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我が心のレジェンドたち vol.1
リングに叫び、拳を突き上げたあの日。今もこの胸に燃えさかる熱き炎のファイターたちをイラストとエッセイで綴るプロレス讃歌!
我が心のレジェンドたち vol.1
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全国のプロレスファンの皆様こんばんは。『週刊アイアンクロー』編集長のチャーシュー・タケです。記念すべき創刊号の表紙を飾るのは“東洋の巨人”ジャイアント馬場です。
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●君は32文ロケット砲を見たか?
~驚愕と哀愁の昭和王道プロレス~
ジャイアント馬場はプロ野球・読売巨人軍の投手でした。2軍では見事な実績を残すも1軍には定着することなく、怪我などもあって5年余りで野球を断念します。その後、当時一大ブームとなっていた「プロレス」の世界に身を投じ、“東洋の巨人”としてプロレス人生をスタートさせるのです。ジャイアント馬場の本名は馬場正平です。野球では大成することは叶いませんでしたが、大谷翔平が“ユニコーン”として熱狂の渦を巻き起こす60年以上前の昭和30年代の日本にも偉大なる“ショウヘイ”がいたのです。
さて、アントニオ猪木を神と崇める私ですが、人生初のプロレス観戦は馬場さんでした。
1973年7月、全日本の後楽園ホール大会。メインは馬場vsドリー・ファンク・ジュニアの王道プロレス。刃物の如き危うさの猪木流とは異質の、どこか哀愁漂うスタイルでしたね。
見たよ、この目で、32文ロケット砲。確かに飛んだよ。ふわっとね。
◼️『プロレスダイアリー甦える鉄の爪』は毎週木曜日に更新します。
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