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水戸射爆撃場の歴史2

毎年多くの来園者が訪れる国営ひたち海浜公園をはじめとする常陸那珂地区は、戦後はアメリカ軍の水戸対地射爆撃場として、戦前は日本陸軍飛行学校として、江戸時代は千々乱風伝説が伝わる場所でした。
そんな歴史を紹介します。(勝田市史料Ⅴ 昭和57年1月発行から内容を再編しました)

水戸陸軍飛行学校設置

 1937年6月30日、水戸陸軍飛行学校の設置が発表された。計画によれば、将校学生50、下士官学生25、幹部候補生生徒100、少年飛行兵生徒320、計約500人を1年間に養成することになっていた。水戸陸軍飛行学校の職員定員は、将校各部将校および技師が69人、准士官以下155人であった。
 その後、日中戦争の経験にかんがみて、軍備充実計画の修正が行われ、1940年度予算をもって実施に移された。少年飛行兵の年間採用人員は2600人にたっし、うち戦技生徒約350人、通信生徒560人となった。航空士官学校で養成する士官候補生も一期650人うち通信50人が予定された。航空通信網の飛躍的拡充に対応するのが目的であった。
こうして、1940年に陸軍航空通信学校が新設された。同校は水戸南飛行場に設置された。水戸陸軍飛行学校は空中勤務者養成教育をもっぱらとすることになる。

水戸陸軍飛行学校

飛行場用地の買収

水戸陸軍飛行学校の設置にともない、航空本部は前渡村内の広大な土地の買収を開始した。買収に関する資料は敗戦時に全部焼却されて現存しない。幸なことに、当時前渡村助役が手帳にメモを残していた。
 最初に数字を明らかにしておく。買収面積は宅地819坪、田4町2畝、畑172町9反8畝、山林499町9反2畝、ほかに保安林75町9反3畝15歩、池沼3反9畝、合計753町5反1畝24歩葯753.5ヘクタール)であった。この面積は土地台帳の面積で、山林などは実測面積の3分の1程度の数字で表示されている。買収金額総額は約70万7790円、被買収地主数は278人、その内訳は、馬渡・長砂が111人、前浜が171人、ほかに長砂に所有地を持つ照沼在住者が3人となっている。
 飛行場用地の測量が行われたのは1937年であるが何月に開始されたのかわからない。この段階になってはじめて飛行学校設置の意向が役場に伝えられた。 これに対して、村としてどう対処するかを「今の時代のように部落懇談会開いたりとかはやってない。議会もやっていない」というありさまであった。すでに日中戦争が本格化し「戦争もたけなわで、どんどん部落に戦死者が出てきてる時代ですから」という空気のもとで、軍に対して発言できる状態ではなかった。

土地買収価格の問題

具体的な用地買収の問題になって、はじめて村役場が関与した。「価格も何もむこうの命令。買収官が大体評価を定めて、これだけということにね」というやり方で一方的に価格が決定された。
 決定した買収価格は「畑の最高が70円。一反当り70円、それから60円、山林が40円から35円というのはこの射爆撃場は砂山ですから、砂がたまってこう高いところや窪みがある。高いところは松が生育しないのでそういうところは35円」という評価であり、田と宅地の評価額は記録に残されていない。
 買収価格が示されたあと「個別に承諾はもらってありました。折衝でなく決まってから、早くいえば協力してくれということで」というやり方で買収が進められた。買収そのものや買収価格に対する不平の声は聞こえなかったという。「かわいい息子を戦地へ送って、名も知らないところに屍さらして帰ってこない家庭のことを考えますと、戦争に勝つために土地で用が足りるならどうぞ使って」という空気であったという。
 買収価格が安すぎるので、村会議員が陸軍省に陳情したが受入れられなかった。売渡のときに憲兵が立会っており、売渡証に調印せずに憲兵に逮捕されたものが1人あった。

土地を失った人びと

買収で特に大きな被害をうけたのは、耕地・宅地のすべてを買収された前浜の114戸、宅地・住居を買収されて移転を余儀なくされた馬渡の14戸、長砂の特に横道地区であった。
 馬渡の14戸は、移転補償4万645円を支払われたが、移転するにも「あの頃は戦争のさなかでセメント1俵、くぎ1本買うのも容易ではない」時代であった。助役は本部にかけあい、飛行場建設資材のなかから、セメント214袋、木材400束、7万4339石、釘60キログラム入12博などを払下げてもらった。もちろん無料ではなかった。
 長砂の場合「演習休みの前には畑に立ち入ってもさしつかえない」ことになっていた。しかし、前浜地区が飛行場であったのに対し、長砂地区は射爆撃場の標的設置場所で危険性が大きかった。
 1940年6月、長砂の代替耕地用地として55町22歩の県有林を4万7337円で払下げをうけた。はたして全面積のうちどの程度が耕地化できたかは確認できない。

勝倉官林の入植

前浜地区の耕地・宅地のすべてを失った24戸は、小作もしくは小自作に属する経営層の人びとであった。買収金の収入も少額であり、この収入によって新しい生業を確立する目途も立たなかった。
 この24戸の処遇に関心を示したのは県の特高警察であった。軍による土地の強制買収によって生業を失った農民たちが、反軍思想に走ることを恐れてのことであった。そこで24戸の入植用に勝倉の大平地区にある官有林36ヘクタールの払下げが実現した。
先祖以来の村を離れることを嫌って10戸は前浜に留まり実際に入植したのは14戸。14戸は入植したものの、わずかな被買収金以外には開拓資金もなく、まして開拓に必要な物資の配給の配慮をうけることもできなかった。入植者は言語に絶する苦労を続けた。

田中市郎兵衛先生頌徳碑

湊線金上駅から中根に通ずる路上左側、大平神社の手前に「謝恩田中市郎兵衛先生頌徳碑」が建っている。建碑の日付は1948年8月18日となっている。建碑者は勝倉官林入植者14人の連名である。飛行場用地買収によって故郷を追われた農民の怨念と、開拓の苦しさを思わせる碑文がきざみこまれている。
 「豪快仁侠の豪商」田中市郎兵衛の社会的性格についてはよくわからない。しかし、物資統制のきびしい時代に開拓者たちに地下足袋をはじめとする統制物資を贈ることができたということは、物資配給の表裏のルートに明るかったことを示す。正規の官庁ルートを通ずることなしにこの種の物資を調達することじたいが違法行為とされた時代に、あえてこのような「後援」を惜しむことのなかった田中の「仁侠」の背後には、警察の黙認があったのではないかとさえ推測することができる。
 勝倉官林の払下げは、思想対策にもとづく県特高課長の積極的な支援によって実現された。しかし、開拓に欠くことのできない物資の確保までは警察の関与できることではなかった。だが、物資の裏づけなしには開拓は不可能であり、県特高課長が推進した官林払下げは徒労となってしまう。こうしたことを考えると、県特高課の面目にかけても入植は成功させなければならなかった。ここに「仁侠の実業家」田中が表面に出て活躍する条件があったといえよう。

村の経済への影響

飛行場用地の買収と飛行学校の設置は、村の経済にどのような影響をもたらしたであろうか。
用地買収によって国有地となったので村の税収は減り、騒音その他演習による被害の補償は、個人が被った被害についてはともかく、村に対しては全くなかった。飛行学校設致後も、将校などの営外居住者は地元に住まず、したがって税金の面でも消費需要の面でも地元に無関係であった。下士官兵、学生、生徒の営内居住者は課税の対象とはならなかった。営内居住者も休日の外出日には水戸などに行ってしまうので、地元に金を落さなかった。地元民は当時の主燃料である薪も手に入らなくなって困ったというのである。村財政にとっても村民の生活にとっても経済的利益はなかった。
 飛行学校設置にともなう地元民への雇用の影響はどうであったか。「いはらき」紙上に「水戸飛行学校雇員募集」の記事がある。時期によって人員の増減はあったであろうが、かなりの人員を雇用したようである。もっとも整備といっても、技術・技能を必要とするものは正規の教育を受けた整備兵の仕事であったから、いわばその下での雑役に属する単純労働に従事したものであろうし、したがってその賃金も高いものではなかったといえよう。
…3へ続く

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