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~清く正しきプリンスたち~ vol.1

リングに叫び、拳を突き上げたあの日。今もこの胸に燃えさかる熱き炎のファイターたちをイラストとエッセイで綴るプロレス讃歌!


~清く正しきプリンスたち~ vol.1

全国のプロレスファンの皆様こんばんは。『週刊アイアンクロー』編集長のチャーシュー・タケです。今週は“ラテンの魔豹”ペドロ・モラレスです。

イラスト 志賀コージ

●ラテンの情熱と嵐のドロップキック! ~昭和のプロレスファン憧れのプリンス~

ペドロ・モラレスのプロレスデビューはなんと16歳! その端正なマスクと華のある試合ぶりで、あっという間に人気者になったそうです。いち早く彼に目を付けたのが、あのフレッド・ブラッシー。自らが所属するWWAへと導くと一気にスタアとなり、WWA世界ヘビー級王者となるのです。1960年代はロサンゼルスを主戦場としていましたが、70年代に入るとニューヨークへ移り、ブルーノ・サンマルチノに代わってマジソン・スクエア・ガーデンの顔となり、WWWF世界ヘビー級王者として大人気を博しました。人種のルツボのニューヨークにおいて、同じプエルトリコの移民たちからの熱い声援を一身に受けて“ニューヨークの王様”として長く君臨したのです。身長は178㎝と小柄ながらも、まるでゴムまりのように弾けながら繰り出すスピーディーな技の数々に観客は魅了されました。
美しいドロップキックの名手であり、アメリカ修業時代の馬場さんにドロップキックを教えたんでしたね(出典:また『ジャイアント台風』)。178㎝のモラレスが、209㎝の馬場さんに手取り足取り教えている姿を想像すると、どこか微笑ましくも感じます(笑)。
日本のマットに登場したのが60年代の日本プロレスの頃。第8回ワールドリーグ戦でした。
70年代に入ると全日本プロレス、新日本プロレスに次々と参戦しました。イメージ的にはそれ以前よりもウエイトが増したように思えて、意外にプクプクとしていましたね。新日本では猪木とのNWF戦はあったものの、それほど強烈な印象は残っていないなぁ。どんどんと“過激な路線”へと移行していった新日本のリングには、シン、ハンセンらのヒールたちがトップとして君臨しており、コテコテのベビーフェイスにはいささか不利だったのかもしれないなぁ。

◼️『プロレスダイアリー甦える鉄の爪』は毎週木曜日に更新します。

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