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これからの時代の中での”本当の幸せ”

【福島お話会2023.10.22】


2024年はどのようになっていきますか?
2023年のうちにしておいた方がいいことはありますか?

 これからの時代は、さらにスピードが早くなっていくと言われています。何のスピードかというと、時代の流れのスピードです。
 色々なことがたくさん起きていく。昭和と、平成や令和って情報量が明らかに違うと思うんですけど、どうですか?昭和のゆったり穏やかな時と、平成や令和では早くなってるか遅くなってるかっていうとどうですか? 明らかですよね、確実に早くなっていますよね。
 「それは年を取ったからじゃないの?」とよく言われます。小学校の時の方が時間が長かったな、それもあるでしょうけど、圧倒的に情報量に比例して、人々の思考と行動の量が増えて忙しくなっていっているなというのは感じます。

 「家事が大変で洗濯機があったらいいな、冷蔵庫があったらいいな」とか、「大好きなあの人とすぐ連絡がつくように、電話とか携帯があったらいいな」とかから生まれたテクノロジーっていっぱいありますよね?結果、そういうテクノロジーが出れば出るだけ、忙しくなっていませんか?お母さんが夜なべをして洗濯する必要がないように洗濯機が生まれたのに、「家事プラス働きに出なさい」という。
 「女性解放、女性の可能性を」と言いつつ、忙しくなっていってませんか?楽したいためにテクノロジーがあって、生活に使いたいっていう前提があったのに、どんどん忙しくなって。携帯電話を持って、便利でいつでもあの人に連絡がつくようになったのに、縛られてる感覚があったり、「通知来たな、ちょっと大変だな」みたいなこともあるでしょう。

 明らかに逆行している気がするんですよね。僕らが言う縄文とか江戸とかの時代の流れや幸せっていう価値観から、“作られた流れ”というか、“作られた幸せ”というのを感じているのかなと思うんですよね。

 ―本当に幸せですか?
 ―本当に自由ですか?
 ―作られた中で生きていませんか?

 どんどん時代が進んでいって、考えないで済む。「時代がこうなので」「国がこうなので」「社会ってそういうものなので」となると、「考えなくてもなんとなく生きちゃった」っていう、いわゆる自動運転になっていくと思います。それは便利かもしれないけど、楽しいですか?

日々がタスク化していませんか?とある部族の教え

 最近僕も色々な情報を学びますけど、結構衝撃的な言葉があって、アフリカのとある部族の話なんです。200名ぐらいの部族があって、村長さんがいて、そこに日本人の青年が滞在するお話で。その日本人に対して、村長さんが「なぜそんなに急ぐんだ。目の前のものを大切にしているのか」「効率を最優先するならば、生まれてすぐ死んだらいいんじゃない?」って言うんです。だって、生まれと同時に死が決まってますよね。皆、必ず死にますよ。効率を優先したら、「生まれた、死んだ」でいいじゃない。
 まず自分自身の所作に喜びを感じられているのか。「今日、お天道さんが出ていることを幸せに思えているのか」「空を見上げる余裕はあるのか」村長さんは言うんですね。その時に、余裕があるんだって思い込むよりも、空を本当にじっくりと気兼ねなく見て、「あー幸せだな」って感じる。だから余裕があるっていうことになるんです。
 要は、その余裕があるなって感じる体験と時間を過ごしていないと、本当に心の余裕を得ているってことにはならない。「空を見上げていられる時間はあるのかい」って村長さんは言うわけですね。日本人は目の前のことをタスクでやっていませんか?という話なんです。 
 
 その部族って不思議な部族で、歴代の村長さんはシャーマンなんですね。シャーマンの子が村長になっていく。その村長のお父さんは、シャーマンで、チャネリングで夢の中でとある人に出会ったらしくて。過去に日本にいた縄文人と夢の中で会話をして、いろんなことを教わったらしいんですね。それを今の部族に教えて、今平和な世の中、穏やかな暮らしをしているんですよ。すごくないですか?アフリカのタンザニアという国で、僕は行ったこともないし、行くかどうかもわからないところの部族が、なぜか縄文の教えを教えているんですよ。

 日本人の青年が行った時に、「日本人はそんな風になっちゃったの」って村長さんは驚いたそうなんですね。 その人が教わった日本人と全然違う青年が来てるから。外見は日本人だけど、全く日本人としてというか、本来の縄文人としての余裕や所作を大事にするということがなくて。所作で言うと、必ず左足から外に出るなり、靴を履くなり決まっていたそうなんです。毎日この左足の感触、1歩踏み出した感触が「 あ、こういう感触なんだ」「あ、幸せだな」とか「今日はこういう感触なんだな」っていうのを確かめていく。所作の1つ1つに喜びを感じていたらしいんですよ。食事に関しても、すごく厳しく言われるそうなんですよね。「ただ作業で食べていない?昨日の食事、何を食べたか覚えている?」「昨日の食事の感動、今言える?」って。現代の日本人って作業的に三食食べようとか、もう決まったものを食べるってなっていませんか?
 
 僕は言えますよ。昨日の旅館の朝食で、アジの塩焼きがめちゃくちゃ美味しくて。最近、一日一食しか食べませんので、アジの頭から尻尾まで骨が柔らかいので全部食べました。すっからかん。骨の味ってわかりますか?骨って結構噛まないと危ないじゃないですか。 それも一日一食なので、「うわ、貴重なお魚だ」って感じなんです。それをこう噛みしめて、噛みしめて食べて、本当の意味で全てを、命をいただくっていうことなんです。だから今でもどんな味だったのか、どういう食感なのか語れます。
 
 例えば、江戸とかそんなに遠くない昭和30年代の人たちは感じていたんじゃないですか。江戸も縄文も本当に命をいただきますっていう文化は日本人だけなんです。神様に感謝しますという宗教的な国がほとんどの中で、いただきますって、何をいただきますかって言ったら「あなたの命をいただきます」「あなたと共に生きます」っていうことじゃないですか。でも、これ一日一食にしたからわかるんですよね。一日一食と断食を繰り返しているので、一食が本当にありがたいって思うわけですよね。アジを愛でて最後まで食べていく。「食」って一日三回もあったらタスクになるじゃないですか。忙しなく「はい、食べます」「昨日何食べたかな」ってなるのが普通なんですよ。でも、本来一大イベントじゃないですか。植物とか動物の命をいただいて自分の命に変えるっていうすごい尊いもののはずなのに、作業になって覚えていない。日本人はなんでそんなに生き急ぐのっていうことを言われていて。

 縄文人や江戸時代の人は、全てのものを無駄にしないで使っていて、いわゆる持続可能な社会、完璧な社会を作っていたわけじゃないですか。それをある時から破壊されて、全然違う方向に行った結果、目の前の日本人は全然違うから、その村長さんは焦ったらしいよね。皆に教えていた日本人と違う中身だから。それで、その村長さんは言うわけですね。「世界の希望は本当に日本人なんだ。そんな素晴らしい日本人が、この広い世界の中で1億人いるってすごいことなんだ」って話をするわけですね。希望だって。「我々は200人しかいない。でも、縄文時代の考え方を共振・共感できるような1億人の民族がいるってことはすごいことなんだ」って。そうなんですよね。オーストラリアとかメキシコって、国土はすごい広いんですけど、住めるところって限られていて、 ほとんど住めないとこなんですよね。日本で住めないところってありますか?この県だけはちょっと空白で人口いませんというところあります?あえて住まないだけで、住もうと思えば住めるじゃないですか。それだけ国土が豊かで、水が豊富にあって、そして穏やか。島国なんでやっぱり攻められないじゃないですか。この穏やかさっていうのは、この中にいると全くわからないですけど、本当に尊いものらしいですね。
 「2024〜25年劇的に世界は変わる中で、日本っていうのはお手本になりますよ。だから、その話をたくさん日本人にしなさい」って、その村長さんから青年は言われて日本に帰ってきて。部族に必ず報告しなきゃいけないらしくて、月末締めで今月は何百人に話しましたと報告しているらしいです。日本人の青年は今、何万何千何百回目で話してますってことを言えるらしいですよ。それぐらい衝撃的な話をしてくれるっていう。
 
 江戸時代に西洋の人たちが来た時に1番びっくりしたことは何だと思いますか?なんと不機嫌そうにしている人が1人もいなかったことらしいです。江戸時代、皆笑っていた。笑い声が溢れていたらしいんです。結構衝撃的ですよね。西洋人からすると衝撃的だったんです。不機嫌な人がいないっていう。

“作られた幸せ”、“本当の幸せ”

 我々が「なんとなく幸せ」って、今感じている幸せも尊いと思うんですけど、さっきちょっと話した、“作られた世界線の流れの中での幸せ”って教育されていませんか?「こういう人であるべき、こういう人は素晴らしい、こういう人生が幸せだよ、そうならない人はダメな人だよ」っていう、そういう流れの中で幸せを感じていませんか?実は、そう思わされていることであって、人としての本当の幸せっていうのは、 江戸時代や縄文時代の幸せだったと思うんですね。それが本当の幸せだよって、なんとなくそう思えるのは、”日本人である”という、この遺伝子からくるんですよね。
 

レプティリアンは、目には見えない存在でしょうか?どうやって人間を操っているのでしょうか?

 特に、この東北地方は縄文の遺跡が多いですよね。だから、波動的観点で言っても東北の人っていうのは、健康に興味がないんですよね。本来の自己免疫力とか、自然治癒力とか知っているはずなんですよ。自分がお医者さんで、自分で治せるものだっていうのが一人一人わかっていけば変わっていくと思います。
 東北の人を一言で言うとね、我慢強いというか、我慢しすぎなんですよ。我慢するっていうことに慣れさせられてる部分っていうのは非常にあるなと思いますね。

 正直いうと、我慢していいことってあまりないと思います。縄文マインドで“我慢しない”っていうのがあって、それは自分に素直でいるっていうこと、自分を愛するっていうこと、自分を愛でてあげるっていうことになると思うんですね。だって、我慢することで自分を痛めつけたいですか?
 そもそもその我慢思考はどこから来ているかっていうと、教育・文化・常識・道徳観がこの1番難しい質問に繋がってくると思います。「どうやって人間を操っていますか?」とありましたが、思考操作というより、要はそう思ってしまう、そういう思考になってしまう環境作りですよね。

 そもそも江戸時代の寺子屋で、識字率が世界ナンバー1で、読み書きそろばんまでできていた。もう完璧な状態だったのに、明治時代になってわざわざなんで小学校という大人数が同時に同じようなことをして、同じ時間で始まって終わって宿題を出されて、個性も違うのにやらされるの?って疑問に思いませんか?宿題やりたかったですか?自分でやりたいと思って宿題やっていましたか?なんかわからないけど、皆やっているからやっていたでしょ。その時点で「そういうもんだ」ってなっている。受け入れ過ぎるというか。本当にやりたいことですかって言ったら、宿題やりたい人は誰1人いないと思いますよ。子どもを見ていたらわかるじゃないですか。素直じゃないですか。子どもがやりたいことが、本当にやりたいことじゃないですか。でも、「こういう価値観ですよね」って、学校では自己評価を下げる教育をされますよね。

 こういう人がいました。「94点取れました」⇨「でも、100点じゃないよね」とか、「 100点取れました」⇨「でも、まだまだ上がいるよ」って。100点以上ってなんなんだろう、それでは自己評価は上がらないですよ。

自分の中の”レプティリアン的思考”

 レプティリアンって言ってますけど、自分がレプティリアンなんですよね。皆の中にレプティリアンがいるんですよ。レプティリアンっていうものがいたとしてもいなくてもどうでもよくて、正しさや常識とかそういう支配・コントロールをするために、価値観を押し付けて、そうしないものを罰することって皆ありませんか?
 子育てではママがレプティリアンじゃないですか。それが「良い・悪い」じゃなくて、代々続いていることが問題であって、それに気づいて違う方向に変えていくことはできるんじゃないでしょうかね。だって作られた流れですから、作り直したらいいんじゃないでしょうか。

 そういう意味では、全てを疑っていくっていうことは大事だと思います。自分のその価値観とか、自分の本当の気持ちですよね。自分で考えられなくなっている人は多いなと思います。

断られてから人生って始まります。

 やたら朝食の話ですいません。食が楽しくてしょうがないです。ホテルの朝食が美味しくて…福島はお米が美味しいですね。福島牛も食べましたし。朝、お釜を1個ずつ出してもらって、そこからよそって皆で分け合って食べたんですよ。福島の米が美味しくてしょうがないんですよ。でもね、皆一日一食とかダイエットにハマっていることもあって、どうしても米が余ってしまいますね。地元の人だと毎日食べているしと思うかもしれませんが、僕らからすると中々食べられるわけじゃないですよ。一日一食の人間なので、福島の農家さんが作ってくれたであろう美味しいお米を残したくないってなるわけですよ。三食食べていた頃だったら「残してもしょうがないね」ってなるかもしれない。皆さんだったらどうしますか?参加者Aさんだったらどうしますか?

ータッパーに入れて持って帰ります。

 おお、素晴らしい。拍手。いいじゃないですか。でね、ホテルの方に入れ物とかラップとか聞いてきてってお願いしたんですよ。お米すぐ腐らないじゃないですか。当日食べるに決まってるじゃないですか。昼間でお腹空くし、おにぎりにしたりできてハッピー、農家さんもハッピーみたいな。フードロスだとかね、社会問題、食料危機、SDGsだって散々言ってて、まさか持って帰ったら怒られるって思わないじゃないですか。聞いたら、あの、どんな風に断られたんでしたっけ。

ー衛生上お断りしていますと断られました。

 ですよね。そこから始まりますよね。断られてから人生って始まります。どうしていくんだって。「いやもうそういうルールなんでダメです」で諦めていいのかなと思ったんですよ。この米食べたいな、大切じゃんってなった時に、こっそり持って帰っても自己責任だし、怒られるわけないじゃん。
 これ、覚えておいてほしいんですけど、法律上ってことはあったとしても、強制とか義務化はできないですよ。なんとなくそういう雰囲気、義務っぽい、ルールっぽい感じは出されるけど、それは誰が決めたんですかっていう話です。しかも強制力はない状態。それをダメって言われたら「まあしょうがないよね」って聞く姿勢が出来上がっていませんか?

 僕にとってお米は大事。 皆さんにも色々な大切なものがあるんですよ。国が、親が、先生が、何かが「ダメ」って言ったら「はい」って聞くんですか?そのシチュエーションは些細なことです。それをどう捉えるかって、日々の考えって、行動に出るんですよね。「言われたら聞くもんだ」という自分の中の常識。でも、それって犯罪ですかね?だってお金は払っていますよね?どうせゴミ箱行きますよね?もったいないですよね? 「自己責任なので、持って帰らせてください」って本気でお願いしたら、その現場スタッフの方も「わかりました」ってなります。

 これからの時代、それが大事なんですよ。本当に大切なもののために、対立とか戦うのではなく、ちゃんとした自分の考えがあって、“本当に本気で情熱を持って伝えられるか”です。

 我々はその一食分を、娘のご飯にするために、持っていた皿に入れて持って帰るという選択をしました。「そんなこと?」「そんなに拘るの?」っていうことが大事だと思います。
 僕らからすると、福島の米がすごく美味しくて、ここじゃないと食べられないんですよ。この味はこのメンバーじゃないと食べられないんですよ。そうやって一日一食を大切に思えることが幸せに繋がっていくと僕は思いましたね。

 そして、教育ができるわけですよね。断られて終わりなのかと。そこからがスタートじゃないかという話です。2023〜25年、そういうことですね。自分の日常の中から疑問を持って、誰かから言われたからすぐに従う前に、“本当にそうなの?”という視点を持ってみてください。

 来年以降、どんどん自由がなくなっていきます。義務だの、不景気だの、またウイルスもあるでしょう。驚かしてきますね。その中に強制や義務はない。そう思わされているだけっていうことに気づいた方が良いです。必ず抜け道はあります。むしろ、そういう支配的な権力者は抜け道も用意しています。その抜け道を自分で調べて突破していくっていうことが大事になってくると思います。

 お米でできたじゃん。お米でできたら他でもできますよ。こういうルールだとしても、抜け道ってあります。人様にすごく迷惑かけることは良くないかもしれないけど、自己責任で、自分で責任を取れることは、簡単に従うのはこれからやめておいた方がいいと思います。

 支配者層とか権力者は従う人にフォーカスします。従えば従うだけずっとフォーカスされ続けます。むしろ、従わない人はフォーカスされません。意味がないので、興味がないです。だから、よくある話がワクチンの接種券。1回目、2回目を受けなかったら来なくなります。でも1回、2回と打つから3回目以降もくるんです。国も馬鹿じゃないですから。強制じゃないし、絶対打たせることはできないので、やらない人は放置します。
 すごく有名なインフルエンサーとかが大々的に声をあげると、見せしめ的に個人を狙われることはありますけど、名もなき庶民が別に従わなくても、罰則ではないことに関しては何も関与できないんです。正々堂々といたらいいと思います。
 強制っぽいことがあったとしても、必ず抜け道があるっていうこと。個人に対して反抗しようという意味じゃないですよ。いちいち友達や旦那に反抗しなさいという意味じゃなくて、「 はいはい、わかりましたよ」って言いながらも、大きなものに対して、「抜け道はないのかな」って自分で考えていくこと。日常の些細な選択の中から、そういう風に自分で考えるっていうことは、実は非常に重要になってくると思います。

子育て前と今の心境の変化はありましたか?

 まあ、あるでしょうね。なんて答えたらいいんでしょうね。「ありました、はい」で終わりなんですけども(笑)
 
 僕にとってチームメンバー全員、自分の子どもだと思っています。年長者だとしても、僕は子どもだと思っています。それくらい年齢とか関係なく、チームに入った順で自分より後に来る人たちは、全て自分を見て育っていくっていう意味で、自分が親みたいなものじゃないですか。なので、おかしなことも言えませんし、 変なことも言えませんし、強制ももちろんできない。 
 チームにおいて、ずっと子育てをしている感覚はありましたね。色々個性があるので、一人 一人どう育てていきますか、どう関わりますかって。そういう意識でいると、一人一人を大切にしようと思います。 もちろん、一時の感情はあるにしても、長期的に見た時にここに居続けてくれる限りは、自分の娘とか息子だと思いながら、接させていただいてるので、実の子どもも可愛いですけど、生まれたから「何か急に父性が湧き出た」みたいなことはあまりなくて。どちらかというと、介護職もやっているので、子育ては介護の延長線上みたいな感覚で、劇的な変化はないです。

変化し続ける人の強さ

 僕ではなく、奥さんはすごく変化をしました。奥さんは子どもに興味がないと思ったんです。本人も興味ないって言っていたんですよ。だから、結婚して6〜7年子どもがいない状況だったんですね。
 でも、生まれてからは立派なお母さんになっていくわけじゃないですか。その姿を見ての変化はありますね。「なるべく奥さんの迷惑にならないように生きていこう」みたいな変化はあるけど、「子どもにどうしてほしい」っていうのは一切ないです。
 夫婦関係も役割も変わるじゃないですか。常に変化していくので。それに対しては、その時の最善ですかね。「これでいいんだ」とか「私はこうだ」っていうよりも、変化し続ける人の方が強いと僕は思うので、常に変化していく。子どもも1歳4か月ぐらいですけど、どんどん変わるじゃないですか。それに対してどんどん合わせていかないといけないし、奥さんもどんどん変わっていくので、変化するごとに心境が変わっていきますし、それを楽しむ感覚ですね。別人になれるし、それが面白いなと思っています。

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