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怒り続ける ~整体師がやって来たこと⑪~

怒りのエネルギーとは膨大だなと思っています。
でも瞬間最大風力が大きいだけなこともある。
瞬間湯沸かし器みたいに怒るのは癇癪なので、病気かな、と思ってください。私の父は癇癪持ちでしたが後に躁になりました。
だから私は大人の癇癪には向き合わない。
子供の癇癪は成長過程のひとつなのでいいのですが。

身体の中を突風が吹き去ってもまだ感情として怒りが残っている場合は、解決したいことだったりします。止めて欲しいとか変えて欲しいとか思うもの。つまりは自分が嫌うもの、です。

だからちゃんと怒った方が良い。なんとなく流しても解決しないから。

相手を変えるのは難しい

やめて欲しい、変えて欲しい、と願ってもそれは相手の願いではないので叶わない方が多い。相手も止めたい・変えたいと願っていれば別ですが。
相手にとってはその行動をして、困ることがないので止めたい・変えたいとは思わないんですよ。
だからこそ怒りの感情が湧くんだけど、相手はそもそも止めたい・変えたいと思っていないのでベクトルが揃わない。ぶつけると反発します。
ぶつけたくなるけどね。でもぶつけても解決しない。

怒りの感情はちゃんと持って、それから、何に怒ったのかを自分で認める。そうすると解決策がでてくる。

私の夫はよく靴下を脱ぎっぱなしにします。
何度言っても止めないので腹が立ちました。結婚当初はかいがいしく拾って洗濯していたのですが、5年も経つと怒りに変わります。止めてくれないので離婚かしらと思ったこともあります。
でもそれは突飛であって離婚がしたいのではなかった。
だから関わるのを止めたんですよね。
靴下を放置しました(≧▽≦)
通常の洗濯はします。怒って拾って洗濯機に入れるのを止めたんです。
脱ぎ捨てられた靴下は毎日溜まっていきます。
そのうち夫の替えの靴下は無くなりました。
困ったんでしょうね。自分で洗濯機まで持って行くようになりました。
これで初めてベクトルの向きが揃います。
私は散らかっているのが嫌で、靴下を脱ぎ棄てないで欲しかった。
夫は替えの靴下が欲しかった。
もっと言えば、私はかいがいしい奥さんのフリをしていた、かいがいしい奥さんをやっている私を褒めて欲しかった。褒めてくれなくて怒っていた。
そこを止めたことで願いは叶った。

相手を変えるのではなく自分が変わったのでした。

一旦関わるのを止めると、客観的にみれるようになる。自分の事も。

相手を変えるのは難しい:自分の願いを叶えるには自分の嘘を自覚する

状況だって変えるのは難しい

状況や環境を変えるのはもっと難しい。関係者が多いから。
でも、『相手を変えるのは難しい』とは、『自分を変えるのは難しい』ということだったので、やっぱり状況を変えたいなら手始めに自分を変えることからじゃないかと思っている。

例えば今なんてコロナフィーバー。まいっちゃうよね。
でもずいぶん自分を変えた人を見ました。

『変える』とは『改善する』だけじゃなくて『適応する』も含まれると思う。そこに『我慢』が入ると『反動』を生んじゃうんだけど。
我慢が効くのは終わる物に対してだけだと思う。
終らないものには我慢しない方がいい。劣悪な環境には適応しないで欲しい。
今までと違う状況に適応するとは、進化なんだと思っています。
変えざるを得ない状況で変わらないままいると、退化になる。

この1ヶ月で進化した人や仕事は沢山あります。
私はこうして書くことを始めて、友人からの連絡や相談が増えました。
書くことで私がやってきた整体ができているんじゃないかと思うくらい。
お陰で営業自粛の世の中に適応しちゃった気がする。
家に居て相手に触らずに仕事してるんですよ、整体師が。収入は置いておいて。
今進化の過程にいるんだな、と実感しちゃう。

状況だって変えるのは難しい:自分を進化させると適応する

気分転換からの

気分転換の方法は色々あると思うけど、怒りのエネルギーは膨大なのでただの発散に使うのはもったいない気がします。
継続してやり続けるような、根気がいるような、だからこそ避けて通っていたこととか、に火を付けるには持って来いのエネルギーです。
それは怒りの劫火ではなく、種火になるから。
前回も書きましたが、私が商店街の花壇の手入れをしたのは気分転換からでした。汚い汚いと思っているより片付けちゃうか、ってくらいの。
でも片付けても片付けても不法投棄は止まらない。
ならば陰になる植木を伐採してやる、とノコギリを持ち出したり。
丸坊主みたいになっちゃった(≧▽≦)

怒らせると怖い人、とは瞬間湯沸かし器のことを言うのではなく、執念深く種火を消さない人なんじゃないかな。
私、10年以上怒ってるし(≧▽≦)

気分転換からの:継続持続のガソリンにする

私がやったこと

これはまずいなぁ、でもどうしようもないなぁ、と思っていた3月始め、私は断捨離をしていました。
だって止めることができないもの、だったんだもの。
感染の怖さって知ってるし。
怒って、外に出ている人や営業をしているお店を罵倒しても、困った困ったとおろおろしても、解決にならない。
それでもモヤモヤは沸き起こります。
どうにかなかったことにならないか、元に戻らないか、と願います。
でもならない。ならないよ。
状況を変えることも、不特定多数の人を変えることも、私にはできない。
じゃ、できることはなんだろう、と思ったんです。

まず、自分はマスクをしよう、作ってみよう、配ってみよう、でした。
渡したのに付けない人に怒ることはなかったです。それはその人が選ぶことだから。その人が何を願っているかというところだから。
私は感染したくなかったし、自分から相手に移るのも嫌だった。
そして営業自粛に踏み切りました。断腸の思いだったけど。
私は生きていたいし、私の知り合いに死んでほしくない。
利己的なので世界中の人死なないで、とまでは思わない。
それでもいままでやっていなかったことを、これを機にやってみたと思う。
その中に断捨離もあるんだけど、物を捨てたという事じゃなくて、取捨選択をやっていました。
自分にとって何が必要で、何が不要か。
高価だったから、いつか使うかもしれないから、思い出だから、という物が私には不要だったようです。必要な時期もあったと思う。でもそれは昔。
今を生きよう、と思ったんですよね。

これまでの自分が嫌いだったわけじゃないけど自分を変えて行ったと思う。
『変える』とは『良くする』ではなくて『受け入れて未来につなぐ』なのかな。

私はね、怒っていますよ、コロナに。
でもコロナに対する怒りは様々なことを始めるエネルギーになってる。

私がやったこと:取捨選択をして今を生きることにした

生きていく中で色んな事に怒りが湧くのは当然で、それは悪い事じゃなくて、人にぶつけるエネルギーとして使うのはもったいなくて、自分のガソリンにすると進化するみたい。
私、そうなっていると思う。




すごく喜びます(≧▽≦)きゃっ