見出し画像

知らないところで自由になるワタシ

人間、人目やそれまでの人間関係や評価を気にするものだ。気にすまいと思っても気になる。心のどこかで えっ君が? あなたが?と人が驚く様子を想像するだけでもイヤイヤ やめておこうなんて思ってしまうのだ。

人から離れた時、それまで「周りにいた人間からの、または自分の心の中で自分を評するだろう人間からの評価、引っかり」から自由になれることは多い。

長年生きていると、人間関係が切れてゆくことも多々生じる。
人を亡くして切れた人間関係。何くれとない日常の様々なコーナーで故人がつながっており苦しく悲しく思う。

だが自由になれたと感じるものもある。分厚い木の葉で覆い隠し距離をとり胸の痛みを覆い隠おくしておくようなもの。まだそこにはあるければ切った人間関係であればその黒い沼の中で生きる必要はもうないのだ。

そして生きている人間との物理的に接触を切ること。
これが知らない間に形成されている「自分の何かを縛る鎖からの解放」になる。
その人間を含む人間関係の構図からから離れること。

今、その中のいくつかの切れた人間関係を残念に思うと同時にホッとしている。彼らが私を見る目はもう存在しないのだ。

異世界転生。とは言わないけれどもなんとなく重たく感じる「周りからの評価」の目から逃れたところで生きると(単に距離を置くではなくてその人間関係が切れたところで生きる)と 楽である。
「評価」言い換えるとたとえそれが良い評価であっても自分には烙印になることがある。烙印じゃなかったらしがらみやプレッシャー。自分がその評価から分析した自分に対する思い込み。

自由だ。自由だなあ。

と、自分が好きな色を躊躇なく綺麗だなあと思い、身につけたりする度に感じる。今まで自分には許されなかった色。なんと、極小な、些細なこと。一番小さなことをつぶやいてみたが、そんな中に大きな開放感がある。こんなことで自由になった喜びを感じている。
コレって自分に掛けた呪いからの解放だな。他者の評価を取り込んでしまうというという呪いからの解放。

まあ、他人から見たら傍若無人。好き放題しているように見えるかもしれない自分なれど。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?