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水戸射爆撃場の歴史1

毎年多くの来園者が訪れる国営ひたち海浜公園をはじめとする常陸那珂地区は、戦後はアメリカ軍の水戸対地射爆撃場として、戦前は日本陸軍飛行学校として、江戸時代には千々乱風伝説が伝わる場所でした。
そんな歴史を紹介します。(勝田市史料Ⅴ 昭和57年1月発行から内容を再編しました)

水戸連隊の実弾射撃場

現在の国営ひたち海浜公園から村松に至る海岸は雄大な砂丘地帯だった。1900年ごろは半農半漁の前浜を除いて馬渡、長砂、照沼、村松と続く村落はいずれも海岸からやや離れた位置にあった。直線に近いゆるやかな弧をえがいた無住の砂丘地帯は、前浜から新川の川口まででも約3kmに達していた。この海岸が軍の実弾射撃場に好適地であることを発見し利用し始めたのが、水戸に移駐してきた歩兵第二連隊であった。歩兵第二連隊が千葉県の佐倉から水戸に移駐したのは1909年であった。
 前渡海岸が軍隊の実弾射撃場として恒常的に利用されはじめていたことは、1914年2月23日の前渡村議会での質疑・答弁からも知られる。春秋に水戸連隊の実弾射撃演習が行われ、そのたびに演習部隊の宿営などで村民が迷惑をうけ、村もまたこれら宿営にともなう出費を予算化せざるをえない実情が示されている。
当時の徴発令によれば、演習および行軍の軍隊長は宿舎の徴発をおこなうことができ、宿舎として指定された以上は市町村の便宜によって変更することは許されず、駐軍3日以内の宿営軍隊に対しては人馬の食糧をも供給することが義務づけられた。その実費は支払われる。徴発を拒否または忌避したもの、徴発命令どおりの処置を講じなかった市町村長などには、禁固刑と罰金刑とがあわせ科せられた。いくら住民が迷惑でも、この種の軍隊の要求に従わなければ刑罰が科せられた。
 前渡海岸を水戸連隊が実弾射撃場として常用する習慣は、昭和10年(1935)以前になくなっていたようである。恐らくは大正末期の軍縮時代以後、昭和初期に至る時期の世相を反映し、軍隊が地方住民の感情を配慮するようになった結果であると思われる。

非常時熱の高まりと爆撃演習

昭和6年に満州事変が起こり、国民の間に「非常時」熱が高まりはじめた。愛国号と名づけられた軍用飛行機の献納運動がさかんになり、ついには愛国飛行場献納運動にまで発展した。
 この愛国飛行場献納運動にいち早く名乗りをあげたのが平磯町。平磯町が名乗りをあげたのは、東京・札幌間航空路の着陸場としてであり、かならずしも「愛国飛行場」献納運動そのものというわけではなかった。1933年7月に前渡村が誘致運動を開始。前渡村の誘致運動に対して平磯町も巻返しに転じた。
 平磯町では町会協議会を開いて敷地寄付を決定し、帝国飛行協会に申しいれた。町の公式決定が行われたあとになって、飛行場の性格は民間航空用の飛行場から軍用飛行場へと切りかえられた。
 事態がこのまま進めば、陸軍の飛行場用地は平磯町になったかも知れない。しかし、陸軍航空隊の爆撃演習場として前渡海岸が使われるという事態がおこった。1936年5月8日、静岡県浜松から飛来した陸軍の爆撃機10機、偵察機5機は前渡村馬渡地内の砂上の標的に対し爆撃演習を行った。かつて歩兵の実弾射撃演習場であった前渡海岸は、航空機という花形兵器が登場するとともに、爆撃演習場として復活させられた。軍が広大な対地射爆撃場を有する飛行場を確保したいということになれば、その適地は前渡村であった。
…2へ続く

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