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『君の不幸が消えないならば、世界をひっくり返すまで。』第10話

第10話「崩壊」

「どうぞ、上がってください。何もないですけど…」
夜の帳が下りてしばらく経った頃、茅早は秋沼を自らのアパートへと招いていた。
ーーー誰にも聞かれない場所で、話したいことがある。
秋沼にそう言われたからだ。
この身に降りかかる不幸のせいで何度も引っ越す羽目になり、行き着いたのがこの四畳半のボロアパートだったわけだが。外観を見ただけで秋沼が絶句していたところを見ると、だいぶ自分は不幸な生活をしているらしい。
自分ではそのことにすら気づけないから、一周回って笑いが込み上げてくるけれど。
電気をつけると、本当に殆ど何もない空間に、秋沼が唖然としているのがわかった。
あるのはローテーブルと、高校のバッグと教科書、それから図書館で借りてきた医学の本が数冊。キッチンにも二、三枚の皿とコップが一つだけ。
確かに客観的に見れば、自分の暮らしはかなり寂しいものだな、と茅早は思った。
「君は、どうしてこんなところに住んでいるんだ。……里親の方はどこに?」
震える声でそう尋ねてきた秋沼を困らせたくなくて、茅早は敢えてあっけらかんとした声で答えた。
「あの人達は、まぁ、一応名目上は里親なんですけど。結局は俺と兄さんに遺されたお金目当てだったみたいで。早々に家を追い出されました」
「は……?」
それでも、秋沼にとっては衝撃的だったようで。その表情に、茅早は申し訳なくなった。
先ほど、面会時間ぎりぎりで、相変わらず目覚めぬ兄に会わせた時も、秋沼は悲痛な表情で涙を浮かべてくれていた。
…父の親友だったというだけで、こんなにも心を砕いてくれる人がいる。それだけで、茅早はこんなにも嬉しいのに。
次の秋沼の言葉に、今度は茅早が目を見開く番だった。

「桃吾達の遺産とは別に、時々送られてくるお金があるだろう。それはどうしたんだい……?」
「え……」
何故それを、と思った。
茅早が物心つく前、両親の死から数ヶ月経って、定期的に振り込まれてきたというそれ。
決して少なくはない額のおかげで、朧は今も病院に入院できている。
誰が送ってきているのかはわからない。けれど父の口座を知っていることから、父を知る人物ではないかと思ってきたけれど。

「……まさか」
思わず呟けば、秋沼はそっと頷いた。
「……少しでも君たちの助けになれば、と思ってね」
その言葉を聞いた時、あまりにも温かい感情が、ぐわっ、と衝撃と共に胸にこみ上げてきた。

ずっと、誰かわからない存在に、送られたお金に感謝してきた。
それがなければ、不幸なこの身はもっと大変な目に遭っていただろうと思うから。
意識不明の兄。
あまりにも不幸な弟。
両親が遺した僅かなお金と、児童養護施設からの手当だけでは割に合わないと、誰もが関わるのを避ける自分たち兄弟がここまで生きてこれたのは、あの振込があったからだ。
その送り人が、目の前にいることが、ただただ嬉しかった。

それなのに、秋沼はとても申し訳なさそうに口を開く。
「あの程度しかできず、君達の役にもあまり立てなかったとは……」
「そんな事ありません!!」
その言葉を、茅早は思わず大きな声で遮った。
そんな風に思ってほしくはなかった。
あのお金のおかげで兄は今も生きている。茅早だって、確かに質素な暮らしだし、里親からはギリギリの支援しかされないけれど、完全には見放されずにいる。
「どれだけ俺達が、あのお金で助かってきたか……っ」
伝えたいのに、言葉がうまく出てこない。代わりに涙が溢れてきて、思考がぐちゃぐちゃになって。
それでも、伝えたい。
「ありがとう、ございました……!」

俺達を、生かしてくれて。

そんな思いに、はたと気づく。
(ああ、俺はなんだかんだ……ずっと、死にたくなんかなかったのか)

どれだけの不幸に見舞われても、どれだけ絶望しても。
心の底では、それでも生きていたかったのだ。
いつか、少しは人生がマシになる日が来るかもしれないと、どこかで祈る自分がいたのだ。
色を失くした感情たちに埋もれていたけれど。

---あたしはどっちかというと、心が動く方の物事を選んでるかな。
あやめの言葉が甦る。

……そうだ、あやめが教えてくれたから。こうして幸運に巡り会えたのだ。
あの時、心の声のようなものに気づかなければ、秋沼を探しに病室を飛び出さなければ、今のこの現実を、茅早は手にしていなかった。
今度会うときに、あやめには心からの感謝を伝えよう。そう思った時だった。

「……それでも、君達はこれだけの苦労をしているんだろう?」
秋沼の沈んだ声に、茅早ははっと意識を彼に戻す。
「いえ、これでもいい方ですよ。秋沼さんからのお金のおかげで……」
これまで、振り込まれたお金のおかげで助かった話をたくさんしなければ。何から話せばいい。どう話せば、感謝が余す事なく伝わるだろう。
そう考えながら、茅早は言葉を続けようとして。
思わず溢したような秋沼の言葉に、思考が停止した。

「やはり、私だけの力では、君たちにかけられた不幸の呪いを何とかすることはできないんだな……」

「……え??」
不幸の、呪い?

呪いって何だ。
あの、小説とかでよく見る、人に災いをもたらすやつか。
それが一体、何だって?
『君たちにかけられた不幸の呪い』……その言葉が、頭をぐるぐる回っているのに、理解ができない、いや、理解したくない。
だって、その言葉で、これまで茅早が苦しんできた全てが、説明できてしまうから。
考えるより先に、心がそう感じているから。

絶句する茅早を見て、「やはり知らなかったか……」と、秋沼は悲痛な顔をした。
「先程、私が君に伝えた、『誰にも聞かれない場所で話したいこと』とは、このことなんだよ。……桃吾達が死んだ時、君はあまりに幼すぎたから、この話が伝えられていなかったのも無理はないけれど……」
秋沼は茅早をまっすぐ見つめた。これから伝えられる話が嘘偽りないこと、そしてとても重大なことだと、その瞳が物語っていた。

聞きたくない、聞かなきゃいけない。
知りたくない、知らなきゃいけない。

心が、頭が、相反する思いを絶叫していて、どうすればいいかわからなくて、茅早はただただ、棒のようにつっ立って、秋沼の言葉を待つしかなくて。
やけに感覚が鋭くなった耳が、それを拾ってしまった。
「君たち東一族には、幸運を奪われ、不幸を植え付けられる呪いがかかっているんだ。……”朝霧”という、一族によって」

朝霧。

やけに聞いたことがある名前だ……と思ったのは、ほんの一瞬だった。
数日前、死にかけた事故の後。パトカーと救急車のサイレンの中で、耳に入った声。
ーーー朝霧あやめと言います。
警察官に答えていた、彼女の名前。

朝霧。
何をやっても運がいい、彼女の名字。

これが偶然なはずがない。

頭が理解した瞬間、茅早はその場から崩れ落ちた。
「茅早君!!」
秋沼の焦った声が、必死に支えてくれる手の感覚が、どこか遠くに感じる。
ひゅ、ひゅっ、と、鳴るような自分の呼吸だけがやけに鮮明に響いて。
目の前が赤黒く染まっていく。
これが絶望の色なのか、と、やけに冷静な自分が、心のどこかで呟いた気がした。

助けてくれた手の温かさ。
茅早が生きていることに安堵して流した涙。
茅早を元気付けようとする言葉の数々。
それらが、全て、恐ろしいもののように思えてくる。

ーーー騙されていた?
頭が、最悪の可能性を弾き出す。
今まで見てきたものは全て、都合の良い幻で。
あやめは最初から、自分のことを知っていて近づいたのか、と猜疑心が渦巻いていく。

ーーー何故信じた?
心が、自分自身を嗤っている。
そうだ、今まで数え切れないほど裏切られ、傷つけられて生きてきたのだから。
あやめだってその一人だったんじゃないか、信じた自分が馬鹿なんだ。
嘲笑う声が、響いている。

それなのに……。
ーーー嘘じゃない!
心の奥で、そう叫んでいる自分がいる。
あの優しさは、嘘じゃない、と。
あやめは違う、そうじゃない、と。
直感のようなものが、必死に声を張り上げて……、
どす黒い血のような色をした感情の濁流に、飲み込まれた。

「……ははっ、」
乾き切った、自分のものではないような声が、茅早の喉から漏れる。
「茅早君…?」
秋沼の声も、何もかも、今の茅早には届かない。
「ははっ、ははははははははははははっ、ははははは……!!!」
狂ったように、茅早は嗤った。喉を掻きむしりながら、ひたすらに嗤った。
もう何もかも信じられない、世の中も、自分自身さえも。
光明が見えた気がした、その瞬間にこれだ。嗤わない方がおかしい。

自分の不幸は、呪われているからだったのか。
そして、星の数ほどいる人々の中で、久しぶりに自分が信じたいと思った唯一の人間が、自分に呪いをかけた家の人間だったなんて。
こんな馬鹿な話があるだろうか。

何か大切なものが、がらがらと崩れていく音がする。
何度も経験して慣れたはずなのに。
茅早はもう、どうすればいいかわからなかった。

(続く)

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