見出し画像

あなたと私の話

富良野にやってきた人

ラベンダー畑駅に降り立った。
それはこの時期だけできる、臨時駅だった。

7月の北海道なんて高いし混んでるし行くもんじゃない、と言う人たちの嫉妬したまなざしを横目に、私は強行した。
1年付き合った彼に振られ、休みが取れないなら仕事なんか辞めてやると思った。行ってやる、北海道。それも北海道のヘソと言われる富良野へ。
自暴自棄ギリギリかもしれないけど、まだ飛び出す元気はあった。大自然に憧れがあるとか農業に興味があるとか、そういう訳じゃない。
彼が私以外に好きになった子が、富良野の出身だったからだ。
なぜ、彼は私ではなく、彼女を好きになったのか。北海道ブランドなんじゃないか。私が富良野出身だったら。『北の国から』というドラマを見て育った彼が、富良野に憧れていたのも知っている。いつか2人で行こうね、と言っていたのに、富良野から来た子にサクッと奪われてしまった。今年入社してきた彼女は当たり前だけど富良野に詳しくて、彼はすっかり虜になっていた。
「うちは農家じゃないから向こうに残る必要もないんですぅ」
と言う彼女に
「いやぁ、農家は大変だよね。オレもドラマでしか知らないけど、草太兄ちゃんは苦労してたもんなぁ。農薬を使う大変さとかさぁ」なんて、訳知り顔で話す彼にうんざりしてもいた。
お前は何を知っているのだ。テレビで観ただけじゃないか。あたしなんて、現地に行ってやる。

ラベンダーの香りが漂う駅で、私はため息をついた。
彼と寄りを戻したいわけじゃない。富良野の彼女のせいじゃない。急に興ざめした自分が不思議だった。いったい彼のどこを好きだったのか、わからない。
チューリップハットをかぶった小柄なおばちゃんたちの後について、改札に向かう。関西弁だったり中国語だったり、いろんな言葉が聞こえてくる。みんな何しにここに来たんだろう。花を見るためだろうか。大きな公園なんて関東にもある。私の自宅のそばには昭和記念公園があり、いつだって花盛りだった。なにも飛行機に乗って電車に乗って見に来なくても。
はぁ、とまたため息が出る。
私は何をしに来たのよ。
傷心旅行と言うほど傷ついた訳じゃない。
矢印に促されるように足が進む。目的地なんてないから、どこに行ったってかまわない。宿はここから歩いて行けたはずだ。駅から徒歩20分なんて、八王子育ちの私からすれば、どぉってことない。
私は夕飯の時間まで、矢印の先のファーム富田に行くことにした。そこはカレンダーやドラマのワンシーンで何度も目にした花畑の丘陵だった。たった2泊の1人旅なので荷物はリュックに収まっている。

「こ、こんにちは」
駅に降り立った時の威勢はどこへやら、私はクタクタになっていた。宿までたどり着いてドアを開けた時には、その場にしゃがみ込んでしまいそうだった。
なんて広大なんだ、ファーム富田め。足腰には自信があったのに。
はーい、いらっしゃい、とエプロンで手を拭きながら宿の人が出迎えてくれる。
「蝶野さなぎさんですね。1階の和室の部屋です。特にカギはありません。中にいるときは内カギをかけてください。夕飯は18時です。近所に大きなお風呂屋さんがあるので、行かれる場合は声をかけてください。車で送迎しますから」
赤い三角巾を被った宿の人はニコニコと説明する。
部屋の鍵が無いことに驚いたけど、荷物はリュックだけだし、部屋を空けている間に取られるものもない。部屋への案内も指差しだけだった。
「1階の部屋は窓から裏庭のラベンダー畑が見えるからね。
いい部屋だよ~」
宿の人が嬉しそうに笑っている。
ファーム富田で散々ラベンダーを見て来た私からすると、ちょっとゲッソリする思いだった。どこもかしこも紫。ソフトクリームも紫。
私は小さく頭を下げて部屋に向かった。
6畳ほどの畳の部屋には布団が敷かれていて、私はリュックを下ろすとそのままゴロリと横になった。バス・トイレは共用。これがペンションか、と目を閉じた。
結婚なんてまだ考えられない、と言った彼は30歳を超えていた。私だって25歳だ。充分適齢期だと思っていた。
「結婚が考えられない相手と付き合ってても、無駄だと思う」と言うと、彼はあっさり離れた。そしてひと月もしないで新しい彼女を作った。
ショックはショックだったけど、何にショックを受けたのか、私はわからなかった。仲良く話をする2人を見ても、あぁ、としか思わない。3人で仲良くする気はなかったけど、ショックを受けない自分にショックだった気がする。
開けられていた窓からラベンダーの香りが注がれる。こんなに沢山吸い込んじゃ、私の呼気もラベンダーの香りになるんじゃないだろうか。これが、富良野。彼が憧れ、彼女が育った土地。私に無いものがあるのか。
なんなのよ、富良野。
館内が騒がしい。他の泊り客も到着し始めたようだ。
堂々巡りはいつまでたっても終わらない。ため息しか生まない。
夕食の準備ができました、と大きな声が聞こえる。私はソフトクリームの食べ過ぎで、まだお腹も空いていなかったけど、北海道のご飯には興味があった。なんとか重たい体を持ち上げる。
遅ればせながらリビングに着くと、他の泊り客はみな席についていた。夫婦であったり親子であったり2人で来ている人がほとんどで、1人旅なんて私くらいだった。喋る相手もいない旅とは、つまらないものだな、と思いながら席に着いた。
料理を並べ終わったスタッフが3人、各テーブルに座っている。
スタッフの人も一緒のテーブルで食事するのか、と戸惑っていると、私の隣に座った女性から声をかけられた。
「今日はどこに行ってきたの?」
お客さんに対する敬語もなにも無く、ニコッと笑う。
私より少し年上くらいの彼女はジンギスカンを口に入れた。
「あ、えと、ファーム富田にずっといました」
私も真似してジンギスカンに手を伸ばす。それぞれのお皿に盛られたそれは、甘辛いタレで炒められていた。これが北海道のお肉か。羊の肉なんて初めてだった。
「あやー。凄い混んでたでしょ。中に入って近くで見るのも良いけど、ここからも見えるんだよ。あたしはこの距離で見るの、結構好き。来た道振り返ると見えるんだ。遮るものが何もないから。この後お風呂行くの?帰ってきたら星空ツアーする?」
キャベツの千切りの上に赤と黄色ののパプリカが、その下に紫キャベツの千切りが乗せられていて、これはね、ファーム富田の彩の畑を真似てるの、と言って彼女は口にほおばる。
ただの野菜サラダも意味付けをすればそう見えた。自宅で同じものを作っても、ここで食べた方がおいしく感じるんだろう。このキャベツは北海道産だからとか理由をくっつけて。何か理由があれば、理由があれば納得する。
やっぱり北海道産は美味しいですね、と私も笑顔を向ける。
「これ、北海道産なの? 調理するのが私であっても産地で食べれば美味しいんだな。富良野マジック!」と言って、あはは、と笑うと、五六寺ナナです、どうぞよろしく、と彼女は頭を下げた。私も、つられて頭を下げる。

オーナーさんが送り迎えしてくれた温泉から戻ると、夕飯の後片付けは終わっていて、リビングでナナさんともう1人の女性スタッフで近隣のカフェ情報の絵を描いているところだった。休み時間にあちこち回っているらしい。ざっくりとした地図だけど、このペンションは田んぼに囲まれていて目印になる物なんてなにもなかった。通りの名前も東8線北とか、私にとって馴染みのない名前だ。
知らない町、知らない土地。もちろん私の事も誰も知らない。
湯冷めするから上着来てね、とナナさんに言われ、他のお客さんと一緒に裏庭に出た。はい、仰向けに寝転んで、と促される。芝生ではない何の草かわからない上で、みんなで仰向けになる。ナナさんは懐中電灯を灯し、空に向けた。光の筋が星に当たる。
「街灯がないので懐中電灯で指させるんですよ。これが夏の大三角形の、」と説明を始めた。ナナさんが動かす懐中電灯の光が差し棒のように、説明している星を指している。
真っ暗の便利さなのか。八王子だって暗さは負けないと思っていたけど、私が住んでいるのは住宅地だった。家々からの灯りや街頭は当り前のようにある。それがここにはなかった。ヘッドライトやテールランプの、車の行き来もない。
なんだこれは。日本なのか?
暗闇に、ナナさんが動かす光の筋が行き来する。夜空をスクリーンに、光の指し棒がちょんちょんと星を突く。
空はどこまでも黒く、地面と空の境界すらわからない。
「夏とは言え、夜は冷えますから30分が限度です。中に入りますよ~」
ナナさんは懐中電灯で足元を照らし、私たちを宿へ誘導していった。
面白いわねぇ、大自然って良いわねぇ、なんて声が上がっている。
私は、ずいぶん呑気に暮らしているんだなぁと、少し呆れていた。
毎日こんなことしてるのかしら。それで生活できるなんて、羨ましい。私は面白くもない事務仕事をして、お給料をもらわなければ生活できない。
それではみなさん、おやすみなさーい、と言うとナナさんは厨房に消えていった。

朝ごはんの用意ができました、と大きな声が聞こえる。
昨日1日歩き回った私は、星空ツアーの後、爆睡した。目を閉じて次に開いたら朝になっていたことに驚き、顔も洗わず食堂に飛んでいく事になった。
他のお客さんは食べ終わったら速攻次の観光地に行く気満々で、化粧もバッチリ済んでいる。私のお皿に焼けたパンを配っていたナナさんは、さなぎちゃんさなぎのままだー、と笑っている。
私は肩をすくめ、どうせここには知り合いも居ないし、スッピンでいいや、と取り繕うことも止めた。
朝食のオムレツの上には、ケチャップで『さなぎ』と書かれている。他のお客さんのを覗き見ると、それぞれ名前が書かれていた。
なんなんだろう。ふざけてる?子供じゃあるまいし。
でも周りのお客さんは嬉しそうだった。なんか、こういうの懐かしい、と聞こえてくる。
これは、仕事なんだろうか。ペンションで働くとはいったい。
でも冬なんて雪が凄いんだろうし、お客さんなんて来ないだろうし、どうやってこの人たちは暮らしているんだろう。小人が化けているとしか思えない。
「今日のご予定は?」
隣を見ると、ナナ、と書かれたオムレツを豪快に口に運んでいた。私が焼いたわけじゃないけど、卵は富良野産だよ、とモグモグしながら話しかけてくる。
私は特に予定を決めていなかった。ガイドブックを見て決めようと思っていたのに、昨晩、本を開くことなく眠りに落ちた。
「これから決めようと思うんです」と伝えると、あやー、車が無いと予定を立てて動かないと戻って来れなくなるよ、と言って眉間に皺を寄せている。
た、確かに。
私が昨日歩いて駅からここに着く間に、バス停なんてなかった。移動手段が徒歩だけだと、どこまで行けて、帰って来れるのか予測ができない。同じ宿にもう1泊するんだし、近所をフラフラしてもいいや、と思っていたけど、近所は見渡す限り田んぼで、歩いて行けたファーム富田は昨日行ってしまった。
いつもそうだ。考えているようで何も考えていない。
「11時くらいに掃除が終わるからそれまで待ってる? 山田さんに車出してもらって『北の国から』巡りとかどう?」
え? 山田さん? と私が瞬きをすると、ヘルパーの男の人、と言って隣のテーブルを指さした。山田さんも、良いですね、じゃ、4人で行きましょうよ、ともう1人の女性スタッフに声をかけると「私昼寝したいんで、3人でどうぞー」と断られてしまった。
昼寝をするのか。なんだろう、その当たり前感。仕事の合間に昼寝をするなんてシエスタを取り入れているのだろうか。田舎だと思っていたここが、なんだか最先端の職場なんじゃないかと思えてくる。
「じゃ、それまで適当に庭とか見て待ってて」
ナナさんは、やったぜ、と笑うと食べ終わった食器を下げに厨房に入って行った。
私は『北の国から』巡り、という単語に少なからず動揺していた。私は去年の最終回『2002遺言』しか見たことはなかった。彼に散々勧められて観たのに、最後だけ見てもなぁ、と言われてしまった。私にとってはあまり触れたくない場所だけど、実際、この目で見たら踏ん切りも付くのかもしれない。
踏ん切る? 何を?
正直、彼に未練はなかった。私の中に引っ掛かったのは、彼が魅力を感じた富良野という場所だった。私と彼女を並べて、私が富良野の出身だったら私を選んだのか。それは私を選んだのではなく、富良野を選んだんじゃないのか。じゃぁ、私、とは何?
自分でもわからないのに、彼に問うのもおかしな気がする。
富良野まで来てロケ地を見てこなかったなんて、もったいないのかもしれない。気は進まないけど、行くところもない。
行きたいところも、なかった。
私は部屋に戻り、ノロノロと身支度をして、裏庭のラベンダー畑に出た。ベンチブランコに腰を掛けて空を仰ぐ。
目を閉じても香りが迫ってくる。
富良野の空気とはラベンダーの事なのか。確か、緊張を和らげる効能があるって聞いたことがある。だからここに居る人たちは呑気なんだな。
嗅ごうと思って鼻を近づけなくても、呼吸するだけで身体に染みる。
おーい、さなぎちゃーん、の声に目を開けると、ナナさんと山田さんが車の前で手を振っていた。あっという間に11時になっていた。朝食を食べ終わったのは8時前だったと思う。3時間が5分のようだった。こんなこと、いつもの毎日ではありえない。
呑気って移るのかしら。この香りは神経を麻痺させるのか?
私はブルブルっと頭を振って、キッと眉を上げた。
後部座席に私とナナさんが乗り込むと、すぐに出発となった。
「山田さんは群馬から車を乗ってきたんだよ」
え? と私は運転席に座る山田さんを見た。色黒で細身で髪を短く刈り上げている。北海道の人だと思っていたからだ。
「一気に来たわけじゃなくて、ところどころ寄り道しながらだけどね」
山田さんは群馬県に住んでいて、この時期忙しくなるこのペンションに手伝いに来た人だった。
「そういうのをさ、ここではヘルパーって言うんだって。助けに来た人って事みたいで。最初呼ばれた時、介護の方かと思っちゃった。なんせ初体験が多すぎる。凄い場所だよ、富良野って」
ナナさんは、世界観が変わっちゃったもん、とうなずいた。
え? ナナさんも北海道の人ではないの?
朝食の時、泊り客の人に十勝岳の説明をしていた気がする。
あ、私は町田の人、今昼寝してるのは川崎の人、オーナーは九州の人だよ、と教えてくれる。
「夏が終わったら解散だけど、今はみんな富良野の人。さなぎちゃんも富良野の人」
二ッと口を横に引いた。
私も?私は旅行者であって明日には八王子に帰ってしまうのに?
呑気星人の仲間入りなんて御免だ。
私は、いやいや、と首を振った。

案の定というか、ドラマを最後しか見ていない私は『五郎さんの石の家』と言われても、あぁ、テレビで観たことある、くらいの感想しかなかった。せっかく連れて来てくれたのに、申し訳ない思いだった。
ナナさんは、だよねー、って笑っている。
「私も来る前に、ダッシュでビデオ借りて1話から観ただけで。オンタイムで観てたらもっと感動したんだろうな。感動って共鳴だもんね。
ロケ地巡りをして楽しむのは無理があったか」
「オレも時々しか見てなかったからなぁ。実はよくわからない。このまま美瑛までドライブでどうかな」
2人してあれこれ考えてくれて、せっかくのお昼休みなのに、ごめんなさい、と小さく頭を下げるしかできなかった。
気にかけてくれているのはわかる。それでも私に関心を持っているのと違う気がした。2人は、何しにここに来たのとか、仕事は何してるのとか、歳はいくつなのとか、私についての情報を何も知ろうとしなかった。私の存在を認識してくれているけど、昨日までの私に興味はないように思えた。
昨日まで私は何をしていたんだろう。
聞かれたって、語る事など何もなかった。
ただ普通に、みんながするように、学校に行って、就職して、恋人を作って、結婚するものだと思っていたら、そうとはならなくて、急に梯子が外れちゃった感じになった。仕事も結婚したら辞めると思って就職したので、やりたいことをやっているとは言えない。
彼の事を結婚するほど好きだったわけでもない。
何をしてるんですか?
そんなことを聞かれたら、私は、もう、立っていられない。
「なんで、こんなに良くしてくれるんですか」
え? と2人は振り返る。
「だってどこの誰ともわからない人ですよ? 何処から来たの?とか何も聞かないんですね」
聞かれたら困るのに、聞かれなくてイライラしている。こんなこと言いたいんじゃない。支離滅裂もいいところだ。これじゃ、まるで駄々っ子みたいじゃない。
あぁ、聞かれたかった?とナナさんは首を傾げている。
そして、聞かれたいかもね、とうつむいた。
「あたしもここに来た時、ここの人たちがそうしてくれたんだ。ペンションの人だけじゃないよ。隣のメロン農家さんとか、ジンギスカンの羊の丘の人とか。最初はさなぎちゃんみたいに戸惑ったけど、なんか、それ良いなと思って。昨日までの事を聞かなくったって、今日まで生きてるんだから、色々あったんでしょ、って事なんだよね。
なにも無かった人なんて、いないじゃん。
聞いてもしょうがないし、聞かれなくても関係なかった。
だって最初に言われた言葉が、「さぁ夕飯作りましょう!」だよ?
自己紹介もなにも無く。
勿論、季節が変われば帰っちゃうんだしっていうのもあると思う。
でもさ、どこの誰とか関係ないんだよ。今ここに居るのが事実で。
すごいんだよね、富良野に居る人って。なんでも受け止めちゃうの。
どこの誰が来ようと。
雨も風も雪もだもんね。
こんなだだっ広いところに、田んぼ作ったり花植えたりする人たちなんだよ。それも視野の続く限りそれが続いてる。
震えちゃったよ。誰がこんなこと始めたのよ、って。
あたしもさ、ここに来て、ずいぶん自分はちっちぇなって思い改めちゃった。世界はでかくて広かった。知ってるフリして何も知らなかったなぁ。
私が生きて来た29年が、たった2週間でリセットされちゃった感じ。
さなぎちゃんも、リセットされちゃいな」
と言って顔をあげたナナさんは、私を見て慌てふためいた。
私の目から涙がこぼれて、こぼれて、止まらなくなっていた。
ふぇぇぇ、と子供のように情けない声が漏れてしまう。
山田さん、ソフトクリーム買ってきて! とナナさんは叫び、私をベンチに促した。
「種明かしをしますと、さなぎちゃん、1人旅で2連泊でしょ? オーナーが傷心旅行かもしれないからヘルちゃんたちヘルプしてね、って言ってて。必要以上にちょっかい出さないようにはしたんだけど、うるさかったらごめん」
私は急いで顔を振った。
「むこうで何があって、だから富良野に来たとか、そんなことは聞きませんよ。来たからにはスッキリして行けばいい。私も思うところあって、縁もゆかりもない富良野に来ちゃったんだけど、来たらもうどうでもよくなっちゃって、そして忘れちゃった。そういう場所なんだね、ここ」
ナナさんはゆっくり私の背中をさすっている。
私も、聞いて欲しかったわけじゃなかった。聞かれても何て言えばいいのかすら、わからない。言葉にならないモヤモヤは涙となって私の外に流れている。
はい、深呼吸して、と言われて大きく息を吸い込んだ。紫の香りが肺全体に染み込む。
「たぶんさ、これが自然なんだよ。涙が出るときは出るし、止める必要もない。こんな自然が強い場所に来たら、あらがう事すら考えなくなるもんだね。なぜ涙が出るの?とか理由なんて、いらないみたい。
もうさ、敵わないよ。負けを認めちゃう。
自然に敵うなんて思い上がりも良いところだ。
あたしも受け止める。何が来ようと、全部受け止めてやる」
ナナさんは遠くを見つめている。
それは目の前にある石の家ではなく、もっと遠くを見ているようだった。
「いや、あたしも、さなぎちゃんと同じだったんだけど」と言って下を向いた。
ナナさんは何があったんですか、と言いかけて止めた。聞いても聞かなくてもどっちでもいいことなのかもしれない。ナナさんは今ここにいて、富良野の人になっていた。そして、私を受け止めていてくれる。
私も、やってみようかな、それ、と小声で言うと、ナナさんはゆっくり微笑んだ。
「私はさ、とにかく振り返らないで走れるだけは走ってみようと思うんだ。アンテナ張って、人の声も自分の声も聴いて、死ぬまで生きてみようと思う。いつかまた、どこかで、さなぎちゃんに会えたら嬉しい」
なんちゃって、とっとと野垂れ死んでたらごめんなさい、と言うと照れたように顔をクシャっとさせた。
両手に紫色のソフトクリームを持った山田さんが小さく見える。
こっちこっち、とナナさんは手を振っている。
3人で2つのソフトクリーム。
どうやって分けるかなんて、どうでもいいのか、あたし昨日からいくつ食べてるんだ、と思いながら私は自分の手の甲で涙を引いた。


ここから先は

125,103字

¥ 1,000

すごく喜びます(≧▽≦)きゃっ