ガラスの花瓶
作:沫雪
寒い日だった。
透明な水に墨汁を一滴垂らしたような薄暗い雲に覆われた空は窮屈で、世界全体が色褪せて見えるようだった。張りつめた寒さがそれに拍車をかけるように身体を巡って、感覚を麻痺させてゆく。
灰色の世界の中で、床に散らばったガラスの花瓶と指から流れ落ちる紅い液体だけが嫌に鮮やかで、この部屋で唯一温度を感じさせるものだった。
ダイニングテーブルに花が置かれるようになったのはいつからだったか、もう覚えていない。ずっとそこにあったようにも、さっき突然現れたようにも感じる。お世辞にも日当たりのいいとは言えない部屋に飾られた鮮やかな一輪の花は酷く浮いていたはずなのに、無くなるとそこに穴が開いたような、ピースが一つ欠けたパズルのような違和感があった。
―足りないのは本当に花なのだろうか?
朧げな思考回路のなかでふと考える。そもそも花瓶を買った記憶も、花を生けた記憶もない。
かちゃり、と何かが噛み合う音。
一体いつから天気が変わっていない?最後に時計を見たのはいつだった?
カチコチ、と秒針が進む音。
最後に、自分と向き合ったのは、いつだった?
ガラリ、と世界が崩れる音。
枯れもしない、香りもしない、ひとりでに咲く花。何も入っていない、やけに透明な空っぽのガラスの花瓶。あぁそうか、これは、
「満たされない、行き場を失った、私の感情」
ぽたり、と涙が落ちる音。
世界が、再び動き出す音。
震える指先で触れたそれはあっけなく崩れ落ちて、バラバラになった気持ちだけが床に散らばった。そっと膝をついて拾い上げると、指先がじくじくと痛む。
怖い、不甲斐ない、逃げ出したい、泣きたい。
一つ拾うたびに、傷は増えていく。
羨ましい、理不尽だ、消えてしまいたい。
全部を拾い終わった後に残ったのは傷だらけの手と、耐えがたい痛みと、光が差し込む見慣れた自分の部屋。
足りないのは、花なんかじゃなかった。
「自分の気持ちを受け止める、覚悟」
痛くて苦しくて、でも前に進もうともがく覚悟。蓋をして押し込んで、見ないふりしていたものと向き合う覚悟。
「ごめんね、もう置いてけぼりになんてしない」
全部を抱きしめて、止まった時間を動かせた今の私ならきっと、きっと大丈夫。
傷だらけだった指は綺麗になって、冷え切っていた身体は体温を取り戻す。
寒い日々だった。
澄み切った青にオレンジを溶かし込んだような雲一つない空は広くて、世界に彩りを添えている。吸い込んだ空気は身体を巡って、心と身体を軽くしてゆく。
夜明けは、すぐそこだ。
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