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水戸射爆撃場の歴史7

毎年多くの来園者が訪れる国営ひたち海浜公園をはじめとする常陸那珂地区は、戦後はアメリカ軍の水戸対地射爆撃場として、戦前は日本陸軍飛行学校として、江戸時代は千々乱風伝説が伝わる場所でした。
そんな歴史を紹介します。(勝田市史料Ⅴ 昭和57年1月発行から内容を再編しました)

米軍の射爆撃場へ

米軍演習場接収

太平洋戦争が終ったのち、戦争中に強制買上げされた旧軍用地の払下げ運動が各地で起こった。前渡村でも払下げ運動の動きがあったようである。「飛行場払下げ問題について県の了解を得て、いよいよ政府と交渉しようという時、米軍からの電話一本でこの射爆劇場は接収されてしまった」。
 占領軍の進駐後まもなく、茨城方面の司令官ロー大佐から水戸市長に対し「前渡飛行場敷地と建物一切を戦災復興のためこれを水戸市に交付する」という文書を渡された。この件は、水戸市長が大蔵省に呼びだされ、交付書の返還を要求され(土地・建物は国有財産であった)、水戸市長はこれに応じず、交付書の有効・無効をめぐっての貴族院での大蔵省に対する質問にまで発展した。このとき、大蔵省が払下げに応じていれば対地射爆撃場用地とならずにすんだかも知れない。
 以上のいきさつが、戦後まもない時期にこういう動きがあったことは注目される。
 占領軍が旧水戸飛行場跡地を軍用地として接収したのは、1946年6月1日。アメリカ軍の演習場としてであった。当初から爆撃演習場として使用されたようであり、演習事故に属する基地災害は爆弾投下によって発生している。講和条約発効以前は基地災害の実態はつかみにくい。1952年4月までは、どうにも隠すことのできない大きな災害しか記録に残されていない。
 記録されている事故としては、1947年10月9日、大字中根において爆弾投下により住宅および家財全壊、1947年10月23日、大字高野において爆弾投下により住宅大破、1人が負傷した。ほかに1948年までに、市域および周辺市町村において、死亡1人を含む交通事故4件が記録されている。

本格的な対地射爆拏場へ

1948年1月1日のマッカーサーの年頭の辞は、もはやポツダム宣言にもとづく民主化政策をすすめる意志がないことを明らかにした。請和条約が結ばれ、占領軍は撤退しなければならなかったが、1月6日、アメリカ陸軍長官ロイヤルは対日占領政策の転換を声明した。日本を東アジアの反共の防波堤として築きなおすというのが趣旨であった。
 戦後しだいに激しくなった米ソの対立によって「冷たい戦争」が開始された。アメリカは中国にかわって日本を東アジア安定の中心に育成し、ソ連と対抗する方針に転じた。占領の長期化と、日本の軍事基地化・経済的自立化という方針転換を明らかにしたのがロイヤル声明の趣旨であった。
 アメリカ占領軍の在日基地および沖繩基地の強化と永久基地建設が開始された。この動きのなかで、1949年3月15日、旧水戸飛行場は在日米空軍の地上射撃、爆撃用地として指定され、本格的な対地射爆撃場として使用されはじめた。
 これ以後、講和条約発効までの時期に記録されている飛行機による災害は、いずれも射撃による事故で、3件中2件までが死亡事故である。占領中の無権利状態にあった日本国民に対して、占領軍が「演習」という名目でいかに横暴にふるまったかがわかる。
1949年7月21日に馬渡で1人、1950年7月20日に馬渡で2人が、いずれも流弾で死亡した。24年8月29日にも平磯で流弾事故があったが死傷者は記録されていない。1950年8月以降に事故の記録がないのは、朝鮮戦争に米空軍機が出動したためであろう。この時期に交通事故なども4件発生しているが被害の内容は明らかでない。

水戸対地射爆撃場

射爆撃場の恒久化

1952年4月28日、講和条約が発効し、日本は占領状態から脱して独立した。しかし、同時に発効した日米安全保障条約(安保条約)によって、アメリカ軍は引きつづいて日本に駐留し基地を保有することになった。射爆撃場に関するアメリカ軍要員の犯罪はいずれも公務執行中の犯罪として処理された。
 水戸対地射爆撃場については「1952年4月28日、日本国との平和条約、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約、第三条に基づく行政協定などが発効になり、1952年7月26日、米国空軍の対地射爆施設区域に指定されて以来第五空軍ジョンソン基地に所属し、1960年10月横田基地所属となる」と記録されている(朝鮮戦争が開始される前、米空軍は戦闘機の全面的なジェット機への改編を実施に移した。1950年2月から開始された沖縄の基地拡張建設工專に引きつづいて、6月の朝鮮戦争開始直前から、本土の飛行場拡張工事が着手された。
 水戸対地射爆撃場は、もともと旧陸軍のフロペラ機時代に設置されたものであった。フロペラ機とジェット機ではスピードの差は比較にならない。プロペラ機時代の射爆撃場をそのままジェット機用に転用したのであるから、射爆撃場外への誤射・誤投下が日常的にくり返されることになった。

ゴードン事件

 講和条約の発効後、1960年の日米安全保障条約改定までは米空軍機による災害事故がもっとも多発した時期だった。これらの災害のなかでも、事故というより殺人であるといった方が適切な事件が、1957年8月2日に発生した。いわゆるゴードン事件であった。この日午後2時半ごろ埼玉県ジョンソン基地所属の連絡機(ジョン・ゴードン中尉操縦)が射爆撃場滑走路方向から超低空で飛来し、右の前車輪で女子を引っかけた。女子は首と胴を切断されて即死、男子は肝臓破裂でひん死の重傷を負い、連絡機はそのまま高度をあげたのち舞いもどって着陸した。現場は柱もない平坦な甘藷畑内の道路であった。
 ゴードン中尉機と思われる飛行機がその直前に、海水浴客でにぎわう阿字ヶ浦海水浴場上空を高度5、6mの超低空で飛んだという目撃者の証言もあり、明らかに故意の犯罪であったと推定された。米軍側は事故原因を異常高温による熱気流で飛行機の浮力がえられなかったための不可抗力とし、公務中の事件であると発表した。しかし、当時の気温は摂氏30度以下、微風で悪気流が発生するような気象条件は皆無であった。ゴードン中尉は日本側の取調に対し「過失」は認めたものの公務中を主張しつづけ、日本側はこれを認めて裁判権を放棄した。
…続く

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