるその仕草はいかにも魚のようで、見ている側もあまりいい心地はしなかった。一度、何がそんなに嫌なのかと布を手に取ってみた。すると布があまり熱いので、私は驚いてしまった。あとで分かったことだが、この粉末は水に触れることで熱を持つ性質があるらしい。
 さて、それで赤子の足はどうなったかというと、実は何の変化も無かった。人魚と同じ、泳ぐに適した魚腕のままである。このまま同じ医師に頼んで、同じ薬を使うべきか、私たち夫婦には判断がつきかねた。赤子自身が嫌がる薬を、親として使わせたくない心もあった。
「散歩も兼ねて、人魚に相談しに行きましょうか。何か良い知恵を持っているかもしれませんよ。」
 妻がそう言うので、私と妻は赤子を連れて、人魚の沼までぽとぽと歩いた。今日はあの嫌な布を巻かれなかったので、赤子は機嫌よくふんふんと鼻を鳴らして、妻の腕に抱かれている。
 人魚の沼は山の中腹にあって、常にもやもやと霧に包まれている。これは頭上を行き過ぎる雲を、沼の主が吸い込んでしまうためである。沼の主が何者であるのか、私は知らない。しかし沼の主によって一帯が湿地となり、人魚の住むのにちょうど良い環境が出来たことは確からしい。
 今もその湿地の上に、何人かの人魚が車座に寝転がって、仲良く水煙草をふかしていた。そのうちの一人が私たちに気づき、水煙草を摘まんだ魚腕を気怠く揺らした。
「やあ、とうとう産まれたか。おめでとう。」
「ありがとうよ。しかしこの子のことで相談があるんだ……」
 きらきらと輝く金の鱗で装飾されたガラス瓶と、そこから伸びる群青色の水煙草の管と、人魚たちが咥えている金の吸い口とを順々に眺めやりながら、私はひと通りの説明をした。人魚たちは興味深そうに赤子を見るものや、目を閉じて眠り込んでいるものや、空を見上げて「雷でも落ちたかな。」と呟くものや、様々である。もともと人魚というのは気まぐれな生き物だから、仕方のないことだ。赤子の方では、人魚はもとより、水煙草のガラス瓶にも興味の無い様子で、妻の肩に頬をすりつけている。
「それでここまで登って来たのか。ご苦労なこったね。」
「どうだろう。何か良い知恵はあるかい。」
 なかの一人が吸い口を離して、「ひとつあるよ。」と言った。
「その子を沼で泳がしてみればいいんだ。人魚の子なら、産まれてすぐに泳ぎ始めるからね。」

 しかし赤子は泳げなかった。私は最初、赤子を横倒しに沼へ入れた。赤子はきょろりと目をむいただけで、抵抗はしなかったが、そのままごぼごぼと沈んでしまった。先に沼の中で待っていた人魚たちがいなければ、あやうく溺れ死ぬところだった。やっとのことで沼から這い出てきた赤子は、もうそれ以上水に触ろうとしなかった。それどころか沼に近づけようとしただけで嫌がり、ほとんど力の入らない両腕で妻にむしゃぶりついてれうれうと泣いた。どうしようもなかった。
「これでよく分かった。この子は人魚ではないね。泳げないし、水の中で息もできない。それに何より、腕がある。」
 その逞しい魚腕で赤子を掬い上げた人魚の一人が、そう言った。そのつるりとした、突起さえない肩から水が流れ落ちた。
「しかし、この子の腕は普通よりずっと細いんだよ。無いものと同じだと思うんだが。」
「お前だって、人魚には腕が無いものと知っているだろう。泳ぐときの障りになるからね。水に馴染まない、腕がある、これは人魚ではないよ。他を当たってくれ。」
 私たちはすごすご帰っていくしかなかった。
「やっぱり、この子はただの奇形なんでしょうかねえ……」
「いや、奇形ではあるまい……」

 本当のところを言えば、私が赤子を奇形と認めないのは、ただ私の体面のためだった。長年勤めた会社の同僚に、人魚に似た子供が産まれたと話すのは、己の不能を示すかのように思えた。じっさい、妻と人魚の誰かとの間に不義があったとすれば、赤子の奇形にも納得できた。少しつくりの荒い合いの子というわけである。しかしそうでもないらしい。
 依然として奇形の原因も、また治療の展望も不明のままである。ただ、私は、自分の子供が奇形であるとは認めたくなかった。

 それからしばらくの間、私たちは赤子の様子を見守ることにした。普通の鬼の子として育てれば、そのうち何か変わってくるのではないかと思われたのだ。他の家の子供との違いは、案外すぐに現れた。言葉を発し始めるのが非常に早く、また複雑な思考にも長けて、一年が経つと立派に口の立つ少年になった。よく小生意気な受け答えをするので、来客の前に座らせておくと大変可愛がられた。普通の鬼の子ならばまだ砂糖菓子に執着している歳で、この子供は議論に病みつきだった。私たち夫婦もそれが自慢だった。
 赤子はすんなり成長して、普通の子供と同じように、一歳半の時には直立すれば箪笥の天板に手が届いた。しかしその腕はいつまでも小枝のように細く、ほとんど筋肉がつかなかった。箸を握ることもできかねた。足も、人魚の魚腕のままだったので、ひとりで移動しなければならない時は這うか跳ねるか、普段は妻か私が抱いて移動させた。苦労がないとは言えなかった。
 鬼の子は二歳から学校に通う。二歳になった彼は、もう私が抱いて歩くにも重すぎた。学校まで連れてゆくのは難儀だったが、妻はぜひ勉強をさせるべきだと言ってきかない。「この子は頭のいい子ですよ。学校に行って、良い先生と友達に出会えば、きっと素晴らしい成長を遂げますよ。」あまり頑固に言い募るので、私も折れた。それから毎朝毎晩手押し車に彼を乗せて、学校と家との間をがらがら運んでいったのである。
 ある夏の朝、私が陽に照らされる吾子の白髪と、その隙間からのぞく翡翠色の角を見つめながら、手押し車を押していると、その白髪がぐるりとこちらを向いた。若々しい緑の眼が楽しげな微笑を含んでいる。
「お父さん、お父さん、聞いて下さいよ。」
「何だい。」
「先生が言うには、僕たちの生きているこの世界は、ただ僕たちひとりひとりの夢の中にすぎないのだそうですよ。実は僕たちは眠っていて、めいめい勝手な夢を見ていて、それを世界の全てだと思っている。もしそれが本当だったら、僕、一回だけでも夢からさめてみたいな。それで、他の奴の夢に潜り込んで、これは夢なんだぞって言ってからかってやりたいんです。楽しいと思うんですよ。どう思いますか。」
「そりゃあ、楽しいだろうね。」
 その話はそれっきりで終わったが、同じ日の晩に、私は妙な夢を見た。夢の中には息子が出てきた。彼は手足を思いきり伸ばして、私のもとへ駆け寄ってきた。彼の腕には青年の力がこもって、二本の足はぐっと踏ん張って、私を軽々と抱え上げたのである。息子はその葡萄酒色の頬に美しい白髪を揺らして、私ににっこりと笑いかけ、こう言った。
「お父さん、おはようございます。長く眠っておいででしたね!」
 緑の瞳が夏草のように異様に輝いた。

 どちらが夢で、どちらが現実か。息子を乗せた手押し車をがらがら動かしながら、私は時々考えるようになった。すでに短い夏は終わり、再び曇天の畦道を歩いている。夏には半透明に輝いた息子の白髪は、今や絹のように滑らかな光をたたえている。息子の穏やかな声が私の灰色の髪をくすぐる。
「お父さん、最近よく考えこんでいるみたいですね。どうしたんですか。」
「いや、大したことは無いんだよ。」
 そうは言ったが、私が上の空であることはすぐに悟られてしまう。
「あなたは僕が普通の子供として、あなたと並んで歩いている世界を、夢だと思って、そうして現実になってほしいと願っているんでしょう。」
「じっさい、夢だろう、そんなこと……」
「ええ、夢です。だからあなたは願うんですよ……」
 息子の口がニヤリと歪んで、鋭い歯がちらついた。そして言った。

 奇形児であるはずがない!

 私は自分の声に驚いて目を覚ました。畳に手をついて起き上がると、そばに妻が座っていて、驚いた顔でこちらを見ていた。その指先が震えている。
「あいつは?」
「つい先ほど、研究所の方が……連れて行って……」
 私はその後を聞かずに、家を飛び出した。
 藪の中をがさがさと掻き分けて走りながら、先月のことを思い出していた。

 それは学校と家との往復が二年目に入った夏のことである。学校長の案内状を持って、一人の男が家を訪ねてきた。ある研究所の者だと名乗り、息子に用があると言った。
「息子さんはじつに頭がよろしい。もう親御さんの知恵を凌ぐほどだとか……。しかし、聞くところによるとお身体に不自由があるそうですね。ちょっとお会いして、お話したいことがあるのですが。」
 そう言って頼むのである。ちょうど息子が家にいたので、会わせてみると、「ふうむ。」と唸って、息子の身体を子細に眺めまわし始めた。おかしな奴だと思ったが、それから息子に質問をし始めた時には、もっとおかしな奴だと思った。内容は学校で習う知識から煙草の吸い方まで、様々であった。息子も折々答えに困った顔をしていた。しかし最後の質問には、語気を強めて答えた。
「それでは、ご自分を何者と、つまり誰を祖先とするものと思っておりますか。」
「僕は、僕自身を鬼から産まれた鬼の子と思っています。身体はこんなですが、心は鬼の子供です。他に答えようはありません。」
 それで男の質問は終わった。男は「いや、本当に賢い方で……」と言いながら汗を拭いた。それから本題に入った。
 それは、息子を男の所属する研究所に送って、そこで息子の知能を調査したいという話だった。「もちろん、息子さんのお身体は特殊なものですので、そちらの調査も我々の方でしてみたいのです。我々は知能と身体の関係を研究しておりますので……」その口ぶりからして、息子の豊かな知恵よりもむしろ、その特異な身体の方に最も用があるものと見えた。
「一年間の契約で、どうでしょう。」
「僕は行ってもいいですよ。」
 あっさりと息子がうなずいた。
「そんな。」
 妻が悲しげな声をあげた。彼女にとって、息子と離れることは最大の痛みを伴うらしかった。
「僕はこの歳まで、この身体でいながら学校に通わしてもらうことができました。僕の知恵と、僕の身体とを誰かのために捧げることこそ、僕が出来る最大の孝行でしょう。」
 息子の透き通った緑の瞳が私たちを順繰りに見つめた。唇を噛んで、妻がうなずいた。なるほど本人が許すのであれば、親とてもそれを許可しない道理は無い。それで、私も承諾した。引き取りは来月、つまり今日の午後だった。決心して息子を見送った妻と反対に、私は何か不貞腐れた気持ちで、奥の座敷に寝転んでいた……。
 私も内心、あまり乗り気ではなかったのだ。しかしそれには妻とは違う理由がある。息子を研究対象に認めることは、息子の特異性を認めることである。息子が奇形児だと認めることである。もはや会社にも息子の奇形のことは知れており、特に忌避されることもなかったのだが、私自身には未だに奇形児たる息子への忌避がわだかまっていた。息子は奇形児ではない。主張しなければならない理由もすでに無いのに、私はそう思い続けているのだった。

「待ってください!」
 とうとう藪を抜けた先で、研究所の男と、彼の押す手押し車に乗った息子の姿を見つけて、私は声をあげた。息子が先に振り向いた。
「息子を……息子を研究所へはお預けしないことにしました!」
 叫んだはずみで膝から力が抜け落ちて、ついそこへうずくまってしまった。男が驚いた顔をして、手押し車と一緒にこちらへ戻ってきた。
「どうしてです、そんなに急に……」
「どうしたもこうしたも、息子を返してもらいに来たのです。息子は奇形児ではありません。研究対象になどなりません。返してください……」
 息子が緑の眼を見開いた。私はその瞳になだめられた気がして、大きく息を吸って吐いた。男が苛立った口調で話し始めた。
「息子さんが研究対象になるかどうかは、我々が決めることです。それに、彼の身体が少々特殊で、研究に値することは、彼自身がよく分かっているでしょう。息子さんは奇形児です。それも非常に優秀な奇形児ですよ。だから、普通の奇形の子供以上に優遇して、最高の研究に向かわせたいのです。彼自身のためにも、万人のためにも……」
「奇形児ではないと言っているのです。」
 私はいくらか落ち着いて、男をまっすぐ見てそう言った。
「奇形だと言っても、息子の奇形は身体だけです。かたちだけの問題です。頭の方は、そう、あなたも仰る通りの天才的な頭脳だ。からだの奇形を研究して何になると言うのです。知識をあるだけ絞り出させて、最後は解剖して標本にするのでしょう……ええきっとそうだ。研究の名のもとに、先のある若者を解剖台に載せるんだ。そもそも知能と身体のかたちとの間には、何の関係も無いでしょう。私のように普通の身体でいながら、そうでない息子より頭で劣る者はたくさんいます。両方が普通の身体でも、そういった頭の違いはあるものです。そうでしょう……。息子とあなたと、どちらが本当の奇形ですか。あなたの方が、精神の奇形に犯されてしまっているのじゃありませんか……ああ、私も、そうだ。私も精神の奇形に歪められてしまっていたんです。息子が奇形児ではないと信じたかった。じっさい確かにそうなんです。息子は奇形ではない。本当に奇形だったのは、息子の見た目に気を取られて、彼の気高い精神に気づけなかった私や、あなたのような者の心なのです。息子は他人のために自らの知恵と肉体を捧げようとしている。その姿勢は我々よりずっと美しい、ずっと素晴らしいものではありませんか。彼は普通の子供です。私の子供です。研究され尽くしてとうとう殺されてしまうために生きているのではないのです……」
 そう言って、私は息子の瞳をじっと見つめた。奇形という言葉は、肉体の異常を指すのではない。精神の歪み、愚者の心のかたちを指すものなんだ……。私の心が聞こえたように、息子がぐっとうなずいて、男の方を振り仰いだ。
「僕は父の言うことに従いたいと思います。すみませんが、あなた一人で帰ってください。」
 どこかで小鳥が高く鳴いた。

 息子が乗った手押し車をがらがらと押して、私は家に帰った。息子のつやつやした白髪と、翡翠色の角が、いつにも増していとしく見えた。玄関前に手押し車をとめると、息子は自分ひとりでひらりと車から出て、地面に降り立った。そして私の肩に手をかけた。
「お前、立てるようになったのか。」
 私がそう言うと、息子はにっこり笑った。
「僕だって、鬼の子ですから。」

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