彼女

 彼女は部屋の隅にいた。
 抱き上げて、埃を払うと、色彩がきらめいた。「綺麗な目だね」と私は言った。
 彼女には白いエプロンをつけさせた。彼女の瞳はエプロンに映って、海面のように麦畑のように揺れた。彼女は近くを見なかった。遠視なのかもしれなかった。彼女の美しい瞳は、庭の垣根を越えた地平線のただ一点を見つめていた。彼女の鼻は暖かいミルクの香りにひくつき、小さな耳は春の日差しにふかふかとぬくもった。
 彼女は初め、猫だった。彼女は華奢なスツールに座って、そのなめらかな白い毛並みを風に吹かれるままにした。瞳は木洩れ日を反射することもあれば、落ち葉を映すこともあり、季節のうつろうままに千万に変化した。鼻先はきまって桃色だった。
 夜にはそのきらきらしい瞳のなかに野生の光がぱちぱちと瞬いた。彼女は家中を巡って、壁や床を叩いて回った。その音は年を経るごとに柔く、弱くなり、彼女の夕課は私の読む本のページの端をおさえることに替わった。
 彼女は次に、ショートケーキだった。身軽そうな生地の上に、さらに軽々と生クリームが被さり、赤い苺が果肉まで得意げに私を見返した。フォークを突き立てるとすんなりと逃げおおせ、彼女自身を口にすることはできなかった。ただミルクと卵とバターの味がした。頬に残るクリームの甘さは、苦いコーヒーがこれを消した。苺は夜までとっておいた。星を見たあとの苺は恥じらって、いくらか酸っぱくなるのだった。ページを繰る手をとめるほどには。
 彼女は次に、くちなしだった。白い花弁は重なり合って、丸くなった猫と苺のわきに控えるクリームとを思い出させた。日光に暖まった花弁は散り落ちながら垣根の向こうまで甘く香った。雨の日にはいっそうつややかに匂った。しかし知らぬ間に彼女は、白い美しい彼女は、微笑みだけ残して地平線を越えてしまった。
 彼女はパラソルだった、風船だった、ヘリオトロープの一滴だった。
 宙を舞い、打ち破れ、ふとした時には消えていた。
 彼女は最後に、肖像画だった。彼女の瞳は美しく色づけられていた。その色彩は画家の感情だった。果実のように熟れて、木々のように清新で、空模様のように様々に混じりあっていた。そこにない色はなく、そこにない感情もなかった。彼女は愛されて描かれ、愛されて残った。
 私は彼女を白布で覆った。私自身に、見せるべきではなかった。しかし彼女の瞳は白布を透かして私を見つめ続けた。彼女を壁に向けても、部屋の隅に放り出しても、その瞳はただ一点を見つめていた。彼女の視線は常に私に焦点を結んだ。
 彼女を本当に捨てることはできかねた。ナイフを突き立てることもできなかった。私も彼女を愛した一人だった。 とうとう私は彼女をスツールの上に立てかけて、毎朝毎晩ながめ暮らした。
 彼女は綺麗な目をしている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?