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那珂湊に常磐線が通らなかった訳

私も常磐線が那珂湊に敷設されなかったのは地元の反対があったから、と思い込んでいましたが、単に線路を大きく曲げることが不合理であったためのようです。直線的に敷設した方がいいのでしょうから。
裏付けとなる直接的資料はないようですが。

茨城県知事安田定則のビジョンは、那珂港を商港軍港として整備し、水戸と連結して一大都市を築く、そのために鉄道を港町まで敷設しようとするものであったことがわかる。しかし、那珂港築造も進捗せず、また鉄道敷設も実現をみなかった。
この水戸線につづいて、日本鉄道海岸線敷設計画が実施され、明治30年には
水戸ー平間が開通した。のちに常磐線と称されたものである。県内鉄道の発達は、その路線からはずれた地域、とくに従来水運によっていた湊町や東茨城郡小川町などには、その発展に大きな打撃を与えることになった。
巷間伝えるところでは、日本鉄道海岸線は湊町を通過する計画であったのを、わざわざ断わったといい、また廻船業者や汽船会社など水運関係の人びとが反対した結果、路線からはずされたともいわれている。日本鉄道に、水戸から湊を迂回する海岸線の計画があったのか、あるいは反対が事実行なわれたのか、現在に徴すべき史料を見出し得ない。しかし、初代町長板橋善四郎や有志は、明治27年6月以前に、しきりに上京して日本鉄道会社に対し、海岸線の湊町通過を説き、その熱意は、社長以下のものをして感動させたが、地勢からいっても水戸からの迂回は如何ともしがたかったのだという(板橋善四郎君碑)。
おそらくは湊町を通過しない計画こそ当初からのものであり、町の有識者がいたずらに手をこまねき、千歳一遇の機を逸して衰退の原因をつくったのではあるまい。しかしながら、かすかに汽笛の音を聞くようになった明治30年以降は、時の趨勢にとり残されてゆくような焦燥が次第に町の情勢にも現われてくるのであった。

那珂湊の歴史

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