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【短編小説】脱獄


作・絵:橙怠惰


「楠谷!」と名前を呼ばれて振り返る。久しぶりだね、と太陽のように笑う青年に己の目を焦がした。不快にならない深い森のような香りが鼻を掠めると、ディオールで背伸びしていたあの頃の彼を思い出す。対してこの道中で見舞われた雨の匂いしかしない自身が恥ずかしくて猫背がちな背中をさらに丸めた。

さらに追い打ちをかけるようにパリッとした手入れの行き届いたシャツを着こなす爽やかな目の前の男に「待った?」なんて声を掛けられ、楠谷と呼ばれたその男は思わず盛大に顔を顰めた。楠谷は「今来たところ」と返すような人間ではない。


「……あんたから呼び出されるなんて、宝くじでも当てるぐらいの確率だと思ってた」

「僕も賭けだった。君がまだ昔のアカウントを使ってくれたおかげだよ」

「それ知ってる奴、今や家族以外じゃあんたぐらいだ」


この空間自体にアレルギーを持っているのかもしれないと思う程に自分の体が言うことを聞かなかった。ツヤツヤに磨きあげられたカウンターテーブルに座るよりも、テカテカな油でコーティングされていそうな汚いテーブルを置く場末の居酒屋の方が性に合っている、と。くたびれている上に皺くちゃなシャツを着ている自分が惨めになってくる。今すぐにでも帰りたい。

胸の内側がもぞもぞするのを何とか、押さえ込みながら伸びきった前髪で遮光する。もっと身体がこそばゆくなってきて、まるで杉の木が歩いてきて目の前に佇んでるような、今すぐ立ち上がりたい程の衝動だ。そんな杉の彼は、身悶える隣人を傍らにウィスキーサワー、と慣れた調子でバーテンダーに注文をかけていた。


「ウィスキーサワー?」

「ああ、カクテルだよ」

「……なんだ。ウィスキーがあるなら俺は」


ハイボール、と行きつけだった居酒屋でもよく耳にした酒の名前を口にすると、バーテンダーはニコリと笑って、「かしこまりました」と受け入れる。願わくは生ビールを注文したかったが、居酒屋の何倍も薄暗いバーカウンターの奥には、見たことも無いような酒瓶が並ぶだけでビールサーバーのような無骨な物は置いていなかった。そこからのバーテンダーの動きに無駄はなく、空のグラスから液体が錬成されていく。

値段に対してかなり少量の酒で果たしてここの常連は何が満たされるのか。安酒を溺れるように飲んでいた救えない過去を懐かしみ、ザラザラする顎に忙しなく触れる。特に話し合うことも、ここに呼び出された理由も分からない楠谷は口を開くことは無い。それに杉の彼も特に文句を言うこともなく、楠谷をじっと眺めていた。


「大学から変わらないね」

「俺がか?」

「うん」

「だとしたら相当目が腐ってるな」

「変わらないから、君が楠谷だってすぐ分かったんだろう」

「誤魔化さなくていい。見た目は変わってるだろ。……このバーに1番似合わない奴を探しゃ、俺になる」


昔から風変わりな男だった。爽やかな風貌は昔からで、彼が女子にモテていた事を楠谷は知っていた。しかし、杉の彼は所謂「陽キャ」と括られるようなグループの人とつるむ事はせず、自ら1人になって本を読み、サークルにも所属せずに颯爽と帰って行く人間であった。

「陰キャ」と括られる性格に属していた楠谷は人と接することが苦手であり、1人で作業に没頭するような男だったが、杉の彼のように容姿端麗ともいかず、学生生活の中で腐っていった。

そんなある日に、彼は声をかけてきたのだ。事の発端が何だったか分からない。彼とは卒業まで一緒に家路に着いては、家族と友達数人しか登録されていないLINEで会話をする日々が続いた。裏で人気がある彼が陰キャの楠谷とつるんでいる。そういう意味で杉の彼は話題をかっさらった男ではあったが、まさかその後、彼からまたLINEが来るとは楠谷は微塵も思わなかった。


「こちらがウィスキーサワー、そしてこちらがハイボールです」


永遠に感じられた気まずく長い沈黙を破ってバーテンダーがグラスを差し出した。ハイボールのグラスはコリンズグラス、ウィスキーサワーを受け取る彼のグラスは正方形に近いロックグラスのようなものだ。居酒屋で見かけるような酒はどれもこれもジョッキのように大きなグラスに入っているものばかりであるのに対し、このハイボールは上品に手のひらで収まるサイズで、またアレルギーのようなソワソワした気持ちがぶり返す。一気に煽りたい気分ではあったが、すぐ空にするものならもっといたたまれなくなる事が察せたために、すぐに手をつけれずに居た。


「じゃあ、君の出所に」

「……おう」

「乾杯」


一口飲んで、改めてその事実が突き刺さる。3年。楠谷は絶望した。こんなに濃くハッキリとしたハイボールを今まで自分は飲んできただろうか、と思うより先にウィスキーが胸を焼く。


まともに生きてきたつもりだった。容姿端麗とはいかずとも、多少頭脳に長けた楠谷は卒業後すぐに就活を終え、職を手に入れた。大人しく、人とのコミュニケーションが酷く軽薄だった彼は人の心理を掴んで営業の仮面を被って二重人格のように愛想を振りまき、業績を伸ばした。残業も進んで行った。過小評価の賃金でも文句を言うことなく、口うるさく傲慢な社長や裏で値踏みする同期や先輩にも目もくれず、ひたすら馬車馬の如く働いた。今はどうだ。ハイボールから覗く目は、職を手に入れてから得た営業フェイスを刑務所に置き忘れ、廃人のように虚ろだった。

金に困った訳では無い。何か罪を犯したい衝動に駆られた訳でもなく、楠谷は職場の仕組み、ひいてはこの国のシステムに憤りを覚えたのだった。

本当に突然の衝動だった。ぷつんと糸が切れるように。ただ少ない金で多くの物事を要求するこの世を真っ当に生きるのがしんどくなっただけ。刑務所の方がまだ生きやすい生活があるはずだ、と微かな希望を抱いたのだった。

しかし、彼は人を殺す大罪に踏みきる勇気がつかなかった。職場で窃盗や恐喝、傷害を重ねが、人にナイフを向ける手は震えていた。

誰かを傷つけたいという気持ちも微塵もなかった彼にとって、人の肌をナイフで軽く裂いたあの手応えは殺人に等しかった。あれほど恐怖を感じた瞬間はあってはならないことだ。

初犯で殺人も犯していなかったために、たった3年で楠谷は釈放された。これまでにないほどの絶望だ。残されたのは前科持ちで、人を殺す程の悪をも持たない、社会的にもっと惨めになっただけの己だけだった。


杉の彼は数年間の生き生きとした楠谷の姿を知らずにいる。まだマシであったであろうその数年間の己を見ることなく、自らの葬り去りたい過去ばかりを覗き、変わらないと宣う杉の彼に少しずつ苛立ちが芽生え始めた。

遠慮がちにグラスを傾けていた楠谷とは裏腹に、一気に彼は3分の1を空けた。


「……君の目を見ればすぐに楠谷だって分かるさ」

「どうして」

「常に君は不満そうな目をしていたから。……今も昔も変わってない」


新聞の一角に己の名前が並び、噂が伝播していく。犯罪者に成り下がり、誰一人として楠谷に目を向けることがなかった中、唯一メッセージを楠谷に寄越してきたのがこの男だった。


「何が分かるんだ。あんたに」


触れたくない、腐って柔くなった部分を素手で触れにかかる杉の彼を楠谷は首を振って静止する。いつも飲んでいた安酒より濃いウィスキーのアルコールに頭がくらくらした。杉の彼はバツが悪そうに眉尻を下げてからごめんと呟く。


「……分からない、何も。でも、君を呼んだ理由はそこにあるんだ」

「…………そうか」

「一度、君を営業先のオフィスで見かけたことがあった」


話し始めるのに勇気がいるんだ、と言いたげに杉の彼はまた3分の1を一口で煽る。釣られて楠谷もグラスを傾けると、グラスを握りしめた指の間から結露した水が伝う。中で溶けた氷は酒との比重で浮き上がり、居酒屋のような薄酒の味が広がった。


「もうその会社はやめたんだけどね。……名前を聞かなきゃ、君だって分からなかったんだ。だって、あまりにも知ってる君じゃなかったから」

「そうか」

「君はもう大学の頃とは違うんだなぁって思った。でも、ニュースで君を見た時に思ったんだ。まだ君はあの時のまま変わってない。……そう、まだ君は何かが不満だった!」

「だからなんなんだ」


徐々に声がクレッシェンドしていく杉の彼に思わずたじろぐ。どうやら今この瞬間、この静かなバーに馴染めているのは楠谷の方だったようだ。楠谷の放った冷たく静かな一言に目を覚ました彼は、いたたまれなさそうに咳をひとつしてから、また言葉を零していく。


「役者だよ」

「は?」

「君は役者さ。自分のプライベートな部分を上手に隠して虚の己を作り出す……」

「それで?」

「そして君は金を盗むでも無く、人を殺めるでも無く、ナイフを振り回しながら職場に現れたわけだ。そして、君は動機としてこう言った。『少ない金で多くの物事を要求するこの世を真っ当に生きるのがしんどくなった』って」


朝ごはんを食べる時間を惜しんでスーツを着込み、新聞を読みながら電車に揺られ、残業や休日返上を当たり前のように行って業務をこなし、電車がゆりかごとなって夜を過ごす。フラストレーションしか溜まらないような日常を自分はよくも数年続けたなと楠谷は心の中で呟いた。

新聞の一面を飾るは己の醜い部分を隠そうともしない人間達ばかりで、これからを生きる人間の未来の門を徐々に閉ざしていく。自身がその門を通る時に、果たして扉が数ミリでも開いているのだろうか。社畜と言える自分の境遇を未来の己が報いてくれる保証はこれっぽっちも無い。

そうだ。だから、アルバイトが突然職場を欠勤するような気軽さでナイフを持てたのかもしれない。これは、言わば転職活動だった。3年でまた仕事を探す日常へと戻ってしまったが。


「ずっと君はそれが不満だったのかなって思ったんだ。だから、ほら。今もその目をしてる。昔からきっと君は周りの環境が窮屈で仕方なかったんだろ?もっと自由に生きたかった。……違うかい?ねえどうだい、僕の推理は」

「ギリギリ可を付けてやる」

「あはは、なんとか単位は貰えそうだね」


全てを見透かされているような自信ありげな杉の彼の圧に負けて、視線を逸らす。彼の視線は目の奥、さらに向こうを透かすほど、誤魔化しなんて通用しないほど真っ直ぐに己を貫いてくる。対して楠谷が躊躇いがちに目を合わせようとも、彼がこれから言わんとしていることに検討がつかない。素直で堅実、しかし一切気持ちを捉えさせないその目は大学の頃の杉の彼にはなかった視線だ。初めて視線を逸らした彼は残る3分の1の酒を眺めて言った。


「……だからさ。不真面目に生きてみないかな……と思って。……提案だよ。えっと、つまり、僕と一緒にビジネスをやってほしいんだ」


視線からは想像もつかないよう、自信がない声と突拍子もない話題に楠谷のペースはさらに崩されていく。沈黙が流れる。楠谷は静かにその後を待ったが、彼は忙しなくグラスに口をつけて酒を削るように飲んでいた。


「……ビジネス?」

「そう。一攫千金を狙えるんだ」

「そんな美味い話があるか」


それが分かっているのなら刑務所の年間は必要なかったし、さらには己がナイフを振り回す理由もなかった。多くを求められても多くを報いる社会……もとい、自分が立てる場があればそれで良かったのだ。


「あるんだ。この世を舐めきったビジネスだ」

「……そうか」

「君じゃなきゃダメなんだ」


何かときな臭い彼の話し方や話の展開に怪訝な目を飛ばす。杉の彼は楠谷の方へ体を寄せながらナンパ男のように口説き倒す。ときめきの一筋すら感じない楠谷は、女子はイチコロなんだろうな、と彼を見ながらハイボールのグラスを傾けた。体に染みるアルコールは自然に体に馴染んでいき、胃へ落下した。その後も彼は早酒で回ったアルコールに言葉を乗せて加速する。杉の彼が行っている“ビジネス”は正直信じるに足らない内容ではあった。ビジネスを本で読んだだけで実践したがるばかりの大学生が思いつきそうな夢話で、楠谷は半ば笑いながらその話を肴にしてハイボールを空けていく。


「確かに舐めきってやがる」

「……っていうのが一応表向きさ」

「表向き?」

「楠谷、また前のような仕事へ戻りたいと思ってる?」


カウンターの上に置かれた手が忙しなく組まれては解かれる。何故こんなにもすぐに彼が話を続けないのか、楠谷は少しずつ理解し始めていた。しかし、あくまでも杉の彼のペースで、と今度は楠谷が残ったハイボールの3分の1を一気に飲み下した。カラン、とようやく氷が軽快な音を立てて均衡を崩し始める。


「仕方ないだろ。前科がつきゃ、仕事なんて選べない」

「なら、この話は君にとって魅力的なはずなんだ」

「さっきからあんたは何が言いたいんだ」

「君しかいないって、僕言ったよね?理由は君がこの世に不満があるから。……だからさ」


だから、この世を騙して生きていかない?

時が止まったように頭が冴える。その一言がチェイサーのように冷たく体に染み渡った。表向きだと言ったそのビジネスの裏を返せば、つまりは、この世のシステムの間をすり抜けるような、そんな綱渡りである。


「……詐欺か?」

「君次第さ。僕は君のその不満と演技力を買いたいんだ。選べない君に、新しい選択肢として」

「買い被り過ぎだ。止せ」


買われるほどの物でもない、と楠谷は独りごちた。そんな事よりも楠谷には杉の彼が犯罪の道を辿っている事に驚きを隠せなかった。その爽やかな顔立ちを飾るそのスーツ、その香水、その靴までもがその金から錬成されていると思うと、楠谷はさらに彼が遠い存在のように思えた。捕まる事なく、のうのうと隣で酒を飲む彼を楠谷は見つめた。


「あんたは何が不満なんだ」

「僕はお金が欲しいだけだよ。金があればなんでもできる。逆になければ弱者だ。いくらあっても、あるに越したことはない」

「……俺が今、通報したらどうする?」

「証拠はないでしょ?捕まりたくないから綿密にやってるだけ」


これが僕のビジネスだ、と笑顔で返す杉の彼にようやく楠谷は納得がいった。この笑顔で人は惑わされていくのだと。今この交渉の場に立っている彼すらも信じられない。彼は楠谷を騙しているだけかもしれない。しかし、騙したとして楠谷から杉の彼は何も得られないだろう。金なし、宿なし、これからのライフプランすらお先真っ暗である楠谷は、翌日からハローワークへ足繁く通うことになる。見栄えもしない手取りに、簡単なお仕事という名の重労働を課す。そう考えれば詐欺を行っているのは、そう言った会社なのかもしれない。目の前の杉の彼はウィスキーサワーを全て飲み干して、またあの濁りのない目で問うた。


「どう?」

「どうって……」

「……君の本心を隠した演技と僕の計画、2つがあれば完璧なんだ。……お願いだよ」


大学の時の彼はこんなに積極的であっただろうか。きっと杉の彼も何かしら思う所があったのかもしれない。大学生活の中で知り得なかった過去、それからの未来で何か。オフィス勤務で杉の彼と知らず知らずのうちにすれ違っていたと言うあの瞬間、彼が声をかけてくれれば、自分が気付いていれば何か変わったのかもしれない。

犯罪は悪い事だという己の倫理観が崩れかけて踏み留まる。ナイフで同僚の肌を切ったあの感触、己の良心が痛んだその気持ちを忘れていいものかと。しかしこれからの人生、もう何も持たない彼にとっては絶望的で、自身を報う未来への門は既に閉じ切っているように思えた。しかし、と楠谷は振り切るようにハイボールを一気に下した。


「じゃあ、言い方を変えようか。捕まらなければ一攫千金、捕まっても刑務所で最低限の人の生活は保障されるんだ」


ガラン、と氷がそこへ崩れ落ちていく。杉の彼の眼は全てを捉えている。彼が詐欺を働くことが出来るのはきっと、相手の欲しい物をいち早く捕捉し、それを提示することが出来るからだろう。

例え彼に法螺を吹かれていようが、楠谷には失うものが無い。毒を食らわば皿まで、と言うように一度毒に手を伸ばしてしまったのなら、彼の道化に付き合ってしまうのも悪くない選択肢なのだろう。もし捕まろうと、楠谷には待ち焦がれている場所があるからだ。

そこまで恐らく彼は計算したうえで、楠谷に提案しているのだろう。どこに転ぼうが、お釣りが来るような美味い話に楠谷は唾を飲む。


「舐めきってやがる」

「……よく言われるよ」


最後まで杉の彼は判断を楠谷へ委ねる。ぐらつく倫理観に彼は手を一切差し伸べない。結局、踏みとどまるも崩壊させるも己の意思次第なのだ。

ブタ箱とはよく言ったものである。家畜を形容しておきながら、結局人間の日々の食には欠かせないものに変わりはない。故に大事に飼われる彼らは社畜などよりも、良い生活をしているように見受けられるのだった。きっと彼らからしたらこの上ない幸せな場所なのかもしれないのに。


「……責任もって俺をキャリーしやがれ」

「そうこなくちゃ!」


杉の彼の前で初めて笑顔を見せた楠谷は、バーテンダーに改めてハイボールを注文する。追うように杉の彼もハイボールを追加した。バーテンダーは飲み切ったグラスを引き、ウィスキーをグラスに注ぐ。手際の良さを横目に眺めながら、杉の彼は嬉しそうに笑う。到着時に見せた笑顔とも、ビジネスを騙る笑顔とも違うその笑顔は、確かに大学からの帰り道で他愛もない話交わした時の笑顔だった。


「懐かしいね」

「どこがだ」


そういえば、沈黙があっても気まずくならない関係が心地よい友情であると、過去の杉の彼は言ったことを思い出す。出来上がったハイボールを受け取った後も、束の間の沈黙が流れる。この心地よさがきっとバーのいい所なんだろうな、と楠谷は居酒屋での過去に思いを巡らせた。

特段中身のない会話を繰り返した虚の友の顔をもう思い出すことは出来ない。とうに見悶えるようなバーに対する気まずさを忘れた楠谷の背筋は伸びていく。杉の彼と楠谷は同じ酒が入った同じ形のグラスを持ち上げ、乾杯の音頭もなく、ガラスの触れ合う音をそっとバーに響かせた。



ハイボール:誕生

ウィスキーサワー:堅実

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