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『雨どもよ』

作: みそ


    そういえば君が寒がりだってことを僕はすっかり忘れていた。剥き出しの太ももに触れた僕は、君に似つかわぬそのザラつきに思わず体をこわばらせた。
    6月の公園の、小さな東屋に取り残された僕たちはとっくに喋ることもやめてしまっていた。雨が東屋の屋根を叩き、ベンチから投げ出された僕たちの足の少し先を濡らす。地面に打ち付けられた雨垂れどもは苦痛かはたまた快楽の声を上げながら体を散らし、軒下の領土を着実に拡大していた。この光景を見ながらどれほどの時間が経過しただろう、時折車が通る気配がする他には何もない、冷たく賑やかな静寂だった。
    僕は決して温もりを求めたわけではない。ただ視界の端に映る君は、今思うと少しだけ震えていたのかもしれない。だから僕の手が君に触れたのは必然で、僕はきっと君を安心させたかったんだと思う。それなのに僕の手はひとたび君に触れるとすぐさま君を拒んだ。行き場を失った僕の左手は、僕の元へ帰ってくるでもなく宙に漂っている。僕は君に目を向けた。ずっと隣に居たのに、ずいぶんと久しぶりに君を見た気がした。もしかすると、もう知らない人なのかもしれないとすら思えた。「寒い?」という、答えのわかりきった問いが喉から出かかったけど、君の目が僕を見つめると何も言葉を発することが出来なかった。僕は再び君に触れ、今度は優しく、ゆっくりと撫でた。冷たく震える君の足はまるで恐怖に晒された子猫のようで、我が身を守ろうと逆立たせた毛を、僕はゆっくりと、繰り返し撫でるだけ。そうやって君の奥底に閉じ込められた温もりを取り出そうとしていた。
    僕の手がそれ自身で君を温めることは出来ないし、別に僕が君に温めてもらおうとも期待はしていない。僕たち二人はいつからか、そんな二人になっていた。そんな二人だけを取り残した世界、ベンチの上に僕たちがいるだけの世界か、東屋の下で濡れていない範囲の世界か、もう少し広くてこの公園という世界か、この世界は黙って雨を受け入れた。決して抗わず、じわじわとテリトリーを広げる水溜りを野放しにしている。
    僕は両手を自分の膝について立ち上がった。硬いベンチから剥がされたお尻が痛みを伴う。君の後ろに回り込み、僕が着ていた薄手の上着を君の肩に掛けてみる。君は僅かに振り返り、ありがとうと言った。雨音に消えてしまいそうなほど頼りない声だった。再び前に顔を向けた君は両手で肩を抱え込んだ。少し背中を丸め、まるで僕の温もりごと羽織るかのように、僕の着せた上着に深く身をうずめた。それなのに僕は、僕の温もりは、徐々にその服から失われ、五分もすれば冷たい布切れになってしまうという。
    傘がないわけじゃない。でも僕のは骨が一本折れているので、あまり使う気になれないのも事実だ。ただそもそも僕たちはここで雨宿りをしているわけではない。僕たちは今日、ここに雨を聞きに来たのだ。おこがましいことに、濡れることなく雨を鑑賞する魂胆でここにいる。そんな僕たちなので、傘があったとてこの東屋から出る気はないのだと、僕はそう思っていた。君はきっと今でもそう思っているのだろう。小刻みに震える体は、雨が地面を叩いた振動を感じているからなのだろうか。東屋の屋根を流れる雨垂れは大地を巡る血液で、そしてこれほどの血液を押し流す心臓の鼓動こそが君のその震えなのかもしれない。僕は雨というより君の事ばかりを考えるようになってしまっている。仕方もない、もう随分と長いこと座っていたんだから。もう充分雨を見たし、雨を聞いたし、雨と向き合った。僕はそう思ってしまっている。でも君は違うんだろ。ここから君の顔は見えないが、水溜りが広がるほどに君の瞳孔も開いているに違いない。耳だってそう、音を聞くだけに飽き足らず、雨水を直接耳の穴に流し込んでしまいたいと考えているんだ。本当はこんな東屋を飛び出して、そこらの水溜りと同じように雨に打たれ体中を波紋だらけにしたいと思っている、きっとそうだ。
    いや、違う。まさか君がそんな変な人間なわけがない。訳の分からない想像をして、変なのは僕だった。空を埋め尽くした分厚い雲の向こう、見えない太陽はもうだいぶ西に傾いている頃。もし今雨が上がって晴れ間が差したら、水溜まりには何が映るだろう。これほど濁った水には青空なんて映りっこないさ。それじゃあ綺麗な水溜りに映る僕は綺麗なのだろうか。答えはまだ知りたくないから、もうしばらく雨よ降っていてくれ。波紋にまみれた水溜りの向こうには、重たい灰色がいる。
    君は何を考えているのだろう。僕の想像も及ばないことだろうか。きっとそれは半分だけ正解だ。君が頭を向けている先に、とうとう僕も目を向けた。なぜ今まで気づかなかったのだろう、そこには薄暗闇の中雨に打たれて首を不規則に揺らす紫陽花があった。青と赤と白と、そしてそれらの間のグラデーション、皆まるまるとした頭を緑から覗かせている。花の付け方が特徴的なのもあるが、あれも紫陽花なのだろうか。狭い範囲でこれでもかと彩りを誇示する姿はこの灰色に包まれた世界で、まるで希望の光だった。それなのに僕は今、君の後ろ姿越しに初めてそれを見つけた。
    「青が好き。」
    発せられたはずの僕の声はあまりにも細く、口から出た途端に霧の中に迷い込んだかのように消えていった。目の前に横たわる巨大な水溜りはとうとう東屋の下の世界を侵略し始めた。僕はその様子を、次第に怖いと感じるようになってきた。このまま放っておけば、雨は君の足先に到達するだろう。するといよいよ、君はさっき僕が想像したように雨に狂わされてしまうのではないだろうか。濡れたつま先で立ち上がり、奇妙なバレエを踊りながら雨の元へ飛び出してしまうのではなだろうか。僕の中に生まれた不安はみるみるうちに膨らみ、ついには僕を満たしてしまった。いっそこの不安が僕の中から飛び出して、その膨らみで水溜りどもを押し返してくれればいいのに。今となっては憎くすらあるこの雨を蹂躙できるなら僕は、僕の中に嵐が起こったって構わない。積乱雲が僕の目を覆って何も見えなくなっても、雷鳴が僕の中に轟いて何も聞こえなくなっても、暴風が目の前の霧を薙ぎ払ってくれるのであれば僕はそれでいい、それでいいとすら思えるほどに囚われてしまっていた。目を開けるのも怖いほどに僕は深く迷い込んでいた。
    「私は赤いのがいい。」
    突然、霧の中から声がした。僕が声を発してからどれほど時間が経っていただろう。その脈絡のないような、宙に向かって放たれたような言葉は、霧の中で彷徨う僕に向けられたものだろうか。確信はなかったが、僕はその声のする方へと歩きだした。恐れを抱きつつも真っ直ぐ進み、真っ直ぐ進むにつれて視界が鮮明になっていった。そしてとうとう霧を抜けたとき、向こうに紫陽花が見えた。そのはるか手前、僕のすぐ目の前にいる君は紫陽花を見ている。僕からは君の目が見えないけど、君が紫陽花を見ていると僕は確信していた。君は振り返らないが、震えはもう止まっている。赤らみを取り戻した君の頬に僕は冷たい手で触れてみた。君は体をびくりとこわばらせ反射的に顔を僕の手から避けた。そしてすぐに僕の手を握って自分の頬に押し当てると、また君は紫陽花を見つめていた。
    今となっては揺れる紫陽花が雨に打たれる音がはっきりと聞こえてくる。君の頬の温もりが、添えられた手の温もりが僕の手を伝って流れ込んでくる。僕の中に起こりかけた嵐は未然のままに去ってしまった。君の目が向けられた先、揺れる紫陽花はまるでいつか現れる太陽に虹を教える日を心待ちにしているようだった。
    昨夜のニュースによるとこの雨は、南で生まれた台風が下見に寄越した配下の雨雲によるものらしい。つまりまだしばらく雨は止まないし、明日の夜からは風が強まるそうだ。そうなったらきっと、僕たちはもうこのベンチには座っていられない。もしかすると君はそれでもここに残るのだろうか。僕は手が触れた頬と反対側から君の顔を覗き込んだ。君はチラッと僕を見て、またすぐに紫陽花を見つめる。僕も同じように紫陽花を見つめる。君と同じ目線の高さで見る紫陽花は、より一層大きく揺れている気がした。そんなに晴れが待ち遠しいか。ただの雨でこんなに揺れるお前が、果たして台風を乗り越えられるのか。心の中で紫陽花に問うてみたがもちろん返事なんてない。僕は自分で自分がバカらしく思えた。君の頬からサッと手を離し、ベンチの横に寝かされた傘を拾い上げる。東屋を出ると同時に傘を広げ、不格好なつま先歩きで水溜りを超える。君はきっと驚いただろう。僕は青い傘をくるくる回しながら自分も回っている。紫陽花は楽しげに揺れ僕まで愉快に回るもんだから、君はとうとう笑ってしまった。
















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