冬虫夏草

 約束の一週間のうち、二日が経ったと思われる。腹が減った回数を数えているので定かではない。昨日と一昨日であるだけの本を読んでしまったので、今日からは日記を書いて暮らすことにする。今日は、ことの発端から書き始めよう。約束の後で私が死んでも、この日記を誰かが翻訳して世界に広めてくれることを願う。
 私のもとに彼が現れたのは突然のことだった。重大事はいつも突然起こるものだ。男は私に、これから一週間、カーテンを開けてもならないし、電気やガスや、そのほか外に生活をほのめかせるものは一切動かさないようにと伝えた。どうしてそうしなければならないのか、男は教えてくれなかったが、私の手を握りしめた力はとてつもない重さと強さを伴って、私に了承以外の選択を与えなかった。男は一週間ぶんの食料をすでに用意しており、そのほか男の願い、のち私の願いにもなるのだが、それを実現するためのあらゆる道具を揃えた。どうしてここまでして一週間も閉じこもっていなければならないのか、やはり教えてはもらえなかった。彼の体臭は不安定に匂った。
 それから一週間が始まった。私の世界は驚くべき速さで狭まった。手さぐりに本を読み、家じゅうを散歩することだけが楽しみになった。もとより手軽に済ませていた食事はさらに簡単なものになったが、ほとんど動かないのだからそれだけでよかった。窓ガラスの冷たさが季節外れの寒さを知らせてくれた。今触れても、凍えるほど冷たい。今は五月ではなかったか? 三日目の記録。

 三回食事を取った。四日目だ。窓ガラスの冷たさが和らいできた気がする。代わりに、ゆらゆらと家全体が揺らいでいるような、妙な感覚がある。健康上の問題ではないはずだ。確かに揺れている。外の匂いはこちらには漏れてこない。男が去る前に換気扇や通気口の類を塞いでしまったからだ。現在の生活には困らないが、こうも外界を隠されてしまうと気になって仕方がない。今、頭に木片のようなものが落ちてきた気がする。揺れはひどくなっている。誰かが外からこの家を揺らしてでもいるかのようだ。何も聞こえないから不安が余計に強くなる。せめて家が壊れる心配はないと思いたい。タイプライターを一字一字叩いていくにも、紙を取り換えるにも、普段以上の注意を要する。
 折々冷蔵庫を開けては、電気が止まっている上に何も入っていないから全く無意味なのだと思い出して、すごすご居間に戻っていくのを繰り返している。腹も減っていないのに、習慣でそうしてしまうのだ。考えてみると、運動しないのだから腹も空かない、腹が空かないからものを食べない。今のところ男に与えられた一食分を三回に分けてとっている(男は普通の成人男性がとる食事の量を用意していた)が、この生活で三度三度腹が減るとは考えられない。そうするとすでに一週間の約束は終わっているのではないか? どちらにしろこの揺れがおさまるまでは外には出ない方がいいだろう。
 私の頭上にきらきらした妖精がいて、我が家に閉じ込められた私を憐れんで、あるいは嘲って、魔法に満ちた鱗粉を散らしているとか、聞こえない声で私の耳元に囁きかけているとか、この揺れはそのせいではないかとも思われてきた。私は魔術師の男に騙された馬鹿な男で、今は我が家と思っているこの空間は実は大型トラックの荷台の中で、一週間ののち外に出てみればそこは馴れた街ではなく深い森の奥の奥で、身ぐるみ剥がれた私はそのまま倒れて死んでしまうのだ、私の財産を抱えて笑う男の姿を知ることもできずに。うす暗い中にじっとしていると、いつもならすぐに振り払える夢見がちな悲劇も不要なほどのリアリティをもって感じられる。そうではないと誰が言える? 私以外の人間はここにいないというのに。また大きく揺れた。

 ようやく家に帰って来たはいいが、これから私はどうすればいいのか?
 まず、揺れは寝ている間にようやくおさまった。家の中がどうなっているか詳しくは分からない。しかしどこかに穴が開いていたら、男との約束を破ってしまうことになる。触って分かるところは問題ないようだった。すると外の様子が気になった。もうすっかり安全だと言わんばかりの平穏である。さすがにもう一週間経っただろうと思い、久しぶりに靴を履いて外に出た。
 ドアを開けた途端に、鋭い光が刺した。頬を冷たい風が撫でた。今は五月だというのに。外を歩いてみると、足元が凍りついている。周囲を歩く人の気配は全くない。それどころか、近くの公園に入っても、湿った地面を踏む感触があるばかりで、子どものいる様子が無い。公園と家を往復する間に三回ほど何かにつまずいた。柔らかいもの、ごつごつしたもの、触ってみると針金の塊かと思われるものも落ちていた。今までこんなことはなかった。太陽も出ているはずなのに容赦なく体が冷えていった。その時着ていたものといえば薄いシャツだけだった。震えながらなんとか家に帰りついて、今タイプライターを叩いている。何が起きたのだろう? 私が感じていた揺れは、屋根に積もった雪か何かがなだれ落ちる振動だったのか? それだけではないはずだ。
 世界は終わったのだろうか? あの男は神で、私以外の人間を残らず裁いて天国と地獄に振り分けるまで、私に閉じこもっていろと言ったのか? なぜそんなことを。私が目も耳もきかないから、神は私を見捨てたのか? 私は滅びた世界で、雪の中に閉じ込められて死ぬように仕向けられていたのか? 一週間の猶予は神の慈悲だった……?
 恐ろしくなって余った食料をかき集めた。普通に食べても丸々四日分はある。今までの消費速度から言えば二週間はもつ。逆に言えば男の言った一週間は、おそらく経過しているのだ。これからどうすればいいだろう。とりあえず冬服を引っ張り出した。屋内は完全に断熱されていて、寒風の入る隙も無いが、ずっと家にいるわけにもいかない。そのうち食料が尽きるだろうし、他の生存者を探しに行くにも、この寒さでは厚手のコートが必要だ。

 タイプライターを叩くのは外出から戻った後になるから、記憶が前後して、上手く時系列順に記録できないかもしれない。
 今日も寒かった。北風が吹いているわけではなく、ただしんしんと冷たい空気が満ちていた。家を出て、まず南に向かった。住宅街の方だ。開いた踏切の傍でしばらく立ち止まり、電車が来るかと期待していたが、二十分経っても踏切は下りなかった。仕方なく線路を渡った。杖から伝わるアスファルトの地面は、普段よりも亀裂が増えていて、実際に何度かつまずいた。
 道のど真ん中に車が止まっていた。触れた限りでは、こちら側が正面のようで、それならば運転手が怒って向かってくるのではないかと身構えたが、そのような気配は少しもない。運転席側の窓を叩いてみようと手を伸ばすと、すんなりと車内に手が入ってしまった。窓が下りていたらしい。触れたものは冷たく固かったから、最初は座席だと思った。人間だった。両手で撫でまわしてみると、目と口を大きく開いて凍りついているようだった。両腕は無かった。座席だと思ったのはそのためだ。切り口も凍っているからよく分からないが、肩から下は何も無かった。
 恐ろしくはあったが、ここで家に引き返しては何にもならない。車を離れ、少し歩いて、横断歩道の前まで来た。そこで、やっと、私一人では道を渡れないことに気がついた。いつもならヘルパーがいて、信号が変わったとか車が来ているとか、教えてくれるのだ。自分にヘルパーがいたということをすっかり忘れていた。こんなにも日常的なことを忘れるものだろうか。いつ車にはねられてもいいように、覚悟して渡った。
 どうやら車は全く走っていないようで、その後も道路を三つ渡ったが、車にぶつかることはなかった。五体満足でスーパーに着いた。自動ドアは開きっぱなしになっていた。中も寒かった。棚の電灯に手を伸ばしても熱くはなく、店員が駆け寄ってくることもなかった。店員も電気も働いていないようだ。それでも冷凍食品のケースの中は外の冷気でしっかり凍っていて、三つ四つ取った。自動ドアの両隣を探ってみると何か落ちていたから、植木鉢でなければ店員かもしれない。寒さに侵されてどうでもよくなっていた。亀裂と物体とに足をとられながら、家に帰った。
 電気が働いていないと書いたが、思い出してみれば私の家も電気が止まっているのだった。当の男の手で止められたのだ。持ち帰った冷凍食品をどうやって調理しよう。ウインナーや缶詰を取ってくればよかった。そのまま食える。しかし肉売り場はともかく、缶詰売り場は目立つところにないから、探すには時間がかかりそうだ。
 冷凍食品を置いておこうとベランダに出た。何か落ちている。人間かと思ったが、触ってみたら片足しかなかった。太腿の中ほどで千切れている。食品の横に置いておくわけにはいかないから、隅の方に移動させた。まだ血の匂いが手に残っている。

 ここ数日と比べたら急に長いこと運動したので、いささか足が疲れている。

 人に会った。人のはずだ。握手だけして別れてしまった。十二時過ぎに、今度は北に向けて出発した。北には住宅街ではなく、田んぼと畑が広がっている。凍りついた世界でも、草の匂いはほのかに残っていた。寒さで枯れてしまっているのかもしれない。用水路の水かさを調べてみた。杖をゆっくり降ろしてみたが、どうも水らしい感触に行き当たらない。魚などはいないのだろうか。
 立ち上がって、しばらく歩き、右に曲がると、そこが畑だったらしく、そのまま転がり落ちてしまった。周りの状況がまるで分からない時に足元を掬われる恐怖といったら、例えようがない。尻が地面に着いたあとも、しばらく動けなかった。杖で探った限りでは、道が続いているはずだった。杖を使い始めて十数年、畑があることに気づかないはずがない。すると誰かに肩を叩かれた。軽く、様子を見るような触れ方だったので、悪い人間ではなさそうだと思った。それで返事をした。相手はいきなり私の手を取って、上下に振った。しばらくそうしていたので、何か話していたのかもしれない。腕が止まったところで、私には声が聞こえないことを伝えた。相手の顔を見られたらよかった。せっかく出会えた生き残りなのだ。相手も私のように、何らかの重荷を背負っているのかもしれない。できることなら分かり合いたかった。そのように伝えた。
 相手は私の手を離し、また肩を軽く叩いて、どこかへ行ってしまった。私の右肩のすぐ横を通っていったようで、一瞬青い匂いがした。まさしく五月の草いきれのような、かすかに汗ばむほど眩しい太陽の熱のような、初夏の匂いだった。

 この寒い中で初夏の匂いとは、やはりおかしい。昨日書いた部分を読んで考えていた。どこかで陽に暖まっていたのだろうか? 
 今日は、寝ている間に雨が降っていたようで、外の冷えはいっそう深まっていた。水たまりに気をつけて歩いたが、防ぎきれないものはある。すっかり足を濡らしてしまった。こういう時、親指が特に冷えるのはなぜだろう。そのまま昨日の畑あたりまで行ってみたが、昨日の誰かには会えなかった。おそるおそる傍の畑に立ち入ってもみたが、手足が濡れただけだった。
 いいかげん温かいものを食べたいものだ。熱をつくるためだけに、ここ二、三日眠る時間が長くなっている気がする。そういえば、この部屋にある時計が止まってしまったら、私はどこで時間を知ればいいのだろう。時のない部屋でじっとしているのは嫌だ。電池か、時計を探してこなければ。いや、まだ先のことか。
 揺れたか? 腹の底に響いた。地震の揺れではない。雷かもしれない。光も音も感じられないが、私が分かるのだから相当大きな雷鳴だったはずだ。もしかしたら朝からずっと鳴っていたのかもしれない。

 カッパと長靴を着込んでからまた外出してきた。手を伸ばしたあれもこれも皆濡れて冷えている。凍りついていたあの車の中の人はどうしているかと思い、行ってみた。やはり凍っていた。雨が降るなら、凍結するほどの寒さではないはずだが。そうだ、雨が降って寒く感じるのだから、今までも凍結するほどの寒さではなかったはずだ。おかしい。
 車を点検して帰る道で、雨が降り出した。最初はポツンと肩に雨粒が落ちてきただけだったが、二、三歩行ったらもうどしゃ降りになった。バラバラと明らかに冬の雨が、固い雨粒が降りそそいだ。雷も二度、腹の底に落ちた。すっかり冷えてしまった。
 背筋の寒気を、布団をかぶってやりすごす。冷凍食品も保存食も、食べても暖まらないのだから、食べなくていい。何も分からないまま、ここで死んでもいいかもしれない。
 謎
 寒さ
 凍った人
 千切れた手足
 五月の生存者
 冬の雨
 あの男
 生き残らされた私

 今日も雨が降っている。少しだけ様子を見てすぐに引っ込んだが、すぐにやむ気配はない。暇を使って、色々考えてみようと思う。
 あの生き残りは宇宙人なのではないか? 地球を侵略しに来て、人間を手あたり次第始末している。寒さで動きを鈍くしたところを狙っている。しかしそれならずっと寒いままにしている意味がないし、私を見逃した理由も分からない。私を家に閉じ込めたあの男も、誰なのか分からない。
 あの男が神だとしたら? 世界を凍りつかせて、人間を全て最後の審判に引きずり込んだ。私を残した理由は、男に聞いてみないと分からないが、神の考えることなど人間には理解しようがない。この雨は世界を洗うために降っていて、今後も降り続けるかもしれない。もしかしたら、生き残りだと思ったあの人間は、あの男の別な姿だったのかもしれない。推定ばかりでつまらないな。
 神も宇宙人も関係なく、ただ大災害がこの国を襲ったのか? 私はヘルパーの顔を忘れてしまっている。もしやあの男は私のヘルパーだったのではないか? あの会話は、私と彼の定期的なコミュニケーションだったのではないか。偶然その後災害が、そう、家が揺れに揺れて、私だけが残された。世界を揺るがした災害に気候まで変わって、待てよ、どこかで私が頭をぶつけているとしたら? ヘルパーのことを忘れ、今が冬だということも忘れ、あいつは神で今は五月と認識したとしたら? なんてことだ。もしそれが本当なら、寒さと死者と地面の亀裂にも説明がつく。生き残りらしかった彼も、きっと被災者なのだ。どこかで火を焚いて、今も生き延びているに違いない。本当に? 本当に私は

 落ち着いた。
 年甲斐もなく泣き叫んでしまった。目を見開いても、耳を叩いてみても、見えないものは見えないし、聞こえないものは聞こえない。泣いてもどうしようもない。分からないものは、推測するしかない。私にはヘルパーを、その感触と体臭からしか記憶できていない。体臭は、匂いが分かれば判断できるが、今は思い出せない。感触もそうだ。揺れた時に頭を打ったとしたら、頭にコブでもあるのではと探してみた。それらしい痛みはない。
 一通り読み返して分かったことがある。私が今を五月だと思っていたのは、揺れよりも前からだ。頭を打って記憶喪失の可能性はかなり薄れた。あの男によって記憶を混濁させられたと考えればどうか? 何のために? 可能性は低い。

 昨日の悩みが嘘のようだ。信じられないが、謎に一応のカタがついたと見るべきだろう。雨があがったようで、また外に出て少しうろついた。亀裂が増えていることはなかった。今気づくのもおかしな話だが、点字ブロックがほとんどバラバラにならずに残っていたのはありがたかった。
 本題だ。今日また、あの生き残りに出くわした。指文字を覚えたとのことで、ヘルパーとの会話よりはつたないが、それでも人と会話ができたことは嬉しかった。彼は宇宙人ではなく人間で、海外旅行から帰ってきたらすでにこのありさまだったとのことだ。現状を聞いた。街一帯が凍りついている。街の人はみな凍結し、切り裂かれ、そこかしこに転がっている。見ているだけで胸が痛むと言う。しかし、この街の外では、そんなことは起こっていないらしい。原因はまだ分からない。街の反対側から、研究隊が来ていて、徐々に南下して調査を進めている。彼は車を持っていると言った。乗せてもらうことになった。出発は明日で、彼は私の家で今夜を過ごすことになった。荷造りを手伝ってくれる。隣にいるが、顔も知らぬ声も分からぬ他人と一緒に寝るのは、面白い半面少し不安だ。
 今までのことを彼に話した。この点字記録は、後年彼が翻訳してくれることになった。あの男が誰だったのか、原因は何なのか、分からないが、

彼は揺れの話をしていない いつ帰って来たんだ?
六日前っていつだ

 う

                 そだ

       宇宙人

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